第一章 鉄と雪の契り その1
玄の時代に編纂された紅の歴史書『紅書』によれば、紅は乱世で荒廃した蓬莱大陸を立て直すために様々な取り組みを行っていた。
例えば、群雄割拠の時代が長く続いたせいで地域ごとにバラバラだった土地の測量や貨幣の単位を全国統一基準にしたこと、官吏の登用制度を推挙制から試験制に改めたこと、など後代の王朝にも継承された優れたシステムをいくつも考案している。
紅書の編纂を担当した玄の史官は、紅書の中で「今日の玄があるのは、昨日の紅があったためである」と高く評価している。
近年、紅と玄の首都であった興杏の発掘調査が進んでいる。遺構からは洗練された陶磁器や西洋風の石像までも多数発見されているため、その当時からすでに繁栄の萌え芽があったことは確実であろう。
そもそも興杏は紅の時代に建設された都市である。北側には皇帝一族が住まう皇城があり、そのすぐ南に官吏達が政務を執り行う官庁街が広がる。更にその南には、碁盤の目のように街路で区切られた区画が整然と配置されており、人口は五十万とも百万とも言われている。
そんな紅の時代であったが、その末期はお世辞にも穏やかとは言えない。
当初は乱世を治めた英雄と名高かった華炎だが、老いるに従って精神を病んでいったようだ。
元々、華の一族は地方の役人の家系で、身分はあまり高くはなかった。それが皇帝という権力を得たことで、果てなき欲望に取り付かれ、黄金や美酒、珍味といったものを多く求めるようになり、そしてついには自分の寿命すらも欲したようだ。
紅書によると、華炎は紅玄革命が起こる五年ほど前から、死を遠ざけるために様々な宗教や儀式に執着し、仙人を自称する怪しげな者達を重用し始めたとある。こうした奇行を諫める忠臣もいたようだが、聞き入れられずに冷遇されたようだ。
華炎の天下統一を支えた重臣が貶められ、佞臣が出世するという不条理が蔓延る政務の場ではあったが、前述したように高度な社会システムが整えられていたため民衆の生活はそれなりに安定していたようである。だが、それもいつまで続くかと、嘆きと不安の声が興杏に溢れていたのは確かだろう。
十六歳になった雪介が華炎に拝謁し、後に紅玄革命を共に決起することになる華鉄と出会ったのは、そんな情勢の頃であった。
この頃には華炎が政務に携わることはほぼ無くなり、月に一度、皇城内の大広間、いわゆる『謁見の間』で百名の官吏達から報告を受けるだけとなっていた。
謁見の間の中央には十五段の階段があり、登った先には華炎が腰かける朱色の玉座が設置されていたことが、現存する見取り図から分かっている。文官五十名と武官五十名が左右に別れて立ち並び、一人ずつ華炎の前に進み出て、その月の政務の報告をしていたものと思われる。
玉座から少し離れた位置には、紅の後継者である皇太子の席があった。父親の隣に座して政務の報告を聞くことで、帝王学を学んでいたのだろう。華炎の子供は判明している限りでは男子六名女子七名。しかし、長男と次男は紅の天下統一前に戦死しているため、この時期の皇位継承権の最上位者は三男の華鉄であった。
紅玄革命を起こし新王朝・玄の初代皇帝となる華鉄は、この当時まだ十六歳、文官が報告する治水工事の進捗状況を聞きながら、銀製の酒器を口元に運んでいた。政務の場でありながら堂々と酒を飲んでいる。
平たい酒器を傾けると、器を満たしていた桃の果実酒が華鉄の唇を濡らし、喉の奥へと流れ込んでいく。勢い余った果実酒の一部が唇の端から零れたので、着物の長い袂で子供のようにごしごしと乱暴に拭った。百官の中には、そんな仕草に侮蔑の視線を向ける者もいる。
紅書には、このような華鉄の暗愚さを示すエピソードがこれでもかと記されており、弟達や官吏から「大うつけ」と陰で呼ばれていたことも記載されている。
