第一章 鉄と雪の契り その3
「やれやれ、すっかり遅くなってしまった。引き留めて悪かったな、羅雪よ。これからどうやって帰るのだ?」
桃李園を後にした二人。頬を朱に染めた華鉄が酒臭い息を吐きつつ詫びる。
辺りはすっかり闇夜の帳が降りており、城楼に掲げられた篝火と月の明りが辛うじて足元を照らしている。街灯などないこの時代の夜は、現代人の我々の想像以上に暗いものとなる。
「既に暮鼓が鳴らされてしまい街には出れられませんので、今夜は自宅にも帰れません。本日は、皇城の門番の詰め所にでも泊めてもらうこととします」
例え官吏であったとしても、夜間の外出は罪に問われ、見回り中の役人に見つかれば鞭二十叩きの刑に処せられてしまう。羅雪はとっくに帰宅を諦めていた。
「それはいかん。俺が酒宴に誘ったせいでそなたに不憫な思いをさせるわけにはいかない。ほれ、これを持っておれば夜の外出も罪にならんぞ」
華鉄がごそごそと懐から取り出したのは、三つ折りにされた紙切れだった。羅雪はそれを受け取り開いてみる。紙にはこまごまとした文字が書かれており、文書の最後には役所の四角い朱印が押されていた。
「これは、通行文牒ですか? なぜこのようなものを……」
文牒とは役所が発行する正式な文書のことだ。羅雪が受け取ったのは、夜間の外出の許可証である。
羅雪が驚きながら問うと、華鉄は悪戯っぽい笑みを浮かべて返答した。
「俺も、たまに一目を忍んで妓楼を訪れることがあるのでな。伝手を頼んで手に入れてもらったのだ。警邏中の役人に出くわした時に、それを突き付けてやると態度が豹変するのだが、これがまた滑稽だぞ」
通行文牒はもちろんのこと、相手が皇太子であることが分かれば役人も態度を変えざるを得ないだろう。不審人物かと思って問い詰めたら、実は皇太子であったことが発覚すれば役人はさぞ肝を潰しただろう。羅雪は名も知らない見回りの役人に少しだけ同情した。そして、こうしたところから、うつけ者の噂が広まっていくのだろうなとも納得する。
とにかく、羅雪は有難く文牒を頂くことにした。
「うむ、では気を付けよ」
華炎がそう言って背を向ける。
羅雪もそのまま華炎と別れ、懐に収めた文牒のお蔭で少し軽くなった足取りで、夜の街に繰り出した。
羅雪が借りた自宅は、皇城から遠く離れている。興安は中央を貫く大通りと、そこから伸びた小道で構成される碁盤の目の街である。羅雪の自宅は小道の端っこであった。
まずは大通りを下って歩き、そこから脇道に沿っていくルートを通る。宿坊や妓楼のある地域は夜でも明かりが灯っており道端を照らしているが、そうしたエリアを抜けてしまうと深々とした闇が広がっている。羅雪は出来る限り街明かりのある道を通りつつ、自宅を目指す。
昼間はあれだけ活気のあった興安の街も、夜となると不気味なくらいに静まり返っている。色取り取りの髪色や肌の色をした商人達は姿を消し、今や羅雪と共に歩くのは地面に刻まれた影くらいである。
普段は気にならない自分の足音も、街がこうも静かであると妙に耳に障った。
だからだろうか、自分の足音に紛れるように別の足音がすると気付いたのは。最初は勘違いかと思ったが、自分のものではない足音が間違いなく背後から迫っていた。
羅雪は足をピタリと止め、振り返る。そこには羅雪が通り過ぎたばかりの闇夜があった。
「……誰だっ」
誰何を闇に投げかける。
沈黙。
やはり勘違いか。
羅雪がそう思った瞬間、闇の帳の中で一瞬、月明りを反射する何かが見えた。羅雪は本能に従い、咄嗟に踵で地面を蹴り出して、後方に跳躍する。
その瞬間、先程まで羅雪の喉元があった空間を、銀色の閃光が通り過ぎた。光の加減から刀身の短い武具、短剣が横切ったと見当がつく。
闇から短剣と共に飛び出し羅雪に襲い掛かったのは、小柄な人影であった。頭の先から踝までをすっぽりと覆う、大きな外套に身を包んでおり、頭髪も顔貌も見えない。暗闇に紛れるような出で立ちは、暗殺が目的のためだろう。もし今宵、月が出ていなければ、羅雪は短剣の反射に気付かず、喉を掻っ捌かれていたかもしれない。
