序章 雪月
一際大きな波濤が船の舳先に打ち付けて砕けると、白い飛沫となってにわか雨のように船内に降り注いだ。
「きゃあっ、冷たいっ」
雪介の隣に立っていたつきが甲高い悲鳴を上げる。二人は大海原を眺めるために船の先に立っていたせいで、波しぶきを避けることが出来ず、真正面から被ってしまった。前髪は額に張り付き、着物の裾からポタポタと雫が垂れている。その姿はまさに二匹の濡れ鼠である。
「うぅ、今のはおっきい波だったなぁ。へっくしゅんっ」
「もぅ、雪介が海をもっと良く見ようなんて言うから……」
つきは唇を尖らせつつ、腰まで伸びる烏の濡れ羽色の長髪を束ねて、雑巾を絞るように握った。髪に含まれた海水が大量に零れ、船の床に激しく打ち付ける。
「ははっ、悪い、悪い。おつきと一緒に海を見れるのが嬉しくて」
口では悪びれつつも、雪介の濡れた顔は笑顔に染まっている。つきは「もう仕方ないなあ」と怒った口振りで答えたが、雪介と同じように口元は綻んでいた。
二人は生まれる前より親同士によって決められた許嫁であり、生まれてからも片時も離れずに同じ時を過ごしたため、もはやこれしきのことで喧嘩をするような間柄ではなかった。
雪介の父親は代々続いた漁師から、海産物を都に運ぶ商人へと鞍替えして一財産を築き上げた豪商である。そしてつきの父親は雪介の父親を創業時から支えてきたビジネスパートナーだ。
今、二人の乗る商船は都に商品を卸し終え、故郷の漁村に帰る海路を進んでいた。海産物を捌き終えた後で船倉には空きがあり、船の帆がしっかりと海風を捕まえているため往路に比べて船足は早い。
雪介が父親の操る商船に同乗し、都を往復するようになったのは十歳の頃だ。それから二年が経ち、かつて揺れる船上を歩くことすらままならなかったが、今では地上と変わらずに歩き回れるようになった。
一方で、つきは今回が初航海であった。
故郷の漁村に住む年頃の娘達と同様に、つきはずっと都に憧れていた。雪介が父親の航海に付き合うようになるとその憧憬は益々激しくなり、自分も一緒に行きたいと今まで散々駄々をこねていた。
その念願が叶って、都に滞在していたこの三日間というもの、雪介をあちこちに連れ回し、漁村では決して味わうことのできない都会の洒脱的な雰囲気を堪能し尽くした。そのため、海水を頭から少々被ったくらいでは機嫌を損なうことはない。
しかし、濡れた髪を絞っていたつきの表情から一変する。
「あ、あれ? どうしよう、雪介。せっかく買ってもらったかんざしが……」
つきの濡れた手が頭のあちこちを探し回っている。だが艶やかな髪色のどこを探しても、かんざしの光は見当たらない。
かんざしとは、市場に陳列されていた商品で、つきが物欲しそうな顔で眺めていることに気付いた雪介がこれまでの貯金を奮発してプレゼントしたものだ。余計な装飾が一切ない、髪を纏めるという本来の用途にのみ特化した一本の串の形状をしていたが、その素朴さがつきにはよく似合っていた。しかし今は、つきの頭にも辺りの床にもなかった。
「も、もしかして、……波に、攫われちゃったのかな。……ご、ごめん、雪介、私、ちょっと泳いで探してみる……」
今にも泣き出しそうな顔をしたつきが、船の舳先へと駆け寄った。
「ば、バカッ、止めとけ、溺れるぞっ」
雪介は海に飛び込む直前のつきに慌てて掴み掛り、何とか引き留める。
「だ、だって、は、初めての、雪介からの贈り物……」
「……あんなものすぐ買ってやるから、だから馬鹿な真似は止めろ」
