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第三章 月の真言 その2

 新月の夜、普段よりも一段と深い黒色に染まった夜の帳が降りる時。春の陽気は人の気配とともに身を潜めてしまい、少しばかり肌寒い。後宮の庭園に林立する桃木の枝葉も心なしか寒そうに震えているように、月花には見えた。

 誰もが寝静まった後宮は暗闇と静寂に包まれて不気味であり、板張りの廊下を踏みしめる度に床の軋む音が鳴り響く。

 提灯を持って先導する案内役の老婆の後に付き従う月花には、耳に障るこのギィという音が自分の心の悲鳴のように聞こえてならない。

 いや、違うか。これから実の父親ほど齢の離れた男に抱かれることを考えれば、もっと大声で泣き叫んだっていいはずだ。

 それでも、この後宮での生活は決して悪くなかった。先日、ようやく再会することができた雪介、いや羅雪に向かって放った言葉の半分くらいは、実のところ本音だった。

 皇帝の待つ寝室へと歩みを進める間、四年間の出来事を走馬灯のように回想してしまう。



 海賊に捕まった時は死を覚悟した。海賊が根城にしているどこかの港町に到着すると、月花は縄で縛られたまま見世物のように町中を引き立てられた。港町は海賊に占領されているのか、町人の中には同情の視線を向けてくれる人もいたが、助けてくれる人はいなかった。

 海賊は月花を捕らえたまま、港町の酒楼に雪崩れ込むと宴会を始めた。海から無事生還したことの祝宴だったのだろう。そして、酒で身体を暖めてから、月花にも手を伸ばすつもりのようだ。例え言葉はわからずとも、海賊が酒に酔った眼をこちらに向けて、下品な笑い声を上げているの見れば嫌でも理解できた。

 死のうと思った。せめて自分の身体が綺麗なうちに、舌を噛んであの世に逃げてしまおう。

 そんな覚悟を決めた時、金属が擦り合うような音があちこちから一斉に現れて、酒楼の中の空気が一変した。海賊達は慌てたように剣を抜き始めたかと思うと、次々に酒樽を蹴飛ばしながら酒楼を飛び出していき、辺りは騒然となる。

 何事が起こっているのか把握できずに、月花は怯えるばかりだったが、これ以上悪いことは起きないだろうと自分に言い聞かせる。

 やがて全ての音がなくなると、酒楼には海賊ではない別の一団が現れる。赤い甲冑に身を包んだ兵士の群衆である。彼らが歩く度に胸の甲冑が揺れてカチャカチャと音を立てている。先程から聞こえていた金属音の集まりは、彼らの甲冑が鳴る音だったようだ。国の正規軍が海賊を討伐に来たのだろう。月花の全身に暖かな安堵感が駆け巡っていく。

 彼らの中から一人、恐らくは指揮官ほどの立場にある一人の兵士が月花の元に歩み寄ると、剣で縄を断ち切ってくれた。


「あ、ありがとうございます」


 怯えつつも礼を述べると、兵士は兜の下で怪訝な表情を浮かべた。言葉が分からないようだ。

 拘束を解かれた月花に兵士は何やら早口で捲し立てているが、月花には何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 その後、兵士と意思疎通のため身振り手振りを何度も繰り返す羽目になった。月花が何度も自分を指差した後、水平線の向こうに指先を向けると、ようやく兵士は海の向こうから来たことを納得したようだった。月花がどうにかして帰る方法はないかと手の動きで訪ねたが、兵士は顔をしかめて首を振ってしまう。

 同じようなやり取りを続けたが、結局月花の帰る手段が見つからない。


「……これから、どうすればいいの」


 命こそ助かったものの、言葉の通じない見知らぬ土地で一人きりという現状を突き付けられ、月花は膝から崩れ落ちる。一度、希望を抱いてしまっただけに、絶望はより深かった。

 そんな月花に兵士は励ますように何度も声をかけている。


「え、あなたに付いていくの?」


 たぶん、そう言っているのだろう。兵士は自分の胸に手を当てて、水平線とは逆方向を指差している。月花をどこかへ連れて行こうとしているようだ。

 目の前の兵士を信用しても良いものか、若干の不安を抱く。しかし他に宛もなかった。この親切にしばらくは甘えるしか生きていく術がない。海賊に拐われたことに比べれば、遥かに状況は良くなっているはずだ。