「……見回りの衛兵、ではないな。ならば、文牒を見せたとしても意味はないか」
「……苦しみながら死にたくないのであれば抵抗しないことだ。余計な手傷を負うことになるぞ。貴様が動かなければ一思いに楽にしてやろう」
くぐもった声が返って来た。男であることは確実だが、それが誰かまでは分からない。
「その気遣いから察するに、単なる夜盗ではないと見た。しかし、闇討ちとはどういった了見だ。俺は紅に来てひと月の間、誰かから恨みを買った覚えはないのだが……」
羅雪の問いに黒衣の男は答える素振りを見せず、問答無用とばかりに短剣を構えたまま走り出した。丸腰を相手にしていることに、何ら躊躇もないようだ。
肉薄する黒衣の男。構えられた短剣が真っ直ぐに羅雪の胸へと突き出された。切先が月光を受けて鋭い閃光を放つ。
剣先と羅雪の間の距離は瞬く間に埋まり、もはや回避は不可能であると思われた。
だが、甲高い金属音が闇夜の中を鐘の音のように響き渡る。それが、短剣が羅雪の身体に届かなかった何よりの証左であった。
「何ッ」
外套の頭巾を深く被っている黒衣の男から表情を伺うことは出来ない。しかし発した声の色合いから驚愕していることが分かる。
男が驚くのも無理はない。
両手に何も持っていなかった羅雪に、短剣を防ぐ術などないはずだった。しかし、羅雪が胸の前に掲げた右手の袖口から菱形の刃が飛び出し、迫り来る短剣を弾いたのである。誰であろうと驚く光景である。
攻撃を防がれた黒衣の男は咄嗟に飛び退いて、羅雪から距離を置いた。
「むっ、武器を隠し持っていたかっ!」
男は羅雪が持っているのは暗器の類とでも思ったのだろう。
だが、実際には異なる。
天来具『白蛇』。それが、羅雪の手にした武器の真名である。
羅雪の袖口から白い棒状の物が飛び出して、その先端に備わっていた刃が短剣を防いだのである。全貌は見えないが、槍のようである。槍の柄は穂先との接合部分のみが露出しており、その大部分は未だ羅雪の袖の下に隠れていた。
海運の際に訪れた故国のとある村で、奇跡的に天来具の現物が残されていた。紅の国で何かの役に立つかもしれぬと考え、大枚を叩いてそれを買い求めた。まさか、このように自分の命を救われることになるとは思わなかったが。
羅雪の袖口から、槍がその全身を露わにする。
しかし、その有様は不気味であった。羅雪が指一本と動かしていないにも関わらず、槍が全身をくねらせるように動いて袖口から這い出し、穂先を宙へと伸ばしている。まるで生きた蛇のように袖口から飛び出た槍は、羅雪の手のひらを伝いつつ、宙にその身を投げた。
その瞬間、今まで軟体であった槍が、一本の芯が入ったかのようにピンッと硬質化し、普通の槍として羅雪の両手の中に収まった。
羅雪の身の丈よりも僅かに長い槍。先程まで蛇のようだったその柄は白亜に彩られており、月光を反射して朧げに浮かび上がっている。
まさしく、白蛇の名に相応しき槍の天来具である。
今までは護身用として腹巻のように身に付けていたが、まさか使うことになるとは。
「ほう、抵抗する気ならば、こちらも容赦はせぬぞっ」
強気な姿勢を崩さない黒衣の男。
ならばと羅雪も槍を構えた。
海賊に襲われたあの日から、自分とつきを守れるくらいには強くなりたいと願い、自らを鍛え上げていた。数々の武芸を習い、必死になって技を磨いた。海運業をしていると荒事に巻き込まれることも多かったが、そのお蔭で実践訓練もこなすことが出来た。
相手が一人ならば、やってやれないことはない。
そう覚悟を決めた時、
「……む」
一瞬、自分の目を疑ったが、やはり間違いではないようだ。
二つの人影が短剣を持つ男の背後に並んでいる。
仲間がいたのか。ならば強気なのも頷ける。だが何故だろう。男の背後にいる人影達には、まるで生気を感じない。どこか呆然と立ち尽くしているように見える。