余裕を見せてはいるものの、雪介が商船の操舵の手伝いを二年間続けて貯めた金のほとんどを注ぎ込んだかんざしである。波飛沫を何度も浴びて凍り付きそうになった手で、櫂を必死に動かし続けた二年間の結晶だ。決して安くはない。
それでも、つきの丸々とした双眸に真珠のような涙滴が浮かんでいるのを見てしまっては、男として強がらざるを得なかった。
「う、ぅう、……ゆぎ、……ず、げぇえ。ご、めんねえぇぇえ」
「あー、あー、よしよし。気にするなって」
雪介は泣き崩れるつきを正面から抱き止めて、小刻みに揺れる背中を摩ってやった。まるで赤子をあやしているような気分だ。しかしつきとこうして触れ合えたのだから、あのかんざしも惜しくはないかと、雪介は密かに苦笑する。
と、そんなところへ邪魔する声が割り込んだ。
「おおっと、お二人さん、いくら親公認の仲だからって、こんな場所でおっぱじめないでくれよ。漕ぎ手の船員だっているんだから、船内の風紀を乱すなぁ」
間延びした声とともに現れたのは、この船の船長こと、雪介の父親である。その隣にはつきの父親もいた。二人共、がっしりとした体付きに無精髭、いかにも海の男といった風体だ。
二人の両親の登場で、つきがパッと距離を取ったため、雪介の腕の中から仄かな温もりが消え失せる。おつきの体温をもう少し感じていたかった雪介は、父親に抗議の視線を送った。
「な、なんだよ、親父。見てたのかよ。趣味が悪ぃ」
「……不肖の息子が泣いている女の子を慰めるまで成長したと、父親として感慨に浸っていたのよ。それが悪い事だって言うのか? まあ、この気持ちは父親になってみないと、分からんか。ほれ、お前もさっさと父親になっちまえ、そうすりゃ今の俺の心も分かるだろ、な?」
「おお、そうなればめでたいことだな、村に戻ったら赤飯を用意しなけりゃな」
自分の父親とつきの父親、その二人から波音にも負けないくらいの大声で笑われ、雪介の頬はみるみる赤くなる。それは雪介と向かい合っているつきも同じだった。
「お父さんっ、おじさまもっ、……今のは、その、私が、せっかくの頂き物を不注意で無くしてしまったせいで、……私と雪介がすぐにどうこう、というわけでは……」
つきは赤面を俯けつつ、雪介の父親に向かってポツポツと口を開く。
それを見た父親達は更に豪快に笑った。
「はっはっは、分かってるよ。二人の仲はゆっくり進展させていけばいい。……ほら、それより、これ。俺の足元に流れて来たんだ。今度は無くすんじゃないぞ」
そう言って差し出された太い指に挟まれていたそれは、間違いなくかんざしだった。錫のメッキ加工が施されているかんざしは、海水に濡れて月光のような淡い光を湛えている。
「ああっ、よかった。おじさま、本当にありがとうございます。……雪介、本当にごめんね……もう二度と無くさないからっ。」
つきはかんざしを受け取ると胸元にしっかりと抱き締めて、雪介に向き直る。
深々と下げられたつきの頭を前に、雪介は困惑と羞恥が入り混じりになった表情でそっぽを向いた。何もない水平線の彼方に視線を逃がしつつ、胸を逸らして精一杯の虚勢を張る。
「……そんな安物、無くなったところで俺が新しいやつ買ってやったのに。残念だったなおつき、親父が余計なことしたせいで新品を貰いそびれたぞ。ま、恨むなら親父を恨んでくれよ」
「はは、雪介のやつ、一丁前に照れてやがるぜっ」
「うるせえって。……そんなことよりも、ほら、親父、海に変なもんが浮かんでるぜ」
「そんな誤魔化そうとしなくてもいいじゃねえかよ、はっはっは」
「違うって。冗談じゃないんだ。ほら、あそこっ。筏じゃないのか?」
息子の真面目な調子に父親も顔つきを変える。
