第一章 鉄と雪の契り その2
蓬莱の海賊に全てを奪われたあの日、幸運にも故郷近くの浜に打ち上げられ一命を取り留めた雪介は、必ずつきを取り戻すことを一人静かに決意した。
すぐにでも蓬莱大陸に渡りたいところだったが、焦る気持ちを抑えつつ、まずは情報収集に専念することにした。父親の後を継いで海運業を営みながら、大昔に蓬莱人が来訪したという港町の存在を聞けば訪問し、遭難して流れ着いた蓬莱人が暮らしているという噂があれば、何処へだろうと足を運び、直接話を聞いた。そうしている内に、蓬莱の言葉や天来具についての知識も自然と得ることが出来、自分の国と蓬莱との関係性が意外にも深いことに気付いた。
特に天来具の逸話は蓬莱に渡った時の武器になると考えて積極的に収集し、頭に叩き込んだ。
同時に海を越えるための船作りも進めた。幸いなことに、海運業の経営は順調で資金は潤沢にあった。腕のいい船大工を集めて試行錯誤を重ねては実践し、航路を模索していった。
この当時、遠洋航海の技術は未確立で、蓬莱への安全な航海ルートも知られていなかった。この時に雪介によって作り上げられた船舶技術や航海ルートが、我が国の航海術を飛躍的に高めることとなる。紅玄革命から数十年後、我が国の朝廷が定期的に遣使を蓬莱に派遣することが出来たのも、全て雪介の置き土産のお蔭である。とはいえ、それはまだ先の話。
数々の困難を潜り抜けた雪介が初めて蓬莱の港町へと到着したのが、華炎に謁見する一年前のことだ。蓬莱の到着は雪介にとって通過点でしかない。またもや情報を集める期間が続いたが、それは予想していたよりも早くに終わった。
海賊とそれに囚われた異国の少女の噂を知らないか、と独学の蓬莱語で聞き回っていたところ、情報の提供者が存外にも多数現れたのだ。
「知ってる知ってる。四年くらい前までこの町は海賊に占拠されててなぁ。俺達もひでぇ目にあってたんだ。んで、丁度四年前に奴らがこの辺りじゃ見掛けない変わった船を分捕って帰って来た時、綺麗な娘さんを連れてたんだよ。変な言葉遣いだったからよく覚えてるよ」
漁師の男達が獲れた魚の仕分けをしながら、その時の様子を詳しく語ってくれた。話を聞けば聞くほど、つきの容姿が克明に浮かび上がって来る。
羅雪は逸る気持ちを抑え切れずに、漁師に迫り寄る。
「それで、その女の子がどこに行ったか知らないか? 海賊の根城はどこにあるんだ?」
「いや、もう海賊はいねえんだ。つうのも、さっきの娘さんが連れて来られたその日に、興杏から海賊討伐の軍が派遣されてきてな、全部退治してくれたのよ。お蔭で俺もこうやって海に船を出せるんだ」
なら、この四年間、海賊達に囚われていたわけではないのか。
つきの生存の可能性が見えたことで、雪介は胸を撫で下ろした。
「そ、それで、女の子はその後、どこに?」
「……あー、興安からやって来た軍に保護されたみてぇだが、身寄りもないし言葉も通じないから、軍を率いた王林将軍が仕方なしに興杏に連れて帰ったらしいぜ。……噂じゃあ、王林将軍の屋敷に使用人として仕えているとか」
ようやく、ようやく見つけた。
雪介は高鳴る動悸を鎮めるために大きく深呼吸してから、漁師にこう問いかけた。
「……すまない。興杏という都までの道程を教えてくれないか」
†
興杏。紅の首都であり、そして、紅玄革命後の玄の時代でも首都として繁栄する巨大都市である。興杏が最盛期を迎えるのは、玄の時代、交易路が整備されてからのことだ。それでも繁栄の萌え芽はこの頃から既に芽生えていただろう。小さな島国で生きて来た雪介にとって、始めて見る興杏は大変なカルチャーショックだったはずだ。
