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第二章 桃李園での再会 その1

 羅雪が、桃李園で開かれる酒宴への出席が認められたことを知ったのは、蠱牙使いの下手人を捕らえてから数日後のことだった。

 いつも通り司経局の中で無数の書籍に囲まれながら、古代の蓬莱の文字を睨みつつ当代風に直して書き写していた。その時広げていたのは、竹簡の古文書。蓬莱大陸を史上初めて統一した国家『ハク』の時代の書籍である。白の王家が行っていた仕来りや儀礼について記述されており、その内容は紅の時代にも通じるところがあった。

 中々興味深いため、ついつい読みふけり筆が止まってしまう。王朝が代わっても、古くからの儀礼や思想は連綿と受け継がれていることに、言いようのない感慨を抱く。

 現代の我々が言うところの歴史ロマンを、この時の羅雪は感じ取っていた。

 蓬莱大陸で積み重ねられた千年の歴史を文字として体感していたところ、急に司経局の戸が乱雑に開け放たれ、暴風の如く華鉄がやって来た。司経局内部を満たしていた静謐さが、栓の抜けた風呂場のお湯のように流れ出ていってしまう。


「喜べ、そなたの出席の許しが出たぞ」


 羅雪が慌てて一礼するよりも早く、華鉄が開口一番にこう告げた。

 待ち望んでいた言葉を耳にした羅雪は、込み上がる歓喜をぐっと飲み込んで答える。


「それは、……何と、感謝申し上げればよいか……。言葉が見つかりませぬ」

「いや、これくらいは貰って当然の報酬だ。そなたは堂々としていれば良い」

「華鉄様には色々とお取り計らい頂きまして、心より感謝いたします」


 紅に仕官してからというもの気が急いて仕方なかったが、取りあえずは一歩踏み出すことが出来たと考えていいだろう。同じ場所で足踏みをしているよりは遥かに気が楽だ。


「気にすることはないと言っているだろう。それに今回の一件では、俺も親父殿から報酬をもらうことができたのでな。互いの益になったのだ」

「……報酬とは?」

「そなたも見覚えがあるであろう? いや、あの時は夜中だった故に、ちゃんと目にするのは初めてかもしれんな」


 そう言って懐から取り出したのは、牛皮の鞘で刀身が覆われた短刀だった。どことなく禍々しさを感じさせるその短刀には、確かに見覚えがある。


「まさか、蠱牙、ですか?」


 華鉄が肯定するように口端を吊り上げて笑った。


「いかにも。親父殿に下手人を捕らえた礼として、これを寄越せと要求したのだ。最初は渋っていた親父殿だが、最終的には折れてくれたよ」

「……それは、よく陛下から許しを頂けましたね。陛下の天来具収集癖はもはや狂気のそれであると、皆が噂しておりますよ」


 紅書には、華炎は天下統一が成ってからも天来具と思しき遺物をいくつも買いあさり、更には古代の墳墓の盗掘まで命じていたと伝わっている。天来具という噂があれば、カビの生えた骨董品でも高値で買い求めたようで、そのため胡散臭い行商人が次から次と皇城に出入りするようになった。そんな彼らが持って来るガラクタさえも、華炎は金に糸目を付けずに購入したため、国家の財政を非常に圧迫したようだ。

 天来具で天下を取った華炎である、もし自分の知らない天来具が誰かの手に渡り、自分の天下が脅かされることを危惧したとしても不思議はないだろう。

 それよりも驚きなのは、そんな華炎が、実の息子とは言え華鉄に天来具の所有を認めたことである。一体どういう風の吹き回しだろうか。

 羅雪の疑問に華鉄は苦笑しながら答える。


「無論、親父殿は最後まで俺に渡すのを嫌がっていたよ。そのため、つまらぬ交換条件を出されてしまった。ま、そのくらいで天来具が手に入るのだから安いものと思うべきだな」

「交換条件とは?」

「うむ、酒宴でのちょっとした余興だ」


 と、それ以上は華鉄は語らず、貝のように口を閉ざしてしまう。それはてっきり楽しみに待っていろという意味なのかと思ったが、どこか彷徨うような眼差しを見ていると、どうやら違うようだ。何か迷っているような、何となく気乗りしていないような、そんな雰囲気である。

 普段から自信に満ちた不敵な笑みを隠さない華鉄にしては、非常に珍しい表情と言える。

 華鉄の様子が多少気になりはしたものの、羅雪の頭は、もうすぐ再会できるかもしれないつきのことで一杯になる。

 期待と不安、相反する感情が綯い交ぜとなり、激しくなる動悸。それを抑えるために深呼吸を繰り返すのに忙しく、華鉄の異変などすぐに忘れてしまった。

 だが、後になってから羅雪は後悔することになる。

 『余興』の詳細を華鉄から聞くことが出来ていれば、あの地獄絵図を目の当たりにした時の衝撃が少しは緩和されただろうに、と。



 花見というと我々は桜を連想するが、蓬莱大陸では古くから花見と言えば桃か李と相場が決まっていた。

 皇城の桃李園の木々は、羅雪と華鉄の二人だけの酒宴を開いた時とは見違えるように花を咲かせていた。李の白い花弁は降雪のように舞い散り、桃木は後宮に植えられていた木々と変わらない見事な桃色に染め上がっている。白と桃、そして青空とのコントラストが見る者の息を奪うほどの絶景となっていた。

 そんな桃李園の一画を切り取るように、朱色の花見幕が正方形に立てられている。花見幕の内側には真っ赤な絨毯が敷かれ、朱色の机と椅子が置かれている。花びら舞う中で美酒を嗜む、風流な花見の席が設けられていた。