歴史書とは次代の王朝が編纂を担当するものであり、無論、紅書も玄の時代に作られた。つまり紅書を編纂した玄の史官は、自分の主君が若い頃いかに悪ガキであったかを歴史書に書き記したことになる。
自分の悪口が書かれた紅書を正当な歴史として認めた華鉄の度量が広いと言うべきなのか、それとも噂通りただのうつけ者だったのか。評価に困るところである。
そして主君の悪口を歴史書に乗せた玄の史官もまた、変わった人物と言えよう。
前王朝の歴史書に現在の皇帝の若い頃やその祖先が登場する際には、現王朝の正統性を高めるため、エピソードを多少「盛る」のがお約束となっている。現在の皇帝が生まれた時に空から竜が現れたとか、産まれた直後から兵法書を読み漁り神童と呼ばれた、などが好例だ。
しかし紅書にはそうした忖度が一切見受けられず、華鉄の悪童っぷりが実に生き生きと語られている。このことから、玄の史官と華鉄の間には深い信頼関係があったことが窺い知れる。
閑話休題。
百官の報告が一通り終わると、華炎は淀んだ瞳で大広間を見渡した。
「治水工事など些末なことはどうでもよい。それよりも皇城内の蜘蛛の対策はどうなっている? 昨晩も朕の寝室に現れたぞっ」
華炎がそう強い口調で問い質すと、慌てて別の文官が前へ進み出て一礼する。
「私めの故郷に伝わる、祈祷術を試行する予定となっております。これが完了すれば、蜘蛛の姿など今後は見たくても見れなくなるでしょう」
「……なるほど、そちがそこまで言うならば期待しよう。うまくいけば十分な褒美を遣わそう、しかし、何の効果も無ければ……」
その先は言う必要もないだろう、という沈黙が残される。
「は、はい、必ずや」
文官が引き攣った笑顔のまま一礼して応える。
この蜘蛛騒ぎで親父殿はますます警戒心が強くなっているな、と華鉄は声には出さずに笑う。
蜘蛛騒ぎとは、数日前に華炎の寝屋に蜘蛛が侵入した事件である。偶々、華炎が真夜中に目を覚ますと枕元に蜘蛛が這っていることに気付き、隠し持っていた短刀で斬り捨てたため事なきを得たが、危うく耳を齧られるところであったという。
しかし事件はこれで終わらなかった。蜘蛛が自分の寝室に迷い込むなどあり得ない、何者かが送り込んだに違いないと決めつけた華炎が、寝床を共にしていた宮女を斬り殺したのだ。
当時、蜘蛛は呪術に用いられることから不吉な存在とされており、華炎が自分の命を狙う暗殺者が放った物と解釈したのも無理のない事であった。
「では、これで終わりとしよう。皆の者、下がるがよい」
「お待ちください、陛下。実は、本日は登用試験がございます。お疲れのところではございますが、何卒、最後のご判断をお願いいたします」
そう言って進み出た文官は、官吏の人事を担当している者であった。
紅の時代に官吏の登用が試験制度に変更されたことは、この章の冒頭に述べた通りであるが、その最終テストでは皇帝の華炎が志願者と直々に謁見し、人柄と能力を見極めていた。現代で言えば、社長が試験官になって行う最終面接試験のようなものか。
文官からの言葉に、微かに持ち上がった華炎の尻が再び玉座に収まる。
「ほう、そうであったか。ならば、呼んで参れ。少しは歯ごたえのある人物であればよいが。名は何という?」
華炎の中に眠る嗜虐心が、その眼に微かな光となって輝いた。
「……えぇ、それが、ユキスケ、と、名乗る者でして」
歯切れ悪く文官が答えると、その場にいた誰もが首を傾げた。
「……ユキスケ、か。変わった名であるな。どの地域の出自か?」
「はっ、どうやら東夷出身の商人のようであります」
「……東夷、だと」
華炎の双眸が深呼吸をするようにゆっくりと見開かれる。驚愕の表れである。その直後、大口を開けて笑い出した。腹の底から響き渡るような大きな笑声。戦場を駆け抜けた経験を持つ豪傑だからこそ発することのできる笑い声であった。