紅の時代の興安は世界の東西からのヒト・モノ・カネが入り乱れる大都市であり、物珍しいという表現が通じない場所であったとされる。町中が珍品と珍事に溢れ返っており、珍しいことが普通というような異常な空間が形成されていた。街路を行き交う人々は様々な人種が入り混じっており、皇帝への献上品として象や孔雀が乗せられた荷馬車も練り歩いていた。道行く人もそんな光景をさも当然の如く受け入れていたようだ。
なぜ興杏がそのような大都市となったのか。それは、皇帝華炎の果てのない欲望がそうさせたとする説がある。
華炎は欲望を満たすため、各地の名産品や珍品、そして美女を掻き集めており、気に入った商品を持ってきた者には多額の恩賞を賜ったため、紅の財政を傾ける遠因にもなったとされる。
気前のいい皇帝がいる、という噂を聞きつけた大陸中の行商人がこぞって興杏に集ったがために、国際都市となったようだ。
しかし、その当時の興杏においても、雪介の望みのものはなかった。
「ああ、王林様の屋敷に住み込みで働いていた娘だろ? 気立てが良くて、可愛らしい娘だったからよく覚えてるよ。……確か、三年くらい前に陛下に見初められて後宮に入ったようだよ。まあ、あれだけの別嬪さんだから当然だねぇ」と王林の屋敷の傍で酒楼を営んでいる親父は残念そうに語った。
聞き込みをした雪介が得たのは、かつてつきがここにいたという情報だけだった。迎えに来るのが三年遅かったという現実が、容赦なく雪介の心を掻き毟る。
後宮。その意味は故国での四年間の情報収集で学んでいた。
蓬莱大陸を統一した紅の皇帝の妃や側室が暮らす場所。ある意味で故郷の港町と蓬莱大陸よりも遠く、深く、隔てられた場所にある。
確かに、おつきは美人だった。まあ、性格は少々お転婆で手を焼くこともあったが、確かにあれだけの上玉が膝元にいれば、皇帝が放っておくわけがない。
もはや興杏の街中で調べようがない、と興杏での調査に三か月を費やした雪介はついに観念し、最後の手段に打って出る。
もっと後宮の近くに。皇帝の懐に潜り込んで探すしかない。
その方法は、ある。困難ではあるが、決して不可能な道程ではない。官吏登用試験は身分や出身地に関係なく、大勢の者に受ける資格が与えられているのだから。興杏に集う異国人の中には、官吏を目指してやって来た者も多い。
無論、口で言うほど簡単ではなかった。当時の資料によれば、倍率は百倍とも千倍とも考えられている狭き門であった。だが雪介はこの僅かに開いた門扉を見事に潜り抜けたのである。
そうして羅雪が気付いた時には紅に仕官してから二週間ばかりが過ぎており、寝床にしている興杏の借家と職場である皇城内の司経局を行き来する日々にもすっかり慣れてしまっていた。
いくら司経局に入る権限を持っていても、皇族が住まう後宮にまで踏み込む権利は持っていない。うまく侵入できないものかと、道に迷ったふりをして近くまで歩み寄ったものの、城壁のような高い壁面が聳えていたためすぐに諦めた。中を覗くことすら出来やしない。
後宮に入るには正攻法で行くしかないと納得し、しばらくは「待ち」の姿勢を取ることに決めると、与えられた職務に打ち込んだ。
有難いことに、司経局での職務は雪介、いや羅雪の好奇心を存分に満たしてくれた。
司経局内に延々と立て並んだ書架、そして陳列された貴重な書籍の数々は無口だが雄弁だった。古代の歴史書である木簡や竹簡には、蓬莱大陸の歴史や儀礼について事細かに記述されており、羅雪の知識欲を満たしてくれた。天来伝説や天来具についての記録も豊富で、羅雪が故郷で集めた知識を補強する情報にもなる。