 そこに集うは、選ばれた高級官吏の面々。残念ながら能力的は今一つであり、皇帝に取り入ることでここまで出世した者達ばかりである。

 酒宴の上座には、勿論、皇帝華炎が座る。相変わらず、脂ぎった頬に淀んだ瞳と、欲望に取り付かれた哀れな権力者といった風体だが、それでも以前と比べると肌に色艶が戻っている。何か新たな楽しみでも見つけたのだろうか。

 荒んでいた華炎の心が、春の季節を感じさせるこの風景によって癒されたのだろうかと、末席に座る羅雪は密かに期待していた。だが、酒宴が始まると、そんな淡い期待はすぐに落胆に変わった。

 一言で言えばこの酒宴は下品だった。花より団子、などという可愛らしいものではない。市井の者は一生口に出来ない高級料理の数々を、ここの出席者は豚のように食い散らかし、美酒を浴びるように飲んでいる。花を愛でるよりも、ただ乱痴気騒ぎを楽しみたいだけなのだろう。このような光景を前にして心が洗われるはずがなかった。


「いやはや、何と言う美味っ、そして、珍味っ。まるでこの世全ての食材がこの場所に集ったようですなぁ。これも全て、陛下による天下泰平の賜物よ。華炎様、万歳っ」

「まことその通り。おおっ、この小麦の皮の包み焼きは絶品だ。中から肉汁が溢れてたまらん」


 官吏達は振る舞われる食事に舌鼓を打ちながらも、皇帝へのおべっかは欠かさない。何かにつけては皇帝を褒め称えている。いずれ烏が黒いのも皇帝の威光によるものだと言い出しかねないと、横で聞いている羅雪は思う。

 しかし、食事の種類に多様さは確かに見事である。羅雪の故郷では見たことも聞いたこともないような料理の数々。彩りも豊かで味も多種多様だった。素直に美味いと感じるものもあれば、中には表現に困る珍味もある。

 ある歴史家は、現代の我々の舌にも馴染のある蓬莱料理のほとんどが紅の時代の宮廷料理に起源を持つと主張している。皇帝華炎が欲望を満たすために世界中から様々な食材を集めさせ、それらを一流の料理人に調理させたことが、現代の蓬莱料理に繋がっているとのこと。真偽はともかく、事実であっても不思議はない。


「ほほう、皆の者、よく食しているな。それほど気に入って貰えたとは、余も嬉しく思うぞ」


 上座から辺りを見回した華炎は乾いた笑みを浮かべると、自身の皿に乗った小麦の皮の包み焼きを口に放り込んだ。味わうというよりもただ噛むという行為を楽しみたいだけのようにグチャグチャと何度も噛み締めてから、ようやく嚥下した。


「うむ、思った通り、美味であるな。余の見立ては間違いではなかった。……皆の者、今回の宴の料理で使われた貴重な食材を紹介しよう。王林、持って参れ」


 華炎の指示が飛ぶと、隣で付きっ切りで警護していた鎧姿の王林が歩き出し、宴の席から姿を消す。皆が何だろうと首を捻っていると、すぐに王林が戻って来た。その手には大皿を抱えている。大皿にはお椀が逆さに被せられているため、何が乗せられているか分からない。

 王林はその大皿を華炎の席の前に置く。


「さあ、これが今回の食材だ」


 華炎はこの場にいる全員の注目が皿に集まっていることを確認してから、そう告げる。

 王林がお椀を取り上げると、大皿の上に置かれたものが露わになった。

 その瞬間、高まっていた会場の熱気が瞬時に凍り付く。鼓膜に痛いほどの静寂さが吹き荒れる。誰も悲鳴を上げなかったのは、流石、腐っても高級官吏の面々と言うべきか。

 大皿に置かれたそれは、恨めしそうな目で華炎を見上げており、今にも怨嗟の声を叫び出すかと思われるほどに口をだらしなく開いていた。

 それは、人間の頭部であった。髪は振り乱れ、既に血が抜け切っているためか肌は土気色、まるで人形のようであるが、決して作り物でないことは周囲を生き生きと飛び回る蠅の姿からも確かである。しかも、頭部から発せられる腐臭が、離れた場所に座る羅雪の鼻腔にも届いていた。鼻の奥を貫く、むせ返るような刺激臭だった。

 あの頭、見覚えがある。そう、蜘蛛を操っていた、あの下手人だ。皇帝の寝室に蜘蛛を送り込んだのだから、斬首という裁きは理解できなくもないが、それにしてもこの扱いは悪趣味だ。


「へ、陛下、こ、この者が食材とは、……どういう意味で……」


 官吏の一人が、恐る恐る尋ねた。


「皆の耳にも入っているだろう? 天来具を用いて余の元に蜘蛛を運び込んだ狼藉者だ。この者を華鉄とそこにいる新入りの羅雪が捕らえた。羅雪よ、そなたの天来具を見破る眼力、早速役に立ったな、褒めて遣わすぞ」

「……有難き、幸せにございます」


 羅雪は華炎の方を向いて深々と頭を下げてみせる。

 しかし、殊勝な態度を見せても、羅雪の内心は不快感で一杯だった。

 こうなることが分かっていたら、あの下手人を突き出さなかったかもしれない。まさか、こんな恐ろしいことを華炎が思いつくとは……、やはり、こいつは狂人だ。

 喉から酸っぱいものが込み上げて来る。胃の内容物が徐々に登って来るのを感じる。必死に唾を飲み込んで、何とか押し戻した。

 大皿に乗っているのは、下手人の生首だ。ならば、切り離された胴体はどこにあるのか。その疑念を答えをその場にいる誰もが知っていながら、誰も知りたくはなかった。

 ただ、華炎だけが、愉悦に満ちた笑みで正答を明らかにする。


「さあ、皆、どうであったか? 裏切り者の肉の味は?」


 羅雪は噴火しそうになった腹の中の溶岩を、必死に押し止めた。奥歯を噛み締めて吐き気を堪える。周りを見ると、嘔吐を耐えているのは羅雪だけでは無かった。官吏達は揃って蒼い顔をしながら唇を噛み締めている。