大広間に反響する皇帝の高らかな笑い声に対し、耳を塞ぐことができた人間はほとんどいない。そのような不敬、百官はもちろんのこと、皇族ですらできない。誰もが十年振りに聞く皇帝の大笑に追随し、愛想笑いを浮かべていた。
「喧しいなぁ」
しかし、唯一、華鉄だけがそう呟き、右耳の穴に右手の人差し指を突っ込んでいた。なお、左手にはまだ酒器があり、口元に果実酒を運び続けている。
「はっはっは、東の蛮族が我が国の役人になると申すか。未開の地の猿でも読み書きくらいはできるのであろうな?」
華炎が嘲笑するのも無理はない。
当時、蓬莱大陸と我が国の国交は二百年近く断絶しており、直近の情報などほとんど入らず、東の海の果てに島国があるということぐらいしか知らなかっただろう。ましてや広大な蓬莱大陸を統一した華炎からすれば、我が国など取るに足らない小国に過ぎなかった。
「恐れながら、陛下。このユキスケなるもの、筆記試験の成績はここ十年の間では最上位であり、また武道の心得もあるようです。東夷の人間とはいえ、中々侮れぬかと」
「ほう、文武両道とは面白い。ふむ、だが肝っ玉の方はどうかな。少々試してやるとしようか。……そら、釜を持って参れ」
パンパンッと華炎が手を鳴らすと、大広間の空気が一瞬にして冷え切った。これから何が起きるか察した百官は、そそくさと広間の壁際に寄る。
華炎の命を受けた兵士達が三本脚の巨大な銅釜を大広間の中央に運び込み、その下に薪を突っ込んで燃やした。あっという間に業火が燃え盛ると銅釜を熱し、その内部に満たされていた油がふつふつと音を立て始める。それは地獄の釜の蓋が開いた音でもあった。
「……相変わらず趣味の悪い親父殿だこと。やれやれ、せっかくの酒が不味くなった」
華鉄は泡立つ銅釜を眺めて渋い顔をすると、残った酒を喉に流し込んで酒器を空にした。これから始まる余興が酒の肴にはならないことを知っていた。
まだ蓬莱大陸の天下が一つに定まる前、乱世の頃の話である。
群雄割拠の中では、当然、多くの諸侯の思惑が入り乱れ、数多の謀略が大陸中に蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。共闘を持ちかけつつその背中を襲う算段をしていたり、降伏したと見せかけて内側から襲い掛かる用意をしていたり、裏切り、調略は数え切れないほどある。
もたらされた情報の真偽を見定めるため、華炎は他国からの密使や降伏した将軍と謁見する際には、油で満たされた釜を熱する様子を見せつけていたという。「もし貴様が偽りを口にしていれば釜茹でにする」と暗に恐喝していた。単なる脅しではなく、虚偽を述べた相手は本当に問答無用で油の中に落としていたようだ。
華炎は、ふつふつと煮立った釜の油を目の当たりにした使者の反応から、その者の言葉の真意を見極めていた。
乱世が終わって二十年、天下泰平が訪れたのだから、官吏の登用試験を受けに来た者に、このような脅しをする必要もないはずだ。
しかし今回に限っては釜茹でが行われる。その理由はただ一つ、華炎の気紛れである。
こんなことをしては人心は離れるばかりであろうに。親父殿はあの戦乱の時代が恋しいようだ。寝屋で死ぬよりも、戦場で死ぬことを望んでいるのだろう。
華鉄は華炎に侮蔑の視線を送りつつ、こんな余興に付き合わされることになった東夷のユキスケとやらに心底同情した。
哀れなことだ。紅の官吏となることを夢見て、遠路はるばるやって来たのだろう。あの釜の様子を見ては、きっと恐怖し、驚き、泣き出してしまうかもしれない。
そう思った時、件のユキスケが現れた。
背格好は華鉄と同じくらい。黒い髪を髷に結っており、紅のしきたりに習っている。爪先の尖った長靴に、炎の色合いに染色された長い袖の着物は、今まさに興杏で流行しているファッションスタイルである。東夷の出身と聞き、荒れ放題の髪型で見すぼらしい恰好を想像していた華鉄はかなり驚いた。それは百官や華炎すらも同じであっただろう。
