第二章 桃李園での再会 その2
その後、花見の席に戻ってからの出来事を、羅雪は全く覚えていない。いつの間にか花見は終わり、各々、三々五々に解散していた。
抜け殻となった身体を、興杏の街の方へと向ける。帰巣本能のままに寝床にしている自宅へ戻ろうとはしたものの、これから自分はどうするべきなのか、何の考えも纏まらない。
酔ってもいないのにフラフラと千鳥足で歩き出したところで、ぐっと二の腕を掴まれた。
「待て待て、羅雪よ。しばらく俺に付き合わんか。話したいことがある」
抵抗する意思のない羅雪は華鉄に言われるがまま、引き摺られていく、辿り着いたの司経局だった。司経局の内部に残っているのは、古文書だけだ。厳かな静けさに満ちている。
「……まだいじけているのか」
羅雪に返す言葉もなかった。
華鉄は大きなため息を一つ吐き、自分の後頭部を掻き毟る。
「そなたが紅に仕官し後宮に潜入することを望んでいたのは、あの月花という娘を取り返すためということはよく分かった。やっと再会してみれば、ここに残りたいなどと言い出したのだから落胆するのも無理はない。……しかしだな、あの場で月花が語った言葉が全て本心だったと考えるのは、些か早計ではないのか?」
「……どういうことだよ、おつきが、月花が、俺に嘘を吐いているってことか?」
到底、皇太子に対する口振りではない羅雪。もう慇懃な部下を演じる余裕はなかった。しかし華鉄にも気にした様子はなく、小首を傾げた。
「さてな、昔馴染みのそなたに分からないのだから、俺に分かるはずが無かろう。……だがな、羅雪、そなたは女と寝たことがないであろう? 月花は勿論、他の女や妓女ともな」
「……それとこれと何の関係があるっ。月花が海賊に攫われてから、俺の人生は月花を見つけるためだけに捧げたんだ。他の女と遊んでる暇なんてなかったっ」
華鉄に揶揄われるとしか思えず、羅雪はまたもや怒気を覚える。だが流石に先程の月花にしたように手を出すことはなく、拳を固めるだけに止めた。といっても、その行為も皇太子に向けるには大変な無礼ではあったが。
「まあ、聞け。俺はこう見えても皇太子だ。若い内から女には不自由しなかった。親父殿の目を盗んで後宮の美女に手を付けることもあったし、妓楼に通って妓女を囲うこともあった。街で暮らす庶民の女と懇ろになることも珍しくなかった。……故に、女という生き物についてはお前以上によく知っているつもりだ」
華鉄は何やら自慢げに胸を逸らし、格好をつけるように顎を引いた。端整な顔立ちが夕焼けの光に照らし出され、陰影を濃く描き出す。その面貌と皇太子という立場があれば、この国で自分の自由にならない女などほとんどいないであろう。
「女というのはな、男には絶対に本音を明かさないものだ。常に本性を隠し、素顔を仮面の下に忍ばせ、口では煽てながら心の中で小馬鹿にする。唯一、女が男に心の内を明かすのは、寝床を共にした時のみだ。……だから、月花もそなたに何かを隠しているのではないかと、そう思ったのだ」
華鉄が自信満々に語った持論が正しいの否か、月花が攫われてからの四年間、一切女付き合いのなかった羅雪に分かるはずもなかった。
ただ一つ、思い当たることがある。
「……かんざし」
「うむ? 何のことだ?」
「……おつきは、……月花は、かんざしを挿していた。四年前、俺が渡した贈り物だ」
月花をつきだと確信したのは、彼女の髪であのかんざしが光っていたからだ。もしあれがなければ、もしかしたら見逃していたかもしれない。
「ほう、あのみすぼらしいかんざしは、そなたが贈った物であったか。そうなると奇妙であるな。皇帝からの寵愛を受けたいのならば、あのようなかんざしを挿す必要はあるまい。後宮でももっと上品なものが貰えるだろうに……。案外、あの娘の心は、そなたから離れてはいないのかもしれんぞ。……あのような態度を取ったのにも、何らかの理由があるやも」
……ああ、そうかもしれない。
か細い糸だが、あり得る可能性だ。
「……ははっ」と力なく笑う。だがそれでも、笑顔は作れた。
羅雪の笑みを見た華鉄も、口元を綻ばせる。
「……もし、そなたが望むのであれば、……月花を親父殿の手から取り戻す手段はあるぞ。無論、何十年も奉公を続けて褒賞として賜る、などという遠回りではなく。より確実で、手っ取り早い方法がな」
静かに紡がれる華鉄の言葉が羅雪の心を撫でる。
その時の華鉄は、今まで羅雪が見たことのない表情をしていた。普段の飄々とした雰囲気は廃され、鉄面皮を被っている。だが感情が皆無というわけではなく、無表情の下に業火の如き激情が秘められており、その熱気が漏れて出ているようだった。
「……それは、どういった方法で?」
羅雪は華鉄に絆され呆然としつつ問いかける。
その問いを待っていたとばかりに、華鉄は歯を見せるように笑って答えた。
「親父殿を、……皇帝・華炎を討ち取ることだ」