「ここにいる余とそなたら重臣ら、裏切り者の血肉を共に食した事で、その絆は更に深まったと言えるだろう。宴の席に相応しい交流であるな。ははっ、これは愉快、愉快」


 そう言って笑った華炎は、またもや小麦の皮の包み焼を口に入れて美味そうに食し始める。

 その様子を見た官吏達も、意を決して同じように食事を再開した。彼らは皇帝に媚びを売って出世してきた者達だ。ここで皇帝の機嫌を損ねることは死に直結するとよく知っている。それ故に人肉が使われていると分かっていても、それを食さねばならないのだ。


「は、ははっ、これは美味。まさに、美味ですな。肉を噛み潰す度に、裏切り者の悲鳴が聞こえてくるようですな」

「おお、まさしくっ。陛下に盾ついたならず者の首を眺めながら、彼奴の肉を喰う、花見よりもよほど面白い余興ですぞ」


 上擦った声があちこちで上がり、強がりながらまたも食す。

 狂っている。まさに狂気の宴会だ。ここに人の心を持つ者はいない。見るに堪えない、欲望の亡者共の狂宴。紅という強大な国を動かしているのが、この宴に参列する畜生共なのかと思うと、背筋が凍る。紅は、今や盲目の猪だ。どこに突進するか分からず、止まるかどうかすら分からない。牙は折れ、身体は傷だらけになっても尚倒れない、死ぬまで走り続けるのだろう。

 羅雪は自分の前に配膳された料理を眺めながら、この国の行く末に恐怖を抱く。

 そんな中、再び華炎の声が宴会の場に轟く。


「皆の者、まだまだ余興はこれからぞっ。鉄よ、そなたの芸を見せよ」


 もはやこれ以上冷え切ることはないと思われた空気が、限界突破して凍結した。誰もが一様に口を閉ざし、脂汗を滴り落としている。

 華炎に呼ばれた立ち上がった華鉄は仏頂面で進み出ると、首の乗った大皿の横に立つ。華鉄は脇に小さな壺が抱えており、それがまた見る者の不安を煽る。

 一体、これ以上、何が起こると言うのだ。

 恐怖の視線を一身に受ける華鉄は、抱えた壺を大皿の横に置き、木蓋を取った。そして、懐から短剣を取り出す。天来具、蠱牙である。


「へ、陛下、これはどういった芸でございましょう?」

「この裏切り者に相応しい罰だ。彼奴の四肢は我らで食すことで、我らの血肉となった。最後に残ったこの首は、彼らに片づけてもらうのが良かろう。さあ、鉄よ、そなたに託した天来具を見事操って見せるがよい」


 華炎に促され、華鉄は短剣を構える。

 天来具、蠱牙と直に戦った羅雪は、この後の展開を何となく察してしまう。出来ることなら目を背けたい。だが、皇帝の機嫌を取らなければならないのは、羅雪も周りにいる官吏と何ら変わりがなかった。覚悟を固める。

 蠱牙に呼ばれるように、首の真横に置かれた壺から黒い物体が溢れ出した。影のような黒い塊のそれは、首の周りにもぞもぞと群がると、這うように登って覆い尽くしていく。あっという間に、首の恨めしげな表情が見えなくなった。

 誰もが悲鳴を呑み込んでいた。

 壺から溢れ出したのは、無数の蜘蛛。一匹一匹は大した大きさではないが、数百匹が集合して統率された動きを見せると、その姿はまるで自在に動き回る影のようでもあった。


「……喰らえ」


 華鉄が指示を下した瞬間、無数の蜘蛛が一斉に顎を突き立てた。遠目から見れば、なにやら人間の頭の形をした黒い塊の表面が、風に揺れる枝葉のように蠢いているようだった。だが耳朶を叩く、蜘蛛達の捕食の音色が、嫌でもおぞましい光景を想像させる。

 蜘蛛の顎によって血の気の失せて乾いた皮膚が引き剥がされ、僅かに残った肉も噛み千切られる。例え死んでいたとしても、魂にまでその感触が伝わって来るのではないかと思わせる、目を覆いたくなるほどの凄惨な様子。

 幾ばくかの時が過ぎると、華鉄は蜘蛛を壺の中へと戻した。引き潮のように去っていく蜘蛛の波の中から現れたのは、一個のドクロ。皮膚や肉は食いつくされていた。残ったのは僅かな毛髪と血液のみ。ドクロに表情など宿らないはずだが、怨嗟の声を上げているようだった。


「くっくっく、虫を使って余を脅そうとした男が、その虫に食われるとは何とも滑稽である」


 華炎の高笑いが発せられる。それに追随して、笑声を上げる官吏。

 救いようがないと羅雪は腹の中で罵り、そして詰る事しか出来ない自分の無力を呪った。


「鉄よ、よくぞ使いこなした。約束通り、その天来具はそなたに授けようぞ」

「ありがとうございます、父上」


 華鉄は恭しく一礼すると、蠱牙を懐に入れてから自分の席へと戻った。その顔には何の感情も浮かんでいなかった。完全に表情を殺し切っている。鉄面皮の仮面は彼の内面を隠し通していたが、固められた拳だけが僅かに震えていた。それは恐怖か、あるいは義憤によるものか。


「さあさあ、皆の者、宴はこれからだっ。存分に盛り上がろうではないか。入って参れっ!」


 華炎が花見幕の外に呼びかけると、この空気にそぐわない華やかな美女達が優美な足取りで現れる。普段は後宮に住まう宮女達の登場だった。

 全員が赤と桃色を基調とした艶やかな着物を纏っていた。踊りやすいように二股に分かれた脚絆を履いている。衣装の各所には踊りの動きを映えさせるためか、シルク製の装飾フリルが施されている。