羅雪の仕事はそんな書籍を傍らに置き、その中身を紙に書き写していくことだ。
地道な作業だが、一人で黙々とできるので気楽でもあった。
その日も、黙々と仕事を続けていた。作業に追われている内に、いつの間にか司経局の壁際の格子から差し込む陽光が茜色に染まっていた。夕暮れが近いようだ。
興杏では陽が暮れると楼上で太鼓が鳴らされる。これを暮鼓といい、それを合図に興安の東西南北に設けられた門扉が閉ざされ、一切の出入りが禁止される。これ以降、出歩いているのが見つかると鞭打ちの刑に処せされる。こうした規則正しく厳しい決まりによって、興杏の治安は守られていた。
まだ暮鼓は鳴っていないが、もうそろそろ帰った方が良いだろう。
羅雪は広げていた竹簡を巻いて棚の中に返してから、司経局を後にする。
その足が皇城から興安の街に繋がる城門に差し掛かったところで、朗らかな声に呼び止められた。
「これはこれは羅雪殿。まだ仕官して間もないのに、こんなに遅くまで精が出ることだ」
振り返ると、そこには牡丹のような麗しい赤色に染まる着物を纏った人物、皇太子の華鉄が立っていた。髷で結われていない長髪は風に煽られて、ふわふわと踊っている。華鉄の歳は羅雪よりも一つか二つほど上のはずだが、常に少年のような笑みを浮かべているため、同い歳のように感じてしまう。背格好も近いので尚更だ。
「これは、華鉄様。私のような者に労いのお言葉など……」
「堅苦しい挨拶はいらぬぞ。俺達は歳が近いのだ。もっと気楽にしないか」
華鉄の言葉遣いは皇族とは思えないほど砕けており、興杏の街を行き交う若者と変わらない。いや、うつけ者と呼ばれているのだから、お忍びで街に出ていたとしてもおかしくない。
「私の名を覚えて頂けるとは、恐悦至極でございます」
羅雪は広げた左手に右手で作った拳を当てて、深々とお辞儀する。
「いやいや、そなたの歳で紅の官吏になった者などおらんぞ。名前を覚えない方がおかしいではないか。これを機に仲良くしようではないか」
そう言って快活に笑う華鉄。皇太子というよりも、街を牛耳るガキ大将のようである。
「それは、身に余る光栄にございます。是非とも、お傍に仕えさせていただきたく存じます」
「……うむ。では、どうだろう。親交を深めるため、早速、一杯付き合わないか? この城の中には見事な桃李園があってな。花の見頃には少し早いが、まあ、それも風流であろう」
微笑む華鉄が右手で杯を傾ける仕草を作った。
何か、企んでいるのか。あるいは、純粋に誘っているのか。
一瞬、判断が付きかねて躊躇った羅雪だったが、これはまたとない機会である。皇太子である華鉄と親しくなれれば、後宮に入る足掛かりになる。そもそも皇族からの誘いを袖にすることが臣下にできるはずがない。
羅雪は逸る気持ちを抑えつつ、礼儀に従って静かに一礼する。
「では、喜んでお付き合いしましょう。……そうだ、最近、街の市場で美酒を手に入れまして、一人で飲もうかと思っていましたが、折角ですからそれを持ってこさせましょう。華鉄様のお口に合うか分かりませんが……」
華鉄の顔がぱっと明るく輝く。
「いやいや、酒ならばいくらあっても構わんぞ。美味かろうが、不味かろうが、酔ってしまえば同じことだ。しかし、そなたも酒を用意していたのだなぁ。これは良い機会に誘ったものだ。俺は幸運だ。はっはっはっ」
華鉄のその豪放磊落な笑い声は、父親の華炎と瓜二つだった。
†
桃と李の木が林立する城内の庭園。そこに用意された酒宴の席で向かい合う華鉄と羅雪。まだ花は咲いておらず、青々とした新芽だけつけている木々に囲まれている。