ユキスケは大広間に入る直前に膝を折り、床に伏した。
「……近くに寄ることを許す」
華炎がそう答えるとユキスケはすっと立ち上がり、数歩歩いてまた床に伏せた。
「構わぬ、近う寄れ」
また華炎が答えて、ユキスケが歩み寄る。
同じやり取りを二三度繰り返すことで、ようやくユキスケは華炎の眼前に立つことが出来る。これは皇帝に初めて拝謁を乞う者が必ずしなければならない慣習であり、ユキスケはそれを完璧にこなしていた。
「名君と誉れ高き、紅の皇帝陛下に拝謁出来ましたこと、至上の幸福でございます」
世辞を述べて一礼するユキスケの姿は、すでに一端の官吏の風格があった。しかもすぐ隣に煮立っている油があることを気に留めた様子もなく、驚きも恐怖もしていない。威風堂々とした様子で直立していた。
「貴様は、東夷の出自と聞いた。こんな辺鄙な国までご苦労なことだ。なぜ、わざわざ、紅に来た。故郷の山里で罪を犯し、逃げて来たのか?」
釜茹での脅しが全く通じなかったことに華炎は不満なようである。頬杖を突きながら、尊大な態度で語りかける。
「いえ。広大な蓬莱大陸を統一し、世界を遍く支配する誉れ高き紅の国で、我が力を少しでもお役に立てたいと思い、脚を棒のようにして歩いて参りました」
ユキスケは華炎の嫌味に腹を立てることもなく、淡々と返答する。その回答は実に模範的で非の打ち所がなく、それでいて退屈であった。ユキスケを見つめる華炎の眼から明らかに興味が失せており、それは華鉄も同様であった。
東の蛮族の地からやって来たくせに紅の言語は流暢で訛りもなく、紅の郷にも通じており、物腰も柔らかだ。しかも物怖じしない胆力もある。どんな山猿が来たかと思えば至って優秀、この宮中には吐いて捨てる程いる能臣の一人と遜色ない。
即座に召し抱えて問題ない人物だ。面白くもない。
そう華鉄が判断し、また酒でも飲もうかと考えた時、
「……ですが、考えを改めました。今更ではございますが、この国での仕官を諦め、故郷に戻ろうかと思っております」
と、ユキスケが言い放ったために、再び華鉄の興味が戻った。
「ほう、それは何故だ。朕は貴様を官吏に加えても良いと考えていたのだが、……臆したか?」
華炎もまた愉悦に満ちた笑みを口の端に浮かべ、ちらりと銅釜に視線を送った。下手なことを言えばすぐに油の中に突っ込んでやるぞ、と言いたげであった。
「はい。私はこの紅の国でやっていける自信を無くしてしまいました。というのも、紅の皇帝陛下は賢人を愛する度量の広い名君である、と我が故郷にすら伝わっておりました」
そこで一度言葉を区切ったユキスケはこれ見よがしに大きなため息を吐き、肩を落とした。
「しかし、実際にこうしてお会いして、噂は噂に過ぎなかったとはっきり分かりました。まさかたかが官吏の登用試験に釜茹でを持ち出すとは……。そのような脅しをしなければ、人物の本質を見極められないような小人では、私の才覚を持て余すのは目に見えております。これならば我が故郷の朝廷に仕える方が幾分かマシでしょう。許されるのであれば、ぜひとも今回の試験は無かったことにして頂きたい」
ユキスケは顔色を一つと変えずに淡々と言い放った。
一瞬、その場にいる誰もが息を呑み硬直したために、大広間が静寂に包み込まれる。衣擦れも唾を飲む音すら聞こえず、音と言えば銅釜の中の油が弾ける音ぐらいであった。空間が凍り付いたような静謐が永遠とも思える時間続いたが、実際には瞬きの間に過ぎなかった。
何の後ろ盾もない東夷が皇帝に謁見し、小人と言ってのけたのである。天に唾を吐くが如きこの行為に、誰もが愕然としていた。
この後の惨劇が、一同の頭の内に思い描かれる。自信過剰な東の猿が銅釜で煮込まれている光景である。
華炎がどのような反応を見せるのか、百官は恐ろしく玉座を見ることが出来なかった。