よくよく観察してみると、その人影は衛兵のようだった。兜や胸当てを纏った鎧姿であり、腰には帯刀もしている。暮鼓が鳴った後の夜の街にいるということは、警邏中の衛兵であろうか。しかしそれにしては、槍や短剣を構える羅雪達に対して無反応というのは不自然だ。両者の決闘を止めないどころか、黒衣の男に加勢しようとしている。
一つの疑念は、一つの答えを導く。
「……なるほど、その短剣は天来具か」
そう呟くと、黒衣の男が頭巾の下でニヤリと笑ったような気がした。
「ほう、そなたの天来具を見破る眼力とやらは確かに本物のようだ。これは死者を操る天来具でな、丁度近くをうろついていたこやつらには、我の人形となってもらったわけだ。さあ、我ら三人を相手にしてもらおうぞ、東夷殿っ!」
そうして黒衣の男達が隊列を組んで襲い掛かって来た。
決して闇雲な攻撃ではない。操られた二体の衛兵の死体は左右に別れ、正面からは本体が短剣を構えて迫って来る。彼らは羅雪を包囲するような陣形を組んでいた。
羅雪は、まず最も近くにいた左の衛兵に向かって白蛇を突き出した。衛兵が抵抗する仕草すら見せなかったため、白蛇の穂先は吸い込まれるように胴体を貫いた。当然、衛兵が苦悶の声を上げることはなく、白蛇が身体を貫通しているにも関わらず前進し続けている。
白蛇が刺さったままでは扱えないため、羅雪は急いで影から白蛇を引き抜くと、代わりに蹴りを浴びせて突き飛ばした。
即座に次の敵に備えて構えを取ったが、その時には正面に迫った黒衣の男が短剣を振るっていた。突き出された短剣を、横向きに構えた白蛇の柄で防ぐ。雪の如く白い槍の柄に短剣の刃が喰らい付き、金属音が奏でられた。
その時になって、ようやく羅雪は間近で短剣を子細に観察することが出来た。単なる短剣ではない。刀身が三日月のような曲刀となっており、片刃のようだった。
故国を駆け回って溜め込んだ天来具の知識の中から、短剣の正体に該当しそうな物を検索する。死者を操ると言った逸話が残る天来具は何か。
だが思い当たる節はない。無論、全ての天来具の逸話が故国に残されていたとは限らないため、そもそも羅雪が知り得なかった天来具である可能性も否定できない。
「チッ」
攻撃が防がれた黒衣の男は短剣を引っ込めて、再び後退した。
すかさず追い打ちをかけようとした羅雪だったが、もう一体の衛兵に右横から割って入られてしまう。その幻影を貫いている間に、黒衣の男に彼我の距離を稼がれた。
「ふふ、死者など、好きに貫いてくれて結構。彼らは痛みを感じることはなく、ただ我の意のままに動く忠実な兵士に過ぎんのだからな」
黒衣の男が不敵に笑う。
確かにその通りだ。いくら傷を負わせても、二体の衛兵の動きに変化はなかった。生きた人間ならば多少手傷を負わせれば戦意を喪失させられるが、死体相手ではそうはいかない。
再び迫って来た黒衣の男達の対処しながら思案する。防戦に徹していれば、この数的不利の中でも戦いを続けることは可能だった。
しかし腑に落ちないのは、なぜ自分が狙われたのかということ。華炎と謁見した時のあの派手な大立ち回りのせいで、周囲から目を付けられたのは確かに間違いない。天来具を見極めるなどという能力を持っていれば華炎から重用されるのは目に見えており、それをやっかむ者がいるのは当たり前だが、闇討ちをするほどのことではない。羅雪が登用されたからと言って、命を奪う必要などどこにもないはずだ。
では何かもっと別の理由が。
そう考えながら、一歩、右足を踏み出すと、何かを踏み潰す感触があった。ぶちっと、何かが弾ける感覚が足の裏に奔る。
咄嗟に右足をその場からずらして踏んだ何かを確認する。
そこには潰れた虫の死体があった。大きさは碁石ほど。身体から生える六本の脚に、頭部に光る複眼。その特徴的な姿形からすぐに虫の正体が、蜘蛛だと判明する。羅雪の故郷でも林の中でよく目にした。どうやら大陸が代わってもこの虫は生息しているようだ。
待てよ、蜘蛛だと?