「わ、分かりました」


 月花は内心の不安を拭い去ることはできなかったが、それでも懸命に笑顔を作って頷く。すると、兵士もどこか安堵したような微笑みを返した。その時、月花は、兵士の兜の下にある強面でも意外にも可愛らしい笑みを浮かべることができるのだと知った。

 すると兵士は自分の甲冑の胸部に手を当てて、何か単語のような言葉を発した。その後、月花の胸を指差す。


「……え、な、名前? ですか?」


 兵士の手ぶりからそう予想する。しかし、どう答えたよいものか。故郷の言葉でそのまま返答したとしても、兵士に通じるはずがない。

 困った月花がふと水平線を見つめると、そこに卵黄のように浮かぶ満月があった。反射的にその満月を指差して名乗った。


「つき。私の名前の意味は、つき、です」


 こうして月花は、華炎皇帝から絶大な信頼を置かれる希代の名将、『鋼鉄の蟷螂』こと王林に救われることとなった。



 王林将軍に興安に連れられた月花は、それから一年は穏やかな日々を過ごした。王林から直々に紅の言語や風習を学び、少しずつこの国に順応することが出来た。

 最初は不安でたまらなかった。もう二度と故郷の地を踏むことが出来ないのだと思うと胸が苦しくなって、夜に枕を濡らすことも度々あった。急に何もやる気が出なくなり、寝台から降りられなくなる日もあった。

 だが、そんな時でも王林は不器用ながらも優しくしてくれた。


「すまぬ、粥を作ろうとしたのだが、焦げてしまった。この歳でまだ男の独り身なもので、料理などほとんどしたことないのだ」


 恥ずかしそうに頭を掻きながら、どうやって作ったのか、黒焦げた米の乗った茶碗を突き出されると、寂しさよりも可笑しさの方が勝ってしまう。あれだけの海賊を倒した歴戦の勇士が炊事に四苦八苦しているのだと思うと、笑わずにいる方が難しい。


「わ、わたし、作ります。少し、料理、知っている」


 月花は覚えたばかりの紅の言葉で答えて、台所へと向かった。

 王林は月花の父親と同じくらいの年齢だったが、生活力というものがまるでなかった。そのため、居候させてもらっている身なので、何かの役に立とうと家事の代行を申し出た。そんなことはしなくてもよいと言われたが、何もせずに日々を過ごしている方が落ち着かないので、半ば強引に王林から家事の仕事を奪い取った。

 それが良い気分転換になったのだろう。毎日やる事があったお蔭で、不安を忘れられた。食材の買い出しなどをしている内に、いつの間にか近所付き合いも出来るようになっていた。

 そうして、気付けば一年の年月が流れていた。

 郷愁の念も落ち着き、他愛のない日々がこうして過ぎ行くのだろうと半ば悟り、それも悪くないかと思い始めていた頃、月花にとって二度目の転機が訪れることになる。


「……月花、そなたには後宮に入ってもらうことになりそうだ」


 ある日の夜。いつものように夕餉を前にした王林が、神妙な顔してそう告げた。

 ちなみに月花という名前は、王林が考えたつきの蓬莱風の名である。


「こ、後宮というと、……あの、蓬莱中の美女が集まると言う……。そ、そんな、私など、東夷の女が、そのようなところに呼ばれるわけが……」


 紅での暮らしも一年になると、後宮についての噂を耳にする機会はいくらでもあったため、予備知識は持っていた。月花は自分が選ばれたことにまず驚いた。


「そう卑下するな、そなたは紅の女に負けず劣らない美しさだぞ。そのそなたの評判がどこからか陛下の耳に入ってな、ぜひ一度、目にしたいと申されたのだ」

「それは、勿論、断れない、のでございますね。私は、将軍と共に暮らす日々がとても楽しかったですのが」


 あまりに急な話だったため、つい泣き言を口にしてしまった。

 王林の皺だらけの顔が苦悩のためにキュッと縮んだ。


「……すまぬ。他でもない陛下の命だ。儂にも断れん。……実のところ、そなたを保護してからというもの、いつかこういう日が来るのではないかと思っていた。……華炎様は、……陛下は欲望に憑りつかれておる。元々、貪欲な方ではあったが、それでも礼節は弁えていた。だが天下を統一したせいか、見境が無くなっておる。……特に、先日の虐殺はあまりに惨い」