「…………して、そなたは何ができる。そこまで言うのならば、この場にいる百官ですら持たない知識、才覚があるのであろう?」
大方の予想に反し、華炎の返答は静かだった。
しかし、ゾッとするほどに冷たい声色。全身から立ち上る雰囲気は、降りしきる雨粒を雹に変えてしまえるのではないかと思うほどに凍てついている。
ユキスケも華炎の纏う空気が一変したことを感じ取ったのか、背筋を正し静かに一礼する。
「……陛下。私は、天来具を見極めてその真名と能力を言い当てることが出来ます」
「な、……なんとぉっ」
この発言には流石の華炎も玉座から身を乗り出して驚愕し、華鉄も右手から酒器を取り落としてしまった。壁際に控えている百官からもざわめきが漏れ、先程の静謐さが嘘のようにガヤガヤとした喧騒が大広間に響き渡る。
「ば、馬鹿なっ、天来具の記録はとうの昔に失われ、その姿形や能力が明らかになっているものは数少ないっ。東夷のそなたが知っているはずがないであろう、出鱈目も大概にせんかっ」
華炎は憤怒し、玉座から勢いよく立ち上がった。
天来具。古代から中世までの蓬莱史を語るうえで欠かすことのできない用語である。ご存じない読者の方のために、ここで簡潔に述べておこう。
蓬莱において古来より伝わる、とある神話がある。これは天来伝説とも呼ばれている。
遥か昔、蓬莱大陸には人だけではなく、魔(恐らくは妖怪の類であろう)が暮らしていた。人は常に魔の脅威に怯え、穴倉の中に隠れながら生き延びていた。
そんな人々の暮らしを憐れんた天上の人々(神あるいは天使、もしくは仙人とも言われている)は、選りすぐれた人物に特別な武具を与えたという。天に由来する武具、それが天来具である。天来具を授かった者達はその人智を超えた力で、地上に蔓延っていた魔を悉く調伏せしめ、ついに人の世を勝ち取った。
しかし魔のいなくなった土地を、今度は人間同士で奪い合うようになった。
当然、人々は途方もない力を持つ天来具の軍事利用を考える。だが、天来具を授かった者達は人間同士の争いを嘆き、ある者は天来具と共に大陸の外へ去り、ある者は天来具を抱えて激流に身を投げ、ある者は天来具を担いで前人未踏の山奥に籠ってしまった。
こうして多くの天来具は使い手と共に人前から姿を消し、その記録の多くが失われた。しかし、天来具は天上の武具であり、この世の理から外れた存在であるため、未来永劫、決して壊れることはないはずである。故に、いずれ大願を成す者の眼前に現れるであろう。
以上が天来伝説の概要である。
紅書によると、華炎は若い頃に故郷の山奥に隠された墳墓を発見し、その中で天来具の一つを見つけている。「蓬莱を治めよ」という天の啓示に違いないと考えた華炎は兵を起こし、群雄割拠する乱世に殴り込みをかけたとされる。乱世の最中にも、華炎は次々と新たな天来具を見つけ出し(あるいは略奪し)ては、信頼の置ける配下に託して天下統一を成したそうだ。
実は、このようなエピソードを持つ偉人は華炎だけではない。蓬莱の古代から中世にかけて勃興した数々の王朝の歴史書を紐解くと、当時の皇帝や名を馳せた豪傑の多くが天来具を所持していた、という記述が散見される。一種の権威付けや箔付けのために天来具の威光を利用したとする説が有力である。
このことから、皇帝から一般庶民に至るまで蓬莱の人々は、天来具の伝説を信奉していたことが分かるであろう。それを、あろうことか東夷のユキスケが「自分は天来具を言い当てられる」などと軽々しく発言したのだから、華炎の逆鱗に触れる結果となった。
しかしユキスケは謝りもせず、子供に道理を説く僧のように物を言う。
「……陛下。伝説をよくお考え下さい。天来具の持ち主達の多くがその身を隠しましたとされています。その潜伏先は山の中であったり、深き谷であったり、人里離れた場所でした。……東の海の果てもまた、彼らにとっては恰好の逃げ場所であったでしょう」