 この酒宴が最高の盛り上がりを見せる瞬間であるはずなのに、官吏達の顔に喜色は薄い。一応、拍手で迎え入れているものの、どこかまばらで弱々しい。

 あんな凄惨な様子を眼にした直後では、いくら美女達の舞踏であっても目の保養とはならないのだろう。

 だが羅雪にとっては違う。

 これが、つきを見つけられる唯一の機会だ。

 急いで頭を切り替えて、次々と現れる宮女の顔を睨みつけていくが、つきと思しき女性は見当たらない。官女達は入れ代わり立ち代わり踊り回っているため、素顔を子細に観察することが出来ないのがもどかしい。

 考えてみれば、最後に船上で別れてから丸四年だ。多少、容姿は変わっているかもしれない。いや、それでも幼馴染の許嫁だったのだ、面影くらいは見つけ出せるはずだ。

 羅雪は半ば祈るような気持ちで、宴の場の中央に勢ぞろいした十数名の官女達を眺める。

 楽士による琵琶の音色が奏でられると、官女達そのリズムに合わせて舞踏を踊る。宮仕えの女としてしっかり仕込まれているのか、楽曲の美しさ、舞の見事さ、どれも素晴らしかった。芸の何たるかなど全く知らない羅雪ですら、その技巧の高さが分かるのだから相当な腕前なのだろう。つきを探すという目的が無ければ、この芸能を存分に堪能したいところだった。

 踊りは激しさがありながらも上品で、風で舞い踊る桃の花弁も良い演出となって、動く絵画のような美しさがあった。

 十数名の美女達が一糸乱れぬ統率で踊り回る様は、確かに目を見張るものがあった。しかし、それも長くは続かない。次第にその動きに綻びが現れ始める。

 その原因ははっきりしている。官女達のすぐ目の前、華炎の傍に置かれた大皿に鎮座するドクロである。蜘蛛に食われる様を官女達は見ていないはずだが、花見幕の外で待機していたのならば華炎の声はずっと聞こえていたはず。ならばこの場で何が起こったか想像に難くないはずだ。彼女達の脳裏に浮かぶ悪夢の想像が自身の足を鈍らせているのだろう。

 故に、立ち位置を誤った宮女の一人が仲間と衝突し、転倒するのは当然の結果だった。


「……きゃっ」


 弾き飛ばされて床に倒れた宮女は、慌てて立ち上がり踊りを続けようとする。宴の場でこの程度の失敗は良い余興である。目くじらを立てる程のことでもない。

 だが、


「止まれっ!」


 華炎の鋭利な一声が突き立てられ、宮女達の時間を制止させた。宮女達の動きも、琵琶の音色もピタリと止まる。

 またもや、宴が凍り付く。


「……不思議であるな。このような席で舞を失敗するような宮女が我が後宮にいるはずがない。……まさか、そなた、宮女の振りをして余の命を狙う不届き者ではあるまいな?」

「そ、そ、そのようなことはございません。わ、私は、ただの宮女でございます。こ、この度は、ただ、右足が、ただ、この足が言うことを聞かなかったために」


 倒れた宮女は傍から見ているのが哀れなほどに取り乱して、平伏している。背筋は大きく丸まり、極寒の地にでもいるかのように双肩をガタガタと震わせていた。姿勢を崩す原因となった右足を時折ぴしゃりと叩いている。


「ほう、ただ、足が悪かったから転倒しただけと、そう言いたいのか? ううむ、にわかには信じがたいの。我が後宮には、一流の舞を見せる女達しかいないはずだが……」


 華炎は顎を摩りつつ疑惑の目線を注ぐ。

 一方、宮女の方はもう自分の命はないと諦めているのか、たださめざめと泣き続けるばかりで言い訳を重ねようともしない。痛々しい嗚咽の声が辺りに響いていた。失敗した宮女の背後で待機する宮女の仲間達も、悲痛に顔を歪ませていた。一歩間違えれば自分が彼女の位置にいたかもしれないと思えば、他人ごとではないはずだ。

 やがて華炎がうむと頷く。


「……しかし、せっかくの花見の場で余も機嫌が良い、一度の過ちくらいは大目に見るとしよう。よろしい、そなたに挽回の機会を与えよう」


 その瞬間、宮女が泣き顔をパッと持ち上げる。滂沱の涙で濡れた表情が明るさを取り戻す。


「ああっ、陛下、慈悲深いそのお心に、感謝いたします。今度こそ、今度こそは、完璧な舞踏を披露いたしますっ!」


 平身低頭、まるで頭を割ろうとするかのように、何度も額を地面に打ち付けて、感謝の意を全身で表した。そしてすくっと立ち上がると、再度舞踏を見せるため、乱れていた衣装を整え直し始める。彼女の背後で立ち尽くしていた宮女の仲間達もほっとした様子を見せていた。


「……うむ。では、そなたには万全の状態で踊ってもらうとしよう」


 そう言うが早く、華炎は椅子から立ち上がると、警護の任に就いている王林の元へと近づいた。一体、何をしているのか、その場にいる皆が不思議がっていると、華炎は王林が腰に差す剣、天来具『光刃』の柄に手を掛ける。


「……陛下、それは……」


 抗議の意味か、王林がそう呟く。だが華炎に片手で制されると、それ以上何も言わず貝のように口を閉ざしてしまった。

 光刃の刀身が鞘から滑り抜ける涼やかな金属音が奏でられる。


「……確か、悪いのは、そなたの右足であったな」


 華炎はそう言葉を投げかけると、手にした光刃を空に薙いだ。風を裂くような横斬り。まるで素振りをするように。ただ、横に一閃。

 だがそれだけで十分に力を発揮することを、羅雪は知っていた。その結果、起こることも予想できてしまった。

 横に振られる瞬間、光刃の刀身はカッと眩く輝く。その煌めきは、刀身が描いた円弧状の軌跡を宙に刻んだ。しかし軌跡は残像として消えることなく、実体を持ってその場に留まり続ける。光刃の一閃の跡から生まれたのは、まるで小さな三日月。

