下ごしらえ 八
化け物の動きが止まった。
否、通常では考えられないほどゆっくりとした速度に変わったのだ。ヨシツネの仕業だ。市村ヨネはその機を逃さず、全力で走り去っていく。
いや、三太に向かって走ってきた。
「ちょ、まっ──」
「うわぁあああんっ! ママ怖かったよぉおおお!」
「──ぐへっ!」
早い。
いくら三太の意識が弛緩していたとは言え、反応すら出来なかった。抱きついてくる勢いに負け、三太が倒れ込むと市村ヨネはものすごい力で抱きついてくる。錯乱しながら恐怖を訴える姿に圧倒され、三太はとりあえず宥めるしかなかった。
「いきなり、いきなり襲われたのっ! よだれ、よだれが臭くてキモくていきなり殺しにくるとあり得なさすぎぃいいいい!」
「わかっ、わかりましたから落ち着いて、あの、とりあえず苦しいから」
「あたしはもっと苦しかったのっ!」
あまりに支離滅裂な言動は危険な兆候である。三太自身にも経験がある。修練の一環で一月ほど山に籠った時のことだ。肉食の野生動物が多く、過酷な自然環境による極限状態で本能を優先しはじめた奴らがいた。そのせいか、修練を終えてからも人に戻ることも出来なかった奴まで現れる始末。三太自身は真面だっと言いたいが、さにあらず。自分では気づかなかったが言っていることが支離滅裂すぎて意思疎通できるようになるまで二月近く必要だったらしい。
まぁ、普段からろくに会話をしていなかったから限られた連中しか気づかなかったが。こうして思い返すだけで三喜夫達の存在のありがたみを感じる。
「ちょっと、ママの話聞いてるのっ!」
ママでもないし聞いてない。
その一言をぶつけられたらどれだけ楽だろうかと三太は考えたが、当然口に出すことはできない。そうなれば何倍の罵詈雑言が飛んでくるかわからないのだ。そもそも、こうなった連中に話が通じるわけもない。決して否定せずに宥めていくしかないのだ。
「は、はい、聞いてますから。とにかく落ち着きましょ、ね?」
ぎちぎちと三太の肋骨が悲鳴を上げている。というか、内臓まで飛び出しそう。当然ながら力づくでの抵抗は無意味だ。とにかく宥めるには何をすべきなのかと考え、頭を撫でてみた。
「あっ」
一瞬で抱きしめる力が緩んだ。
三太は焦らずに何度も何度も撫でてみる。何というか不思議な感覚である。というか、三太が誰かの頭を撫でたのは初めてではなかろうか。
同年代の使用人連中は自分よりも優秀だったし、存在を無視されるか距離を取られるだけだったのでこういう経験はなかった。妹がいればこういう行動も当たり前だったのだろうか。
「えへへへ」
かわいい。
美人は得だなと三太は下衆のような考えが浮かんだ。いや、もちろん三太に悪意があるわけではないが、この表情を見るとどうしてだかそう思ってしまうのだった。
「こら」
「あだっ!?」
夢中で撫で続けていたら、文七にふとももを蹴られた。地味に痛い。
「ぶ、文七さん?」
「ったく、もたもたしてんじゃねえっての」
不機嫌そうに文七は煙管を吹かした。
「ほれっ、時間がねえんだ! 食材集めなんての手間取っちゃしょうがねえだろうが!」
焚き付けるように文七は言う。その常とは違う態度に三太は面食らったが、それ以上の驚愕があった。
食材。
それがなにを意味しているのか、三太は考えたくなかった。
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