すると、誰もがユキスケの言葉の意図を理解し、その場の喧噪が最高潮のものとなった。
「まさか、そんな……」
「はい。天来具の持ち主達は、我が国にも逃げて来たのです。我が国に渡った彼らは、魔が蘇った時のことを恐れ、天来具の言い伝えや絵姿をいくつも残されました。我が国の各地で蓬莱からの渡来人の伝承が今でも伝わっています。私は商人という立場上、国内の方々を転々としており、各地で聞いた様々な天来具の逸話を聞きました。そうした知識はお役に立てるかと」
ユキスケの言葉を聞き、華鉄は頭を強く殴られたような衝撃を受ける。全身の血が高ぶり、意識が朦朧とする。百官のざわめきすら遠退いて聞こえる。拳を固く握り過ぎて、手の甲が乳褐色に染まっていた。
天来具の知識を手に出来たならば、伝説に語られた魔を調伏する力が手に入る。
「……それは、真か? 天来具の伝承を全て覚えているなどとは虚言が過ぎるぞ」
華炎は落ち着き払った声で問いかけたが、その声の震えを隠し切れていない。
「……確かに、仰る通り。なれば、ここで我が眼力の一端をお見せ致しましょう」
そう言ったユキスケは視線を華炎から外し、玉座の間近で直立不動の体勢で立っている屈強な衛兵に向ける。その男は、この謁見の間で唯一鎧姿と帯刀を許されている人物だ。兜の下から覗かせる、傷と皺に覆われた顔は潜り抜けた修羅場の多さを物語っている。
その男の名は、王林。
華炎が旗揚げをした直後から傘下に加わった最古参の臣下。乱世の際には幾たびも窮地を潜り抜け、華炎を支えた。その猛将ぶりから『鋼鉄の蟷螂』という二つ名まで取り、華炎の天下統一はこの男なくしてあり得なかった、とまで言われる忠臣だ。
今では華炎が最も(そして唯一)信頼を寄せる部下であり、平時から身辺護衛を任されている。謁見の間における王林の立ち位置が皇太子よりも玉座に近いことからも、華炎からの信任がいかに厚いかが分かるだろう。
「陛下の護衛をなされている、そちらの兵士が腰に差している剣。それは天来具『光刃』でございますな。一振りすれば光の刃が放たれて遠くの敵をも切り裂く、無限の間合いを持つ武具という伝承が残っております」
王林を見つめながらユキスケが堂々と言い放つと、周囲の百官からどっと笑い声が上がった。それは賞嘆の笑声ではなく、田舎者で世間知らずな東夷の若者を見下す嘲笑だった。
「これはこれは、小島に住む山猿は物を知らぬと見える」
「鋼鉄の蟷螂殿が扱う光刃の伝説など、紅では赤子に至るまで知っていること。そのようなことをしたり顔で指摘するとは、傍から見ているこちらが赤面させられますな」
王林が天来具の光刃を華炎から賜って、その力で数々の強敵を撃ち滅ぼした伝説は蓬莱大陸の各地で語り草となっており、この大地に住む者で知らない者はいない。無論、光刃の名前も能力も、道行く人々に尋ねれば十人が十人答えるだろう。
まさかこやつの言う眼力とはこの程度だったのか、と華鉄も落胆する。前のめりになっていた姿勢を戻し、再び椅子に深く腰掛けた。
「……貴様、朕をペテンにかけるつもりであったか? 朕の護衛をしているこの男は、軍将軍の王林だ。この場にいる誰よりも古くから朕に仕えており、こやつが扱う光刃について知らぬ者はこの国にはおらんぞ」
その声色から華炎の怒りが着火するのを、華鉄も百官も察した。そして、今や、ユキスケに同情する者は誰一人としていない。
そんな孤立無援の中でもなお、ユキスケは余裕の表情を崩さずに佇んでいた。
「そうでしたか。光刃については皆さま、ご存知でしたか。……ならば、もう一振りの天来具を言い当てて差し上げましょう」
またもや王林を見つめながら、平静な声で言う。
その瞬間、華炎から立ち上っていた憤怒の雰囲気がすっと静まるのを、華鉄は感じ取った。
……まさか、一度怒り狂ったら何人たりとも宥めることが叶わないあの親父殿が、怒りを鎮めている?