 そして、光刃が振り終えた瞬間、その三日月は弓から放たれた鏃のように飛翔する。風のように空中を駆け抜けて、刀身の間合いの外へと飛び出した。光刃が作り出す三日月とは、光で編まれた刃であり、千里を駆ける剣戟である。光刃を握ることは、無限の間合いを持つことと同義なのだ。これぞ、天来具、光刃の能力である。

 直線状に投擲された三日月の刃は、進行方向にあった物体を容易く切り裂くと、音もなく消失する。まるで最初からこの世に存在しなかったかのように。

 だが三日月の刃によって引き起こされた結果は、不変の現実としてこの世に留まり続ける。


「…………ぇ……」


 踊りをやり直す機会を与えられた宮女は声を零し、右足を見下ろす。今しがた三日月の刃が通り過ぎた、自身の大腿部付近を見つめて、何が起こったのか分からないのか、キョトンと首を傾げた。

 切断された己の右足が床に転がっていることを、現実と認めたくないのだろうか。


「あ、あし、あし、みぎあし、……わた、わたしの、の、……右足、右足がぁ。ない、ないない、あんよがっ、あははっ、あたしのあんよがなくなっちゃたぁっ! あは、あははは」


 身体を支える右足を失った宮女は、姿勢を崩してまたもや床に接吻をする。半狂乱に絶叫し、芋虫のようにのたうち回りながら、切り離された右足を大腿部の断面に押し付けている。粘土細工のように断面同士をくっつければ、再び繋がると本気で信じているように。


「よろしい。余が自ら、そなたが舞を失敗する原因となった右足を切除してやったぞ。さあ、これで万全の状態となったであろう? 舞踏を再開するがよいぞ」


 満足げに頷いた華炎は光刃を王林に手渡すと、自分の席に戻って腰を落とした。


「あ、ああああああ、イタイ、痛い、足がないのに、足が痛いっ、なんで、あははっ、足がないのに、いたいたいたいいたいいぃいい」

「ほら、どうした、悪さをする右足はいなくなったのだから、しっかり踊らんかっ。……やれやれ、せっかく余が挽回の機会を与えてやったのに、つまらん奴じゃ」


 華炎が大きく欠伸をしながら、宮女の痴態を不満そうに眺めている。

 その場にいる誰も動かない、誰も動けない。氷点下に達した空気の中、哀れな宮女だけが一人、床に転がりながら不器用な舞を踊っている。それは、先程まで見せていた優美さは欠片も見当たらない、ただ哀れで、醜い舞踏だった。

 宮女仲間達も恐怖で身を竦めたまま、助けようとしない。いや、それも当然である、この場で庇おうとすれば自らも皇帝の横暴に巻き込まれるのだから。

 そう、思われた、その時、


「……陛下。これ以上、この者の哀れな踊りを見続けていても退屈でしょう。この度の失態は我ら宮女一同の失態でもあります。どうか、私に舞を披露する機会を頂けないでしょうか? 陛下の退屈を紛らわせて御覧に入れましょう」


 進み出る宮女が一人。

 それを見て、華炎も興味をそそられたように頷く。


「……ほう。そこまで自信があるなら、床で転がっているその者の代わりに踊るがよい。……そなた、名は何と言う?」

「月花と申します。陛下の恩情に心からの感謝を。……では」


 月花と名乗った宮女は、静かに、緩慢な動きで踊り始める。

 先程まで披露されていた、十数名の宮女達による舞踏と比べると派手さに欠けて、物足りなさを感じる。華炎の表情にも何ら変化が見られないず、退屈さが拭えていないようだ。

 だが、静かな動きから少しずつ、足捌きが速まっていく。平穏な動きから、やがて嵐のようなダイナミックな動きへと激しさを増していく。かと思えば、また穏やかに手足を動かす様子も見せる。変幻自在な全身の動作を眺めていた羅雪は海を想起させられる。

 無風の海、荒れ果てた海。景色はまるで違うが、同じ海。人の想定を超えて様々な表情を見せる海を、月花の踊りは表現しているようだった。

 いつしか、誰しも目を奪われていた。

 羅雪も故郷の漁村の港からいつも眺めていた海を思い出しながら、じっと眺めていた。そして、とあることに気付くと、稲妻に撃たれたような衝撃が走った。

 月花という官女の長い黒髪は後頭部で丁寧に纏められ、一つの大きな団子を作っており、その団子には銀色のかんざしが一本の串のように刺さっていた。烏の黒羽色の髪の中で、銀色のかんざしはまるで月光のような鈍い光を放っている。

 その光を、羅雪は知っていた。荒れ狂う波の中、遠ざかっていく商船の上で最後まで輝いていた、羅雪がつきに贈答したかんざしの光明。

 必ず取り戻すと誓ったあの日の光芒が、そこにあった。


「……まさか、……おつき……」


 その名が、羅雪の口から零れ落ちた。

 全身の力が抜けて、まるで溶けていくようだった。

 生きていた。間違いない。彼女だ。絶対に、彼女こそが、つきだ。

 つきと思しき官女は最後までに見事に踊り切ると、静かに一礼した。


「お目汚しを失礼いたしました」


 月花の舞踏の終幕は、拍手すら躊躇われた。この静寂こそが万雷の喝采の代わりである。

 いつの間にか右足を失った宮女の姿が消えている。皆が月花の舞に目を奪われている間に、他の宮女が彼女を宴の場から連れ出したのだろう。そうなることを全て見越したうえで、月花は自分に注目を集めさせたのだ。

