第三章 月の真言 その1
はて、これは一体、何の因果だろうかと、華鉄は心の中で首を傾げざるを得なかった。
今、華鉄は例の桃李園に設けられた花見の席に座っている。だが前回と違ってもっと質素である。赤い布が被せられた長机と豪奢な造りの椅子、日差しと舞い降る花びら避けのために巨大な笠が頭上に開いていた。花見の会場としては申し分ない席だった。
問題なのは、目の前に父親、皇帝の華炎が座っていることだ。
これは二人きりの酒宴だった。
つい先日、まさにこの場所で羅雪に反乱の野望を明かしたばかりだというのに、今日はその皇帝陛下と酒を酌み交わすなど、何とも悪い冗談ではないか。
そもそも事の始まりは今日の早朝。皇帝の使いが華鉄の部屋に現れて、「久しぶりに親子水入れずで語り合いたい」という華炎からの言付けを置いて行った。気は進まなかったが無視することも出来ず、招かれた花見の席に向かい、長机を挟んで父親と顔を合わせることになった。
この花見の席にいるのは、華鉄と華炎の親子、そして華炎の護衛として王林が脇に控えていた。だが王林は花見の参加者ではなく、少し離れたところに直立不動の体勢で護衛をしている。
「……今日は呼び立ててすまなかったな。久しぶりにそなたと一献交わしたくなったのだ。……さあ、今日は無礼講だ。遠慮なく飲むがよい」
華炎がそう言って勧めるのは、二人の間に置かれた一個の酒壺だ。中から柄杓の柄が飛び出しており、互いに一つの酒壺を共有して飲み明かそう、ということらしい。
なるほど、こうした時でも毒の心配をしているのだな。俺に毒見をさせる腹か。
抜け目ない父親に感心し、実の息子に毒見役をさせる冷淡さには尊敬の念すら覚える。
しかし、華鉄は毒見役になっているなど露知らぬ素振りで、柄杓を酒壺から取り出すと、先端の器に唇をつけて中身を啜る。美酒であった。
華炎は息子の体調に異変がない事を確認してから、自らも柄杓に口をつける。
「さて、鉄よ。そなたは今年で幾つになるのかな」
「十七でございます、父上」
「……もう、そんな歳になるのか。ならば忠と寿が生きておれば、今頃は二人共、三十を超えていたのか。何と、光陰矢の如しとはよく言ったものだ」
華炎が柄杓を酒壺に戻しながら、しみじみと呟いた。
また始まったかと華鉄は内心思いつつ、しかめ面を隠すために酒の入った柄杓に口を付けた。
華忠と華寿とは華炎の第一子と二子であるが、現在、史料はほとんど残っていない。統一前の乱世の時代に生まれ、父親の華炎と共に戦場を駆け抜けたようだが、両者、天下の平定を見ることなく戦死したことだけが判明している。
そのため華炎がようやく天下統一を成した時には跡取りが残されていないという事態であり、紅を存続させるために一日でも早く男児を作る必要があったようだ。
華鉄は華炎の天下統一後に急ごしらえで作られた最初の子供というわけである。当然、二人の兄と面識はなく、華炎から二人の話を聞かされる度にどうでもよいことと聞き流していた。
華炎は天下統一の道半ばで亡くした華忠と華寿を深く愛していたようで、統一後の興杏に天に届かんばかりの巨大な慰霊碑を立てている。先の世界大戦の戦火を潜り抜けて現在まで残存しており、父親から息子への愛情の深さを感じることができる観光名所として、日夜大勢の親子連れが訪れている。
しかし、今でこそ観光地として名を馳せる慰霊碑であるが、建立当時の記録を紐解くと、建設の人夫として興安の住民は女子供まで駆り出されたとか、華忠と華寿のあの世での話し相手とするために、同じ年頃の若者数十人を慰霊碑の前で華炎自ら斬り殺しただとか、物騒な逸話がいくつも残っている。近年に慰霊碑の根元を発掘調査した際、若者の人骨が多数発見されたため、これらの逸話は虚構でなかったことが確認されている。
「ここ最近、夢の中で二人の声が聞こえるのだ。こちらに来いと、待っておりますと。儂を迎えに来ているのだ。……ああっ、恐ろしい。儂は、まだ死にたくない。この世に未練がある」
華炎が身震いすると、恐怖心を酒で薄めようと柄杓を口元まで運んだ。だがちゃんと飲めずに、口の端からダラダラと酒を零している。まるで痴ほうの老人である。
これが乱世を治めた英雄の末路かと思うと、華鉄は憐れみを覚える。
華炎の眼の縁はどす黒く、眠れていない証拠に深い隈が出来ている。頬は痩せこけているのに、身体には余計な脂肪がついており、特に腹が膨れて出ているのは暴飲暴食を繰り返す癖に運動をしていないせいだ。
「……しかもあの二人の声に混じって、かつての怨敵や死んだ家臣の声まで聞こえる。儂を恨み、妬み、復讐しようとする怨嗟の声を上げる亡者共。あの者達が地獄で儂が来るのを待ち構えているのだっ! ええいっ、忌々しいっ!」
華炎が右手の拳を長机に激しく叩きつけたため、酒壺の中身が荒波のように揺れた。