父親の横暴さをよく知る華鉄にとって、それは珍妙とした呼べない光景だった。
あの者が口にした、もう一振りの天来具、とは一体何のことだ。
華鉄はもちろん、周囲の百官ですら頭を傾げる、唐突なユキスケの言葉。
「……この男は狂人かっ。おい、衛兵、こやつを摘まみ出せっ」
百官の一人が声を張り上げると、謁見の間の外で待機していた衛兵が慌てて駆けつける。
ユキスケは鎧を揺らしながら迫って来る衛兵の存在に気付きながら、それでも動じることなく、言い訳を重ねることもなく、言葉を続けた。
「……王林将軍。あなたが光刃を差しているとは逆の、右側の腰に別の剣を下げておられますな。その漆黒の柄頭と、表面に刻まれた文様から察するにあなたが所有するもう一振りの天来具の名は、『斬え……」
「もうよいっ!」
突如、華炎の怒声が突風の如く吹き荒び、ユキスケの声を遮った。
謁見の間にこだまする静止の声。残響がいつまでも鼓膜を打っていた。その場にいる全員の視線が、華炎の元に集う。
「……ユキスケよ、そなたを紅の官吏として迎え入れよう。身を粉にして働くがよい」
華炎から発せられた指示は大方の予想とは大きく異なっていた。この者の首を刎ねよ、以外の命が下るとは誰もが思ってもいなかった。
華炎の言葉を聞き、どうやら幻聴でも夢でもないようだとその場にいる者は理解したが、顔から疑念の表情は消えない。それでも抗議や疑問の声は皆無であった。もし皇帝の決定に異を唱えようものならただでは済まないことをよく知っていた。それ故にこの決定に納得いかないとしても、認めざるを得なかった。
「ユキスケよ、そなたには司経局校書を任ずる。せいぜい励め。また、時には、そなたに天来具の検分を頼むこともあるだろう。その頭に溜め込んだ知識が無駄にならぬように励め」
この人事には、流石に百官からどよめきが上がった。
司経局とは皇太子(つまり華鉄)が保有する宮中の図書館のことであり、また校書とは書籍の管理や写本を作成する役職のことだ。
この時代、製紙技術については発展を極めており、紙は高価な代物ではあるが庶民でも購入することが出来た。一方で印刷技術についてはまだ未熟であり、書籍の複製を作る場合は人の手で書き写す必要があった。
皇太子の図書館には、皇太子に様々な教養を身に付けさせる目的で古代から残る貴重な書籍が多数蒐集されている。司経局校書とはそのような貴重本の写本を作ったり、古代の木簡や竹簡を紙本として編纂し直す役目を負っている重職である。次期皇帝である皇太子の側近と言っても過言ではなく、誰もが羨む官吏の出世コースであった。
東夷出身の田舎者がそんな要職を掠め取ったのだから、百官としては面白くないであろう。だが、華炎皇帝の直々の決定には文句を言えない。ぐっと下唇を噛み締めて、ユキスケの背中を恨めしく睨みつけるばかりである。
「それともう一つ。……そなたの名はこの国では耳馴染みがない。通りを良くするために蓬莱風に名を改めよ」
「……承知いたしました。……然らば、私の真名を一字だけ残して、羅雪と今日より名乗ることといたします」
「……よろしい。では羅雪よ。その辣腕に期待しておるぞ、十分に力を発揮せよ」
「はっ! 有難き幸せっ」
そうしてユキスケこと羅雪は臣下の礼を取った。
このように羅雪は華炎から大抜擢を受けて仕官することになった、と紅書には記録されている。そして、この出来事はそのまま羅雪と華鉄の出会いにも繋がっている。
玉座の脇に鎮座する華鉄は華炎に跪く羅雪を眺めながら、口元を右手で覆い、誰にも悟らぬようほくそ笑んでいた。
……こいつは、使える。
どうやらユキスケ、いや羅雪とやらは、親父殿を認めさせるほどの能力がある。天来具を見極める知識と眼力は本物なのだろう。今は親父殿に首を垂れている。だがこいつは、親父殿と共に乱世を潜り抜けた旧臣とは違う。新参者であるため、何色にも染まっていない雪のような白さがある。そして能力は申し分ない。俺の配下とするのにこれ以上相応しい相手はいない。
密かな野望を抱きながら羅雪を見つめる華鉄。
また、羅雪も華鉄の熱い視線にふと気づいて見つめ返した。二人の視線は一瞬交わり、結びつき、羅雪の方から外した。
……こいつ、やはり何かを抱えている。俺と同じように。
華鉄は、波一つない水面のような羅雪の平静さの奥底に、確固たる意志が潜んでいるのを感じ取った。羅雪が腹に一物を抱えていることを確信し、華鉄は一人ほくそ笑む。もはや手元の酒などに興味は湧かない。それよりも遥かに面白いものを見つけてしまったのだから。
後に紅玄革命を起こす二人は、このようにして邂逅する。