 一歩誤れば華炎の怒りを買い、悲惨な末期を辿っていたはずだ。踏み外せば死、そんな恐怖の中でも、月花は一糸乱れぬ舞を踊り切ったのだ。恐ろしいほどの胆力である。


「……月花と言ったな。その名前、覚えておこう。……皆の者、下がってよいぞ」


 華炎は満足したように頷き、そう促す。

 宮女達は一斉に頭を下げて、その場を後にした。彼女達の顔には安堵の色が見える。続々と退席していく宮女達、その最後尾に月花がいる。


「さあっ、花見はまだこれからぞ。存分に飲み食いをするがよいっ。はっはっは」


 華炎は月花の舞で機嫌を直したようだ。両腕を広げると、青空に響き渡るほどに呵々大笑した。その笑声が実に愉し気であったために、今まで怯えていた官吏達も胸を撫で下ろしている。

 こうして、酒宴が再開された。相変わらず、華炎の一挙手一投足に怯えながら、機嫌を損ねないようにおべっかを使いながらではあったが。一先ずは人死にが出ないまま、終わることが出来そうだった。


「…………失礼。ちょっと厠へ」


 席を抜け出しても良い頃合いだろうと判断した羅雪は、隣の官吏にそう告げて足早にその場を去った。桃李園を抜け出し、宮女達が去って行った方向へと駆け出す。

 全速力で走っていると、遠くに宮女達の華やかな背中が見えた。後宮内を取り仕切る老婆を先導され、二列に整列して音もなく歩いている。その中に、月花がいた。団子状の髪に刺さった、見覚えのあるかんざしが羅雪を手招きするように光っている。


「おつきっ!」

 羅雪の呼びかけに宮女の列が止まる。真っ先に振り返ったのは、やはり月花であった。


「…………ま、さ、……か」


 その時の月花の顔は、まるで幽霊でも見たようだった。

 羅雪は宮女達の列をかき分けて、月花の目の前に立つ。困惑する周囲の空気など関係ない。


「な、何、この男?」

「狼藉者よっ、早くっ誰かっ、衛兵を呼んでっ」


 慌てた宮女達がサッと散っていく。邪魔者が居なくなって有難い。


「……おつき、遅れてごめん。……迎えに来たよ」


 母国の言葉で月花に語り掛けた。

 前髪が月花の表情を覆っているものの、双眸から零れる真珠のように大粒の涙だけは隠すことが出来なかった。

 しかし、返って来たのは紅の言葉だった。


「……何を、仰っているのでしょうか? 私は、月花と申しまして……」


 嗚咽交じりの、絞り出すような声だ。


「おつき。そんな嘘、俺には通じないぞ。そのかんざしは俺がお前に贈ったものだ、見間違えるはずがあるか。流石に多少は古びたようだが、今までずっと大切に手入れをしてくれていたんだな。…………ありがとう。それから、遅れてごめん」


 産まれたばかりの雛鳥のように震えるおつきの双肩に静かに両手を乗せた。感謝と謝罪の念を込めながら、そして二度と離さないという決意も注ぐ。

 その瞬間、おつきが振り返ったので羅雪の両手から肩の感触が消える。おつきの前髪がふわりと揺れ、踊り用の衣装も勢いよく翻った。ようやく真正面から捉えることのできたおつきの姿は、やはり四年前から何一つ変わっていなかった。

 おつきの顔は滂沱の涙に塗れていた。もう別人と誤魔化すことは出来ないと悟ったのか、その表情には諦観の念があった。


「…………まさか、本当に、……雪介……?」


 おつきの桜色の唇が母国の言葉を呟く。

 久しぶりに本名を呼ばれたことが、しかもそれが待ち望んでいたつきの声であったことが、羅雪の心に貫くような衝撃を与える。おつきを探し続け来たこの四年の苦労がようやく報われた、万感の想いだった。

 歓喜極まり、羅雪の視界も涙で揺らぎそうになる。それを何とか堪える。涙で視界をぼやけさせたくはなかった。つきの姿をしっかりと見つめていたかった。

 待ち望んでいた四年越しの再会だ。

 どんな言葉を掛けるべきかと羅雪が迷っている内に、つきが長い袖口で涙を拭ってから、先に口火を切った。

 一旦、おつきの顔が袖で隠され、再び現れた時にはまるで人形のような作り物めいた無表情に変化していた。ただ、涙の痕だけは辛うじて頬に刻まれている。


「………………何しに、来たの?」


 端的に吐かれた言葉があまりに鋭利で冷たく意外なものだったので、羅雪は一瞬、自分が何を言われたのか理解できなかった。

 落ち着き払っているように見えるつきの姿に動揺しつつも返答する。


「……な、何しに、って、迎えに来たんだよ。お前が後宮にいるかもしれないって聞いて、それを探るために、紅の役人になったんだ。さっきの花見にもいたんだぞ」


 ここに至るまでの四年もの長い物語を掻い摘んで説明する。


「……えっ、雪介、今、官吏なの?」


 おつきは長い睫を湛えた瞼を見開いて、驚きに目を丸くしていた。


「ああ、今は、紅風の名前に変えて、羅雪って名乗ってる」

「そう、なんだ。私も、ここでは月花に改名しているから。ゆきす……羅雪も、これからはそう呼んでね」


 なぜだ、なぜそんなにも他人行儀なんだ。

 幼馴染で、かりにも許嫁だったのに。やっと再会できたというのに、おつき、いや月花の態度は驚くほどに冷たい。人目を憚らずに泣き叫び、膝から崩れ落ちたとしても何のおかしくもないはずなのに、涙を引っ込めた今では素っ気なく佇んでいる。