はてさて、親父殿には一体何が見えているのだろうか。
乱世の華炎は、同盟を結んだ相手を背中から刺し、卑劣な罠や策謀を用い、邪魔と分かれば民百姓であっても斬り捨て、焼き尽くした敵の土地に塩を撒くこともあった。乱世を乗り切るためには冷酷になるしかなかったのだろう。そのことへの理解は華鉄にもあったし、華炎も十分に自覚しているはずだ。だからこそ、華炎は死を恐れている。かつて自分が無残に殺した死者と地獄で同じ釜に入れられることが何よりも怖いのだ。
……哀れな。英雄と讃えられても所詮は人の子。他人の恨みつらみの恐ろしさを知っている。その恐怖を誤魔化すために、豪勢な酒と食事、そして女体の快楽など、飽くなき欲望へ逃避しようとする。胡散臭い宗教や呪術に凝っているのも、死を克服しようという思惑なのだろう。
「父上、夢見が悪いのであればお抱えの典医にご相談ください。きっと良薬を処方して下されることでしょう。私のような無学の者では良き知恵は思い浮かびません」
やんわりと告げると、華炎がはっと息を呑んで我に返る。
「ああ、すまんな。この話をするつもりでお前を呼んだのではない。……お前、相変わらず女遊びに興じているようだな」
咄嗟に問われて返事に窮した。
最近はご無沙汰ではあったが、かつては確かに興安の街の妓楼に足を運んでは酒と女に興じていた。実際のところ、華鉄は特別酒や女好きというわけでもなかった。無論、嫌いではないが、そんな遊び人の姿は華炎の目を誤魔化すための演技だった。
華鉄は聡い少年で、物心ついた時には父親の異常なまでの猜疑心に感づいていた。いずれ父親の疑心暗鬼によって殺されるかもしれないと恐れた華鉄は、自らうつけ者を演じることに決めたのである。殺すまでもない無能な皇太子となれば、華炎から警戒されることもないだろう、と。その考えは功を奏し、こうして十七歳になるまで生き延びることが出来た。
「……ええ、妓女相手ですが、時折遊んでおります」と素直に答えて見せた。
「ふっ、街娘で己を慰めるのも流石に飽きたであろう。どうだ、今度、宮女を相手にしてみぬか。街娘などより遥かに品があり、教養も持っているぞ」
意外な申し出に華鉄は困惑した。
皇族と言えども、皇帝の所有物である後宮の宮女に手を付けることは許されない。現に、華鉄が宮女の姿を眺めることが出来るのは、華炎が開いた祝宴の場のみだ。それなのに、なぜこのような依頼をするのか。
「それは、喜ばしい申し出ですが……。何故?」
「実は三年も前から手塩にかけて育てさせた宮女がおる。ありきたりな宮女には飽きてしまったから、変わり種も良いと思って後宮に入れた女だ。儂はこれまでに一度も手を付けず、じっくりと熟させてきたのだ。それがようやく、ようやく、食べ頃となった」
どうやら親父殿は好色が高じて、ついに自分好みの女の育成までしていたようだ。
「ほう、父上が自らお造りになった女ならばさぞ美味しゅうございましょう」
皮肉と悟られぬように、うつけ者らしく能天気な笑みを作る。
「うむ、しかし折角の女だ。最初の一口は最高の状態に仕上がったものを味わいたい。……そこでだ、そなたは女の味をよく知っており、儂と好みも近い。故にこの宮女を先に味見してみよ。そなたから美味という評があれば、儂も安心して口をつけることができる。だが、まだ時期尚早、仕込みが足りないとそなたが感じたのなら、もう少し様子を見ようかと思っている」
華炎はそう言い終えると、柄杓の中の酒を旨そうに飲み干す。
これはどういう風の吹き回しだろう。ますます親父殿の考えが読めなくなった。自分が丹精に育てた女に先に手をつけよと言っていることになる。全くもって奇妙な相談である。
女の良し悪しを評価しろと命じられれば、それに答えることはお安い御用だが……。
何か裏があると感じながらも、この場面で断れば今まで散々演じていたうつけ者としての印象が揺らいでしまう。気は進まないが、華鉄は深々と一礼し感謝の意を表する。
「承知いたしました。父上のご命令とあれば喜んで、この味見の任をお引き受けいたします。ちなみに、その宮女の名をお聞かせいただけないでしょうか」
華鉄が承諾すると、華炎は口元を微かに綻ばせて何度も頷いた。
「おお、引き受けてくれるか、それは有り難い」
そこで言葉を一度止めて、またもや酒壺から柄杓を取り出して酒で唇を湿らせる。ふうと吐息をこぼしてから、ようやく会話を再開させる。
「そうそう、女の名前だったな。そなたも、先の花見の席で目にしているはずだ。儂の目の前で華麗な踊りを見せた女で、……月花と言う」
それを聞いた華鉄は驚きのあまり柄杓を取り落としそうになったが、急いで柄を掴み直したため事なきを得た。しかし、柄杓の中の酒には華鉄の動揺を現すように波紋が広がっていた。