その時、ある閃きが頭をよぎった。
さっと顔を上げると、羅雪が余所見をしていた僅かな間に、再び衛兵の死体が迫って来ていた。よく観察してみると足はほとんど動いておらず、地面を滑るように移動していた。そして腰に下げている剣を使う様子がない。
やはりそうかと確信を持った羅雪は、肉薄する二体の衛兵に向かって白蛇を思い切り真横に薙いだ。しかし、白蛇の柄が向かう先は衛兵の頭部でも胴体でもなく、その頭の上に広がっていた暗闇であった。
当然の如く白蛇は何物にも衝突することはなく、ただ衛兵達の頭上の空間を横切るのみ。白蛇が空を斬るヒュンッという音と、そしてそれに混じってプツンッと張り詰めていた琵琶の弦が千切れるような音が夜の静寂に広がった。
「き、貴様っ、気付いたかっ!」
黒衣の男が驚愕の声を上げると同時に、羅雪に迫っていた衛兵達が揃って、その勢いを失っていた。まるで放り投げられた人形のような、どこか滑稽な動きで頭から地面にもんどり打って倒れる。土埃を舞い上がって横臥した衛兵達は、立ち上がる素振りを見せない。
羅雪は地面に接吻をしている衛兵を見下ろさずに、逆に頭上を見た。そこには夜空があり、月明りがあり、そして月光を反射して朧げに光る奇妙な模様が浮かんでいた。
興安の同じく網目状をしているその模様の正体は、巨大な蜘蛛の巣である。闇夜に紛れているため詳細は分からないものの、恐らく羅雪や衛兵の頭上を覆い尽くすほど広く、巣の上では小さな蜘蛛の群れが忙しなく動き回っているはずだ。
「……その短剣、『蠱牙』であるな。蜘蛛の能力を高めて操作する天来具であると聞いたことがある。なるほど、天来具の力で増幅させた蜘蛛の毒性で衛兵の身体を麻痺させ、頭上から垂らした蜘蛛の糸で操り人形のように動かしていた、というわけか」
羅雪が短剣の正体に辿り着くと、黒衣の男の肩がピクリと揺れる。
羅雪が踏みつけた蜘蛛は、白蛇で衛兵を刺し貫いた時の震動が糸を通して頭上の蜘蛛の巣にも伝わり、それで糸を踏み外して地面に落下した一匹だったのだろう。
「先日騒がれていた、陛下の寝室に現れた蜘蛛事件とやらも貴様の仕業だな。陛下に麻痺毒を注入して自由意志を奪い、己の傀儡とするつもりだったのだろう。もし俺に蠱牙の天来具を見破られれば計画がご破算になると危惧し、こうして闇討ちを決行した。そうだな」
そう呼びかけても返答はない。
「死体を操る術などと嘯いたのも、俺に天来具を見破られないようにするための策、というわけだな。よく考えられてはいたが、今夜が満月であったことが貴様の敗因だな。月明りがあるお陰で蜘蛛の糸が微かに見えるぞ」
「……ふんっ、悪運の強いことだ」
「あいにく、俺は『月』とは仲が良いものでね」
「……戯言を。……天来具を看破したところで、貴様の勝利は定まらんぞっ」
黒衣の男がそう叫ぶと、夜空に向けて蠱牙を突き出す。その刀身が月光を受けて一際輝きを見せると、頭上の蜘蛛の巣で蠢いていた蜘蛛の群れが一斉に糸を吐き出した。
それはまるで白い雨。咄嗟に羅雪は回避したが、羅雪を狙ったものでは無いようだ。無数に伸びた蜘蛛の糸は、地面に倒れていた衛兵の身体の各所へと付着して、無理矢理に引っ張り上げた。不格好ながらも衛兵が立ち上がり、操り人形劇の第二幕が開催される。
黒衣の男は衛兵と共に羅雪を取り囲むように円陣を組んだ。すぐに襲い掛かることはせず、様子を伺うように周囲を回り始める。そうやって自身の位置をかく乱しながら、確実にその円の直径を縮めていた。