長机のようなテーブルと、その上に置かれた杯と酒樽、そして飾り気のない椅子という、シンプルな様式だったので、羅雪は内心驚いていた。華鉄の護衛も、酒を注ぐ付き人もいないため、二人きりの酒宴である。驚くほど質素な催しだが、これくらいの規模の方が気楽だ。
「華鉄様、よろしいのでしょうか、こんなひと気のない場所で私と二人きりなど。陛下がご心配されるのでは……」
まだ登用されて二週間しか経っていない新参者の家臣と、護衛もいない中で酒を酌み交わす華鉄の豪胆さに半ば感心し、半ば呆れる。もし羅雪が何者かの刺客であれば、華鉄の命を奪うなど赤子の手をひねるよりも簡単な状況である。
しかし、当の華鉄は全く気にした様子がなく、羅雪が使用人に命じて持ってこさせた美酒に舌鼓を打っていた。
「ふふん、親父殿が俺の命など気にするものか。自分の命を守ることに精一杯なのだろう。……ほほう、これは中々名酒ではないか。俺の口にも合うぞ」
華鉄がそう言うならば羅雪もそれ以上何も言わず、杯に満たされた酒に口付けた。茜色の夕焼けを反射する酒は煌めいており、まるで金箔が浮いているかのようだった。口に含むと芳醇な香りが鼻腔を満たす。あまり酒を嗜まない羅雪にも分かるくらい美味である。
「花見の季節には少々早かったな。どの木々もまだ芽吹いたばかりで面白みがない。まあ、せっかくだ、酒の肴にそなたの身の上話でも聞かせてくれないか。東夷の島とはどのようなところなのだ? そなたはどうして自分の国ではなく、この国に仕官しようと思ったのだ? そなたほどの能力があれば、故郷の国でも十分にやっていけるだろう?」
あっという間に杯を空にした華鉄が、柄杓で酒樽の中身を掬いながら言った。
さて、この問いかけにどう答えるべきか。
「……あまり、面白い話ではございませんが……。お望みであれば……」
羅雪はそう前置きをしてから、故国と自分の話を始める。
自分が商人の息子である事、あちこちの港町と都に出入りした事などの事実を掻い摘んで話した。だが蓬莱の海賊に襲われて父親を失い、許嫁が連れ去られた事は伏せる。
意外にも華鉄は聞き上手だった。横やりを入れて羅雪の語りを邪魔するような事はなく、適度に相槌を挟んでくれるので話しやすい。
「……我が国のような辺境の小国にまで噂が轟く紅の国に、私はずっと憧れていました。偉大な紅に献身したいという思いが高じて、こうしてやって来た次第でございます。どうか、今後ともよろしくお頼みいたします」
真実を入り交ぜながらも、重要な部分は隠し通した自身の半生を語り終えた羅雪は、華鉄に向かって深々と頭を下げた。
ズズッと華鉄が杯の中の酒を啜る音が聞こえてから、返答があった。羅雪が延々と話している間、物静かだった華鉄が最初に言い放った一言は、
「嘘だな」
端的に言われた羅雪は、驚きと焦りで顔を上げてしまう。
そこには、羅雪が話し始める前と変わらない表情で酒を飲む華鉄がいた。その表情には怒りや嘆きといった感情は見当たらない。
「……う、嘘ではございません。私は商家の生まれでして……」
「いや、確かに大まかな部分は事実であろうよ。だが、紅に憧れたから仕官したわけではあるまい。そなたの眼の奥には、もっと別の目的があるように見えるぞ。そうだなぁ。何かが欲しくてたまらない、だが手に入らずに苦悶している、そんな眼だ」
図星を突かれた羅雪は返答に詰まる。
全てを打ち明けても良いのだろうか。しかし華鉄が必ずしも味方になるとは限らない。
「いやいや、欲を恥じることはないぞ。大体、紅の官吏を目指すような者は、総じて欲深い連中ばかりだ。名誉、金銀財宝、西域からやって来る珍品の数々。どれも垂涎の的であろう。……そなたも、欲している何かのため、遥々この国までやって来たのではないか?」