 初めて聞いた王林の不満。

 だがそれも当然だと思う。

 華炎の悪評は留まることを知らず、興杏の街を少し歩いただけで嫌な話がいくらでも耳に入る。つい先日も、皇帝が亡くなった息子達の慰霊碑の前で、罪もない大勢の若者を生贄として斬り殺したという話を聞いたばかりである。

 乱世を治めた英雄と言われた華炎だが、今やその名声も地に落ちている。民衆に不満は日に日に蓄積されており爆発寸前であった。なぜ、王林ほどの大人物があのような皇帝に従っているのか、月花には不思議でならなかった。

 だが王林の頼みであれば、月花に断るという選択肢はない。

 月花は両手を床に置き、深々と頭を下げた。心からの感謝の意を表して。


「……ご安心ください。私は将軍に命を救われました。将軍が望むならば、喜んで陛下の元へと参りましょう。……この一年間、誠にありがとうございました」


 そう言ってからゆっくりと頭を上げると、王林の沈鬱そうな表情が目に入った。この一年間、まるで父と娘のように暮らしていたが、このような顔を見るのは初めてだった。

 それは、海賊に殺された実父の姿と、どこか重なって見えた。



 その後、月花は皇帝への御目通しを受けると、そのまま後宮に入ることを許された。

 後宮での生活は、今までの暮らしとは何もかもが違っていた。百姓のように田畑を耕したり、漁師のように海に出たり、商人のように物を売り買いする必要が無く、毎日決まった時間に食事をすることができた。一方で舞踊や音楽、詩の勉学の時間が決まっており、一日中拘束され逆らうことは許されない。しかし、一般庶民の暮らしに比べれば天国である。

 そんな後宮の生活に戸惑いはしたものの、元々都会的で華やかな文化に憧れを持っていた月花である。紅の最先端の舞踊や琵琶の演奏、詩の朗読にすぐに夢中になり、それらの知識や感性をみるみる磨いていった。

 その中でも舞踊は月花の得意分野となった。天性の才能があったのか、驚くほど身体に馴染み、古典的な踊りから最近の流行りの踊りまで一通り身に付けた。そして、ついには自分で創作できるまでに成長した。ちなみに花見の席で華炎に披露したのも、月花の自作の舞踏である。

 そんなこんなであっという間に時が過ぎて、いつの間にか、後宮で積み重ねた年月は王林と共に過ごした期間よりも長くなっていた。月花もすっかり宮女としての暮らしに染まっていたが、その間に皇帝からの誘いは一切なかった。

 東夷出身の女が物珍しかっただけで、私は皇帝の好みでは無かったのだ。

 後宮に入ってから三年、結局一度もお呼びは無かった。正直、拍子抜けだった。しかし、皇帝にご奉仕しなくても良いので幸運だと思っていた。

 宮女の中には陛下から毎晩のように身体を求められ、睡眠もままならない者もいた。それだけならばまだいい。つい先日には、寝屋を共にしたばっかりに蜘蛛を放った暗殺者と疑われて、弁明もままならずにその場で殺された者もいる。当然、皇帝を糾弾など出来ないため、宮女の死はそのまま闇へと葬られてしまった。

 かつての宮女達は陛下に呼ばれる夜を待ち焦がれていたものだが、今となっては死刑宣告の如く怯えている。

 そのため、花見の席の余興として舞を披露すると聞いた時、誰もが嫌な予感を抱いた。

 そして、その予感は最悪な形で的中した。

 あの時右足を失った宮女はすぐさま宮中の医師の下に運ばれたが、その後の容態までは、後宮内で実質的な軟禁状態にある月花達には分からず、知らされることもない。彼女が一命を取り留めたのか、あるいは死んだのかどうかすら分からない。

 しかし、どちらせによ、彼女が後宮に戻って来ることはない。右足を失ったことで、宮女としての生は絶たれてしまったのだ。

 花見以降、宮女達はまさに戦々恐々としていた。仲間の右足が斬り落とされる瞬間を目の当たりにしてしまったことで、その生々しさが脳裏から離れないのだろう。皇帝の寝屋に呼ばれぬよう、誰もが天に願っていた。