「さあ、惑え。そして、蠱牙の刃に掛かるがよいっ」
羅雪を取り囲んでいた人影が一斉に距離を詰める。
迫り来る三体の人影の内の一体が黒衣の男で、それ以外は衛兵だ。瞬時に見分けなければならない。更には空中に張られた蜘蛛の巣から舞い降りる無数の蜘蛛の姿が、羅雪の視界の上半分に映っていた。衛兵達の動きを封じた蜘蛛の毒牙も同時に羅雪に襲い掛かって来ていた。
「全て喰らい付けッ、白蛇ッ」
羅雪は天来具の真名を叫び、その真価を解放させて眼前に突き出した。ドスッという鈍い音と感触が伝わる。
「馬鹿めっ、外したなっ!」
男の嘲弄する声が背後から聞こえた。確かに今貫いた人影は、衛兵のようだ。しかし、白蛇を引き抜いて振り返る時間はない。
だが、それでも問題なかった。
なぜならば、白蛇を突き出した時点で、羅雪の攻撃は既に終えていたのだ。白蛇が貫いたのは眼前にいた衛兵だけではない。
衛兵の臍辺りを貫いた白蛇の穂先は左の脇腹から飛び出し、そのまま湾曲すると右隣にいたもう一人の衛兵の脇腹も突き刺していた。更にその腹部も通り抜けると、黒衣の男にまでその穂先を伸ばしている。
「……ぐっ?」
だから、羅雪の背後にいた黒衣の男にも白蛇の牙は届いていたのだ。
白蛇は羅雪の呼びかけに応えて、射出された矢の如く全身を勢いよく伸長させていた。それは比喩ではなく、現実に白蛇の柄がスルスルと伸びていた。
白蛇は持ち主の意志によって伸縮自在であり、その動きも変幻自在の天来具であった。槍というよりも、動きを自由に操れる縄と言った方が的確だ。
黒衣の男は一瞬、何が起こったのか分からないといったように、頭を下げた。そこには自身の脇腹を貫いて通り過ぎていく、白蛇の白亜の胴体が見えたはずである。しかも、敵の本体を刺しても白蛇の勢いは止まらず、空中を飛んでいた蜘蛛すらも見事に穂先の餌食としていた。
まるで「の」の字を作るような軌跡を描いて伸び進んだ白蛇。その穂先は羅雪の周囲をぐるりと一巡して、今や再び羅雪の視界の中に収まっていた。
「がぁああっ!」
背後から男の悲鳴が聞こえると、羅雪は白蛇の柄を引き戻す。それと同時に、自身の周囲を取り囲むほどの長さに伸びていた柄を一気に縮ませる。
羅雪が指の動きだけで白蛇を一回転させると、伸び切っていた白蛇の柄が縮み、同時に硬質さも取り戻した。白蛇は鞭のような形状から槍の姿に変化して、羅雪の手の中に納まる。
「あ、があ、ああああぁああぁああ。は、腹が、血、血がぁ、止まらなねええぇえ」
黒衣の男は自分の腹を抱えながら、もがき、しんでいる。腹部に刻まれた横一文字の傷跡からをどれだけ手で押さえても、溢れ出す血を止めることは出来ない。
「安心しろ、腹の表面を軽く削っただけ。腸までは刺さないように調整している。まあ、運が悪くなければ、死ぬことはないはずだ」
そう軽く言った羅雪は、未だにジタバタ暴れている黒衣の男の頭巾を雑に剥ぎ取った。下から現れたのは、あまり見覚えのない中年の男。確か、財務を担当する役所に勤める下級官吏だ。
「た、頼む、た、助け、医者を、早くぅ……」
男は自らの血で赤く染まった手で、羅雪の足元に縋りついてくる。
傷はそれほど深くないはずなので多少放っておいても問題はないが、騒がれるのも面倒である。男から外套を破いて包帯にし、男の腹の傷に強く巻き付けて止血する。