羅雪を見つめる華鉄の切れ長の双眸が、すうっと鋭く細くなる。まるで心の奥底を覗き込まれているようだった。
一体、これのどこがうつけ者なのか。街や皇城内で時折耳にした華鉄の噂話とは、まるっきり正反対だ。いや、乱世を平定した華炎の血を継いでいるだから、そもそも暗愚であるはずがなかった。真の知恵者は自身の能力を隠すものであり、華鉄も自らがうつけ者であるかのように振る舞っていたのだ。
「……どうやら華鉄様には何もかもお見通しのようですな」
誤魔化しや嘘は通じないだろう。ならば、ここははっきりと目的を告げる方が、華鉄から信用を得やすいかもしれない。
「……紅の後宮には月も恥じらう美姫が何百人も住んでいると噂を聞きまして、ぜひともそのような天女の如き宮女を娶りたいと、分不相応にも考えてしまったのです。例え、それは叶わずとも、せめて後宮の美女の姿を一目見たいと思っておりました」
羅雪は表情を読まれないように顔を俯けながら答えた。華鉄からは、まるで羅雪が羞恥で赤く染まった顔を隠そうとしてるように見えるだろう。
「……ほほう、なるほど。男として、その気持ちは分からんでもないぞ」
意味深長に微笑んだ華鉄。
「ふむ。後宮の美女であるか。……しかし、皇帝でない者が後宮の女と添い遂げるのは難しいぞ。そもそも後宮に住まう美女は皆、皇帝である親父殿の物だ。息子の俺でさえ、年始や誕生日などの祝い事の時でもない限り、易々とは手を出せぬ。それは分かっているな?」
「はい、勿論でございます」
後宮。広義では皇族の住んでいる城のことを指すが、この場合は妃や側室の住まう場所を意味している。現存する史料によれば、この当時の後宮ではおよそ五十名の側室と、身の回りの世話をする侍女達(彼女達にも相応の容姿と教養が求められた)、合わせて千人ほどの美女が暮らしており、皇帝の夜の相手を務めていたとされる。皇帝以外の男は絶対禁制のハーレムが後宮である。そんなところに皇族でもない羅雪が大手を振って入れる道理などどこにもない。
「しかし、全く手が無いわけでもない。手柄を立てた家臣が、親父殿から褒美として後宮の女を賜ることもある。……まあ、大抵、親父の遊び飽きた女か、もしくは親父の好みに合わず、一度も夜を共にせずに股に蜘蛛の巣が張ってしまった女のどちらかだが」
と、華鉄が腕を組みながら提案を出す。
蓬莱史の資料を読み解くと、宮女として見出され後宮に入ったものの、一度も皇帝から寵愛を受けなかった女性も過去にそれなりにいたようである。美女が千人もいれば皇帝の好みから漏れてしまう者も出るのだろう。そのような皇帝のタイプではない宮女は功績を上げた臣下への褒美として下賜されることも度々あったようだ。
華鉄が出したその案は、羅雪にとって光明だった。
「……では、私も、何か大きな功を上げれば……」
「宮女を褒美として与えられるかもしれん。その時が来たら俺が親父殿に口利きしてやろう」
これは願ってもない申し出である。
羅雪は演技ではなく本心から深々と頭を下げた。
「感謝いたします、華鉄様。まさかそのようなことまで言って頂けるとは……」
「ふふ、こう見えて俺は器量は大きいのだ。……とは言え、そなたも大人しそうな顔をして、中々の曲者であるな。……そなたは最初からこの俺を利用する算段であっただろう? 後宮に入るためには皇族の協力がいると踏んで、俺に目を付けていたな」
華鉄の口端は持ち上がり、穏やかな笑みは崩れていない。しかしその口振りは、間違いなく羅雪を糾弾していた。