 疑念だけが羅雪の心に、雪のようにしんしんと降り積もっていく。そんな不安な思いを掻き消すために、羅雪は一歩歩み寄って言う。


「……本当なら今すぐにもお前をここから連れ出して、故郷まで連れ帰ってやりたいんだが」

「ら、羅雪、そんなことはっ」


 焦る月花に向かって、羅雪は苦笑を見せた。


「もちろん、そんなことは出来ない。後宮の宮女をかどわかしたら、陛下が全軍を率いて追って来るだろう。紅の国を相手にして逃げ切る自信は流石にないからな」


 そう告げると、月花の表情がほっとしたように緩んだ。


「……だけど、諦めるつもりもない。お前が、後宮にいることが分かったんだ。なら、俺は紅に仕え続けるつもりだ」

「それって、どういうことなの?」と首を傾げる月花。


 羅雪は華鉄との宴の中で思いついた提案を打ち明ける。


「華鉄様の話では、長年陛下に仕えた家臣はその恩賞として宮女を賜ることができるらしい。だから、俺もここで奉公を続けようと思う。今は、戦のない世だからすぐに功を立てることは難しいかもしれないが、地道にやっていれけば何とかなるはずだ」


 後宮に月花がいると分かった今なら、いくらでも待つことが出来るような気がした。


「確かに、後宮の先輩の中には陛下の家臣に下賜された方もいると聞いたことがあるけれど。でも、お相手は内乱を終結させた武官とか、陛下に何十年と仕えた忠臣だって聞いたわ」

「そうみたいだな。だからお前を下賜される日が来るのは、何年先になるか分からない。五年か、十年か。……その間、お前には辛い思いをさせてしまうかもしれないが、……でも、絶対にお前を貰い受けてみせる。だから、どうか、もう少しだけ、待ってて欲しい」


 月花の小さな両手を握って、覚悟を伝えた。

 この手の感触は昔から変わらない。羅雪の手の中にすっぽりと収まる程に小さく、少し冷たて気持ちがいい。寒がりな月花の手を羅雪が握り、自分の体温を分け与えることを昔からよくやっていた。懐かしい思い出である。


「や、止めてっ」


 だが、その手は唐突に振り払われた。月花の手がするりと逃げていく。


「お、おつき?」


 月花がスタスタと後退りをして羅雪から距離を取る。二人の間に目に見えない断崖があるかのように。


「……羅雪、ここまで来てくれたことは本当に感謝してる。申し訳ないとも思ってる。……でもね、私、もう故郷には帰りたくないの。……ううん、違うね。ずっとここにいたいの。……だって、信じられる? ここには故郷にいた時では想像もできなかった美味しいものが食べられるの。庭園の景色も綺麗で、毎日見ても飽きないの。……私、世の中にこんなに煌びやかな物があるなんて知らなかった」


 月花が両手を広げると、その場でくるりと回って周囲を見回した。踊り子の衣装のフリルが月花の動きに追随するように舞い踊る。

 一回転して羅雪に向き直った月花の微笑みは、羅雪の知っている幼馴染の笑顔よりも少しだけ大人びて、綺麗で、そして知らない表情だった。


「それに、私、紅の言葉も習ったわ。後宮には詩集が揃っていていつでも読むことが出来るんだけど、そこに書かれている言葉はどれも本当に美しいの。見慣れていたはずの雲の動きや木々のざわめき、海の波の音を、こんな風に表現できるなんて、私、全然知らなかった。他にもね、琵琶の音色はいくら聞いても飽きないし、その音に合わせて踊るのもすごく気持ちがいいの」


 高揚した月花の声は春の日差しのように朗らかで温かい。

 考えてみれば、月花は故郷の港町にいた時から煌びやかな都会の世界に憧れていた。そして今、文化の中心地である紅の都にいるのだから、夢が叶ったのと同じことではないか。

 後宮は、当時の女性にとって唯一の教育機関でもあった。

 宮女が皇帝の寵愛を受けるために、また皇后になった場合に備えて、最低限の教養を身に付けさせる必要があり、その役目を後宮が担っていた。そのため、宮女が後宮に入ってからの数年間は育成期間として、詞の素養や楽器の演奏、舞踏などを一通り学ばせるのである。田舎出身の宮女からすれば、それは最高のステップアップと言える。


「で、でも、おつき、それは、……」


 だが、羅雪には認められない。それでは何のために自分は奮闘してきたのか、この四年間に一体何の意味があったのか。

 足元の大地が崩落していくような感覚だった。


「……それにね、羅雪。私だって、いずれ陛下からお呼びが掛かるかもしれないのよ」

「お、お呼びって……」

「陛下からの夜のお誘いよ。後宮に入ってから三年間ずっと声がかからなくて、私みたいな東夷の田舎の女じゃ見向きもされないのかと不安だったけど。さっきの宴の席で私の名前を覚えたって言ってくださったの。もしかしたら近い内に……」


 頬を染めて、今まで見たことがない表情で告げられた月花の言葉、羅雪はその意味が分からないほど子供ではない。

 単純に男としての嫉妬心が燃え上る。思わず叫び出しそうになる自分を、奥歯を噛み締めて抑えつける。ここでみっともなく喚くような、見苦しい真似だけはしないように。だが、心に着火した嫉妬の火種はいつまでも燻ぶり続けたままで、消える様子はなかった。


「……お前、……皇后にでもなるつもりか……」


 ようやく絞り出した声が驚くほど掠れていて、まるで自分のものではないようだった。

 月花は一瞬虚を突かれたような表情をしたが、すぐに蠱惑的に微笑んだ。その少しだけ意地が悪そうな微笑みは、幼い頃に羅雪と揶揄い合った時と瓜二つだった。


「……まさかっ、お世継ぎは華鉄様がいらっしゃるし、仮に私が男の子を生んだとしても正室にはなれないでしょ。……でも、華鉄様はうつけ者って噂だし、もし、陛下が私との子供を後継ぎに選んだとしたら……。ふふっ。私も皇后様かぁ、あり得ない話ではないかもね」