「……死にはしない。これくらいの傷で喚くな」
そう窘めてから黒衣の男を立たせ、医者のところまで運ぼうとしたところ、突如、暗闇の中から手の鳴る音が聞こえたため、その脚を止める。
「何者だ?」
羅雪が誰何すると、闇夜の奥から鳴り響く拍手の音と共に現れたのは、見知った男だった。紅の国らしい鮮やかな朱色の着物を優雅に着こなした少年。まだ酔いが醒め切っていない少しだけ赤いその顔に微笑を湛えていた。
「羅雪。俺だ、華鉄だ。……ほら、俺が予言した通り、早速功を立てただろ? おめでとう。これでお望みの後宮に一歩近づいたというわけだ」
「……か、華鉄様。なぜ、ここに。まさか、私が襲われることが分かっていて、後をつけていたのですか?」
思い返してみれば華鉄は桃李園での酒宴の最中に、まるで今晩に何かが起こるかのような予言めいたことを話していた。
羅雪の近くに歩み寄った華鉄は、皇太子を目の前にして言葉を失った黒衣の男を面白そうに眺めながら頷いている。
「うむ。確信があったわけではないが、近頃親父殿の寝室に蜘蛛が現れると聞いて不自然に思っていたのだ。皇帝の寝室の警備はこの世に二つとない厳重さだ。偶然、蜘蛛が迷い込むことは考えにくい。仮に蜘蛛を操る天来具の仕業とした場合、そのような代物を持っている者からすれば、天来具の知識を持つそなたは脅威であろう。しかも、そんなそなたが、今宵、皇太子である俺と二人っきりで酒宴を開いているところを見てしまったら、何か告げ口したのではないかと疑心暗鬼に駆られ、すぐにでもそなたを殺そうと企むはずであろう」
理路整然と説明する華鉄。
「……なるほど、それで私を撒き餌にしてこの下手人を誘き出したというわけですか」
「ふふ、そう怒るな。この男を親父殿に突き出せば、そなたにとっては大手柄だ。そこで、俺に一つ考えがある」
そう言った華鉄は声を潜めながら羅雪に顔を近づける。
「実はな、先程そなたと酒宴をしたあの桃李園では毎年花見を行っており、そこで後宮の女達が舞を披露するのが通例となっているのだ。列席できるのは皇族と主だった重臣達のみだが、その場にそなたも招待してやろう。なぁに、今回の手柄を労うためと言えば難しくはない」
思いも寄らない提案に、羅雪は思わず飛びつきそうになった。逸る自分を律するために、理性を総動員しなければならなかった。
「な、そ、そのようなこと、出来るのですか? まだ官吏となって日の浅い私が、そのような宴の席に……」
「おうとも。この下手人を俺とそなたの二人で捕らえたことにすればよい。二人の手柄となれば、俺から親父殿に口添えもしやすい。親父殿も命を救われたのだから、首を横に振ることはあるまい。そなたが夢に見た後宮の美女達の妖艶な舞踏をその眼にしかと焼き付けるといい」
まさに願ったりかなったりである。
もしかしたら、つきに会えるかもしれない。ようやく、ようやく、つきに手が届く。
心の臓が跳ねる心地であった。トクントクンと激しく鼓動を刻み、肋骨を叩いている。苦節四年、ようやく希望が見えた。両手が汗ばみ、意識が白むほどに気が急いている。唾を呑み込んで何とか冷静な自分を取り戻すと、地面に膝をついて華鉄に頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いいたします」
「うむ、万事、任せておけ」
闇夜の中に浮かんだ、その華鉄の笑顔は羅雪にとって太陽の如く眩しかった。