 そして、今朝、月花は後宮内の世話役を務める老婆から、こう告げられた。


「今晩、身体を清めておきなされ」


 それは、皇帝からの誘いがあったことの隠語である。断ることなど出来ない。その時、月花は自身に集まる宮女仲間の視線が同情と、そして安堵の色に染まっていることに気付いた。

 月花は深呼吸して、覚悟を決める。そう、静かに、決意を固めていた。



 後宮の廊下を歩きながら、この四年間を振り返っていた月花は、つい先日現れた幼馴染のことを思い出して苦笑する。

 我ながら下手な芝居だった。もう二度と会うことはないと諦めていたのに、まさか宮中にまで乗り込んでやって来るとは思わなかった。しかも紅の官吏にまでなるなんて。東夷という出自で登用試験に合格するまでには、きっと並大抵の苦労では無かっただろう。その努力を想う度に、申し訳なさと感謝の念が込み上げて来る。再会した時には、溢れ出そうになる涙を抑えるのに途方もない精神力を使うことになってしまった。

 でも、あれでよかったんだ。私なんかのために、彼がこれ以上苦労を背負う必要ない。彼の人生は彼自身のもの、私に捧げられるべきじゃない。

 それに今の私には、やるべきことがある。

 改めて決意を固めた時、先導していた世話役の老婆が足を止めて、先を月花に譲った。この先に、皇帝の待つ寝室がある。

 覚悟を決めて引き戸に歩み寄り、静かに開く。寝室の中で焚かれていた御香の匂いがぶわっと溢れ返り、鼻をくすぐった。


「失礼いたします」


 一言告げて中に入り、扉を閉める。外界と完全に隔絶された、皇帝の寝室という空間に閉じ込められる。まるで巨大な怪物に丸呑みにされたような気分だ。

 寝室は言うまでもなく豪奢だった。床には敷かれた幾何学模様の絨毯は、踏み締める度に若草の平原のような柔らかい感触で沈み込む。部屋の奥に置かれた天蓋付きの巨大な寝台は、夫婦が寄り添って横になっても十分な広さがある。寝台の上で皇帝がどのような行為プレイに及んでも対応できる特注品だろう。


「月花よ、よくぞ参った。さあ、おいで。可愛がってあげよう」


 寝台を覆う天蓋の垂れカーテンの奥から男のくぐもった声がした。

 花見の席で聞いた時と比べて、別人のように若々しく健康的な声だった。それとも男とは例えどれだけ心身を病んでいても、女を抱く前には元の調子を取り戻してしまう都合のよい生き物なのだろうか。

 そんなこと考えながら月花はゆっくりと寝台に近づく。垂れ幕の奥に横たわった人の影が見えた。

 このような男に、王林将軍は逆らえず、宮女達は怯え、紅の人々は嘆いている。

 この男がいる限り、将軍も宮女達も民衆も救われない。この男を野放しにすれば、また悪道を働くだろう。次に犠牲なるのは、また宮女達の誰かか、あるいは民衆か、もしくは王林将軍かもしれない。

 義憤を更に激しく焦がした月花は、その白魚のような手を頭に持って行く。そこには髪を団子状に纏めるために刺したかんざしがある。四年前に羅雪から贈られた大切な宝物だ。これを使うことには抵抗がある。

 でも、この男さえいなくなれば、一体どれほどの人々が救われることか。

 髪留めにしていたかんざしを引き抜くと、髪が解けてふわりと舞った。背中に触れる髪の感触が少しこそばゆい。

 寝台はすぐ目の前、垂れ幕を挟んだすぐ向かい側に皇帝の姿が見える。


「さあ、おいで」


 皇帝が手招きをしている。

 男の猫撫で声に生理的な嫌悪感が奔り、背筋にぞっと鳥肌が立つ。

 月花はかんざしを右手に握ったまま、寝台に飛び込んだ。垂れ幕を蹴飛ばし、皇帝の身体に向かって容赦なく右手を振り下ろす。かんざしの先端はこの日のために、庭園で拾った小石で密かに研いでいた。杭のように鋭く、寝室の壁に掛かった提灯の明かりを受けて短剣の刃のように輝いている。