 月花はもう皇后になったつもりなのか、長袖で口元を隠して上品に笑った。


「……本気で、そんなことを考えてるのか?」

「もちろん、機会があればそうしたいわ。小国の商家の嫁で終わるはずだった私の人生が、この国の皇后に辿り着くかもしれないのよ。ああ、素晴らしいわね」


 月花の丸い瞳が、まるで酒に酔ったか、高熱で浮かされたように蕩けている。羅雪の方を向いていながらも焦点は定まらず、明らかに違う場所を見ていた。自分の心が描き出す夢想を覗き込んでいた。


「……だからね、羅雪。あなたが迎えに来てくれたことには感謝するけど、私の邪魔をしないで欲しいの。……ね、私のことは分不相応だったと忘れてよ。さっさと故郷に帰って、商家の嫁として相応しい女でも探したら?」


 明確に告げられた拒絶の言葉が、鈍器のような質量を持って羅雪に殴りかかってくる。

 海賊に商船が襲われた時よりも激しい衝撃だった。

 足元がおぼつかない。どうやって自分が二本の足で立てているのかも分からなくなった。頬を撫でる春風の柔らかい感触も、ひらひらと舞い踊る桃の木の花びらも美しさも、微塵も理解できない。五感が混濁し、思考が乱雑し、胃の内容物が込み上げてくる。

 なぜ、俺はここにいるのか。目の前の女は一体何者なのか。狐か、狸に化かされているのではないだろうか。それともこれは悪夢か。この四年間は全て夢の中の出来事だったのか。目が覚めたら、あの商船の上で父親や幼いつきに覗き込まれているのだろうか。


「……ち、違う。違う、違う、違う」


 倒れそうになる自分を何とか繋ぎ止め、頭を左右に激しく振りながら言葉を垂れ流す。そうでもしないと、自己を保てなくなりそうだった。


「お前は、おつきだ。……お前は、俺の幼馴染で……。それで、それで、それで……」


 月花との間に引かれた境界線を踏み越えるように、大きな一歩を踏み出した。怯えた表情を知る月花に近寄り、その震える腕を掴もうと手を伸ばした。もうこの際、相手が宮女だとか、皇帝の所有物であるとか、もう頭には無かった。何としてでも月花をここから連れ出すと、そんな無謀な考えに憑りつかれていた。

 月花の鮮やかな朱色の袖に、羅雪の指が触れそうになった。だが寸前のところで、羅雪の手が止まる。急に両腕が重くなり、言うことを聞かなくなったのだ。

 これは何のまやかしか、と焦った時、耳元で酒臭い息と共に言葉が囁かれた。


「やれやれ、羅雪。宮女に狼藉を働いたなどと親父殿に知られたら、流石に俺も庇い切れないぞ。少しは頭を冷やせ」


 羅雪が首だけを動かして後ろを向くと、呆れたような華鉄の顔があった。どうやら自分は華鉄に羽交い絞めにされているらしいと、ようやくそこで理解する。


「か、華鉄様っ」


 月花が慌てて膝を付き、平伏する。


「月花とやら、すまんが、話は盗み聞きさせてもらったぞ」

「お、お耳汚しを致しまして、申し訳ございません」

「いやいや、そなたの考え、俺は嫌いではない。むしろ、その上昇志向は好ましく思うぞ。……さて、そんな同郷の女に比べて、羅雪、お前という奴は情けない男だな」


 華鉄から小馬鹿にされた羅雪は、背中を蹴り飛ばされて地面を舐めることとなった。


「ぐっ」

「そなたも落ち着け。女に袖にされたくらいで、みっともないぞ」

「お前は黙ってろっ。これは、俺とおつきの問題だっ!」


 地面に這いつくばりながら、犬歯を剥き出しにして華鉄を睨む。皇太子に対する言葉遣いを気にする余裕など、今の羅雪には無かった。


「ほう、それがそなたの素顔か。うむ、よいな。普段の繕ったような笑顔やわざとらしいくらいに謹厚な態度よりも、堂々と無礼を働く方が俺好みだ。これから俺に対しては、礼節など気にせずにそなたの素を見せてくれ」


 いつもと変わらない華鉄の余裕綽々な雰囲気が、羅雪は気に入らなかった。皇帝の華炎と似た容姿も更に癪に障る。

 しかし、華鉄に喝を入れられたことで、羅雪の頭が少し落ち着きを取り戻す。後宮で感情のままに暴れたところで利など一つもないと、冷静な自分が囁く声にようやく耳を貸すことが出来た。一旦、大きく深呼吸をして、春の穏やかな空気を体内に取り入れる。


「さて、これ以上話し合ったところで二人共蟠りは解けぬであろう。それに、もうすぐ衛兵がやって来るぞ。羅雪よ、さっさと帰るぞ。捕まったら面倒なことになるぞ」


 華鉄に促されて、羅雪は不満を表情に湛えつつもその場から立ち去ることにする。今から月花との会話を再開したところで、月花の考えを変えることなど出来ないと察した。

 別れ際、月花をちらりと盗み見たが、月花は背中を向けたままこちらを振り返ることも、見送ることもなかった。最後までその拒絶の姿勢が崩れることはなく、かつて同じ時を共に過ごした幼馴染の姿を、その後ろ姿のどこにも見つけることは出来なかった。

 一陣の春風が桃の花弁を伴って、二人の間を流れた。それは空っぽになった羅雪の心に吹き荒ぶ、春の嵐のようでもあった。

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