「…………こ、これは、心外です。華鉄様を利用するなど……」
慌てて弁解する羅雪に向かって、華鉄はくくっと喉の奥を鳴らすように笑う。
「そなたの用意したこの酒。相当な名酒であろう? 非常に人気の品だ。事前に商人に話をつけて、取り置いてもらわねばまず無理だ。今日、用意できたということは、逆算すると、恐らくはそなたが仕官して参った日には商人に予約を入れていたはず。つまり、そなたは仕官したその日には俺を利用すると決め、酒好きな俺を篭絡するための美酒の準備を始めたというわけだ」
そう言い終えた華鉄はぐいっと杯を傾けて、中身を飲み干した。
図星だった。華鉄が口利きをしてくれるなどとは思っていなかったが、味方につけておこうと考えていたのは事実である。そのために美酒を用意したのだ。この酒宴を華鉄から申し出さなければ、羅雪の方から華鉄をそれとなく誘うつもりであった。
さて、どう返答するべきかと黙考していると、先に華鉄が口を開く。
「……羅雪よ、俺は別に怒っているのではなく、そなたの行動の迅速さに感心しているのだ」
「……申し訳ございません。華鉄様を利用するような真似をして、万死に値するでしょう」
「謝ることはない。目的のためには手段を選ぶ姿勢は、俺の好むところだ。……さてさて、しかし、そなたが目的を果たすには難儀するであろう。手っ取り早く功を立てるには、戦場で手柄を上げるのが効率的なのだが、今はこの天下泰平だ。そのような機会はまず得られない。ここ十年ほどは、他国との戦争も内乱も起こってはおらん。賊の討伐も大きなものはないな。数年前に、王林将軍が東の港町を占領していた海賊を追い払ったのが最後だ」
「ならば、武功を立てるのは難しいということでしょうか。一体、どうすれば……」
機会が与えられれば、例えどんなことをしてでも功を立てるつもりだった。だがそもそもそうした場が無ければ、力を発揮しようもない。天来具を見つけ出すという職務を全うすべきかもしれないが必ず見つかるという保証もなく、時間だけが無駄に過ぎてしまう。
羅雪の心配を余所に、華鉄は余裕の笑みを浮かべながら酒を嗜んでいた。
「案ずるな。そう遠くない内に。ひょっとしたら今晩にでも、何らかの機会はあるやも……」
それはどういう意味かと問い返しても、華鉄は怪しげな笑みを浮かべるばかりで、具体的な話は何も言わなかった。「これで話は終いだ」と手を打ち、羅雪の盃に酒を注ぎ始める。
華鉄に酔いが回り過ぎたのかと不安に思ったが、その眼の焦点ははっきりと羅雪に向いていた。野望に燃える瞳だった。
「羅雪よ。案ずるでない。功を立てる機会はすぐに来るはずだ。……それよりも今は、我らが出会えたこの幸運に感謝しようではないか」
そうして酒で満たされた華鉄の杯が突き出される。
差し出された以上、それに応えないわけにはいかない。羅雪自身、華鉄とこうして協力関係を結べたことは僥倖であり、霧中を照らす光であった。
羅雪も自分の盃を軽く突き出し、軽く華鉄のそれと触れ合わせた。チンッと小気味よい音が鳴る。乾杯を終えた二人は同時に杯の縁に口をつけて、一息に傾ける。
甘美な酒の匂いが口の中と鼻腔を貫き、喉の奥に流れ込んでいく。酒は五臓六腑に染み渡り、羅雪の身体をかっと熱くさせた。だが身体中を焦がすこの熱気は、決して酒だけのものではなく、胸に灯った希望の灯の熱さでもあった。
人知れず行われた、薄暮の中の桃李園での友情の契り。まだ芽吹いていない木々に見守られながら、こうしてひっそりと革命の萌え芽が生まれた。
兄弟のように仲が良い、理想的な主従関係を意味する「鉄と雪の契り」という故事成語はこのようにして誕生したのである。