 ありったけの憎悪を込めたかんざしは垂れ幕を絹のように容易く引き裂く。直後に、どすっと鈍い音と何かを貫いたような重々しい感触が月花の右腕に伝わった。だが、人を刺したにしてはあまりに軽く、返り血も噴き出さず、悲鳴も聞こえない。

 破れた垂れ幕の合間から自分が突き刺した物を覗く。そこにあったは寝具だけで、皇帝の姿はどこにもなかった。

 避けられたっ、と焦った瞬間、後頭部に大きな硬い手の感触があった。頭を掴まれたと悟った時には、すでに物凄い力で頭部を寝具に押し付けられていた。月花の視界が寝具の白色で漂白されて何も見えない。顔面が完全に塞がられる。

 寝台の上でもがいて抜け出そうとするが、皇帝の力は高齢とは思えないほど強靭で、獲物を咥えた獅子のように隙を見せない。


「……親父殿はこれを危惧していたのか。これでは酒の味見ではなく、毒見ではないか。息子に毒杯を飲ませようとするとは、全く恐ろしい方だ」


 姿は見えないが、月花の背後で笑いを押し殺したような男の声がする。

 皇帝の声か、いや、違う。似ているが声質があまりに若過ぎる。それに、つい最近どこかで聞いたような気もする。

 暴れながら考え続けていた月花の耳元に、男の声が囁かれる。


「月花、落ち着け。俺はそなたの標的ではないし、敵でもない。これ以上、暴れないならこの手を放してやる。よいな。分かったら、その物騒なかんざしを放せ」


 冷静な声色。殺気は感じない。一先ず、この言葉は信用しても良い。それに、不意打ちが失敗した今、純粋な力勝負で男に勝てる道理はない。これ以上抵抗したところで体力を消耗するだけで意味がない。

 月花は観念して、握り締めていたかんざしを放す。すると約束通り後頭部から男の手の感触が消え、寝具に押し付けていた剛力からも解放された。

 急いで寝台から飛び出し床に降り立つと、男の正体を視認する。

 艶やかな黒の長髪に切れ長の瞳、余裕を讃えるような笑みを唇に浮かべ、乱れた着物の合間から見えるしなやかな筋肉のついた身体は若々しい。肌は美白で体毛も薄いため、全体的に女性的な身体つきだが、間違いなく男だ。

 その人物を、月花は知っている。


「…………まさか、……華鉄、様? な、なぜ、このようなところに……」


 間違いなく皇太子の華鉄であった。先日、羅雪と共にいた少年が寝台の上に片膝を立てて座っていた。


「はてさて、これは少し話し合いが必要だな。そう怯えるな、そなたを罰するつもりはない。一応、そなたの事情は羅雪からある程度聞いているぞ、月花よ。確か、そなた達の故郷での呼び名は、つき、だったか?」


 華鉄は苦笑いを浮かべて、片言ながら月花の本名を口にする。


「ら、羅雪、から、私のことを……?」


 懐かしい名が呼ばれたので、月花は自然と面を上げていた。

 なぜ羅雪は私のことを華鉄様に教えたのだろう? いや、そもそも華鉄様との関係はどうなっているの。羅雪は未だ下級官吏の身のはず、幼馴染の私の話をするほど皇太子と親しい間柄となっているなんて、そんなことがあるのだろうか。

 そんな疑問が顔に出ていたのだろう。華鉄が喉を鳴らして笑い、月花の心の内を読んだかのように返答する。


「くくっ、そのように不思議に思うことないぞ。俺と羅雪は、共に皇帝を討つという目的を掲げた同志なのだからな。羅雪が惚れている相手のことくらい、知っていて当たり前であろう」


 そも当然と告げる。あまりに飄々とした言葉遣いであったため、つい聞き逃してしまうところだった。思わず我が耳を疑った。あろうことか、皇太子の口から皇帝を討つなどという物騒な発言が飛び出すはずがない。


「い、今、何と、おっしゃいましたか? こ、皇帝を……」

「ああ。皇帝を討つ。そのために、俺と羅雪は動いているのだ。……ふむ、まずはそなたにも我らの目的を打ち明けるとしようか」


 薄暗い部屋の中で、華鉄の不敵な微笑みが妖しく浮かんでいた。

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