雪介が指差したのは、先程まで見つめていた海上。やや荒い波が絶え間なく流れ来る大海原に、揺蕩う影が一つあった。みすぼらしい木製の筏、そしてそこには人の姿があった。波の間に隠れたと思ったら、またすぐに現れるということを繰り返している。
「あ、あれって、漂流者?」
「うむ、昨日は今以上に海が荒れていたようだから、その時に沈没した船の船員かもしれん。筏も壊れた船板を繋ぎ合わせて作ったもののようだ。よくやったぞ、雪介。……おいっ、面舵一杯っ、進路を沖にっ。あの筏まで進めぇっ」
雪介の父親が船中に指示を怒鳴り散らす。それを受けた船員達が何も言わずに動き出し、帆の向きと櫂の動きが一斉に変化する。
商船が沖に向かうに連れて船体の揺れが激しくなり、流石の雪介も立っていられなくなり、四つん這いになった。ちなみにつきはとっくに横臥して、つきの父親に支えて貰っていた。
「おおおおおい、筏の人っ、生きてるかあ? 助けに来たぞぉっ」
筏のすぐ近くまで船を横づけると、雪介の父親が声を張り上げた。
すると、筏の上の人物がゆらりと身体を起こす。声は聞こえないが、手を振っていた。
「今、縄を下ろす。上がって来れるか?」
雪介の父親はマストの根元に縄を巻き付けて先端を筏の上に垂らした。その手際の素早さに雪介が手伝うを言い出す暇もなく、つきと共に指を咥えて眺めているしかなかった。
筏の人物は緩慢とした動きではあるが、目の前に垂れさがる縄にしがみ付くと、ナメクジのような動きで這い上がって来た。遠目からは人影くらいしか捉えることが出来なかったが、近づくにつれてそのシルエットがはっきりする。見たことのない恰好をしていた。着物の造りは似ているようだが、その色合いは濃い赤色をしており非常に派手だ。炎のような色に染まった衣服など、都に何度も通った雪介ですら見たことがない。
縄を伝って少しずつ登って来る人物を甲板から見下ろしていた父親が、ぼそりと呟いた。
「……蓬莱の者か」
蓬莱、その単語を聞き、雪介ははっと思い当たることがあった。
以前、父親にこの海の先に何があるかと問うた時の返答。
いわく、海の先には蓬莱という名の広大な大地がある。そこでは数えるのも嫌になる程長い間戦乱が続いていたが、つい二十年ほど前(もっとも十二歳の雪介には「つい」とはとても感じられなかったが)に一つの国が統一を果たしたという。紅という名のその国は栄華栄耀を極め、おとぎ話に出てくる地上の楽園のような場所らしい。
その時は、また親父の与太話かと信じなかったが、筏の人物が纏っている衣服の染め物の鮮やかさを見る限り、案外嘘ではないのかもしれない。
蓬莱人はようやく甲板に上がると、膝に手をついて荒々しく呼吸している。激しく上下する蓬莱人の肩に手を置いた父親が宥めるように優しく語りかける。
「……言葉は分からないだろうが、とりあえず聞いてくれ。この船で君を蓬莱まで送り届けることは出来ない。ひとまず我々の住む村に案内するから、そこで身体を休めて……」
しかし、父親の言葉が唐突に止まった。
否、止められた。
言葉の代わりに、父親の口から漏れたのは声にならぬ吐息。
「……が、ぁ」
波音に紛れてしまうほどに微かな音。
それもそのはずである。蓬莱人が袂から刀身の短い剣を滑らすように取り出し、何の躊躇いもなく父親の腹部に突き立てたのだから。抗議の言葉を発する猶予など与えられなかった。
「お、……おや、……じ……?」
雪介には目の前の光景が信じられなかった。
気性激しくも心優しい、海の男の鑑のような父親が、抵抗も出来ずに凶刃をその身に受けるなどありえない事だった。しかし、これは現実であった。
蓬莱人が短剣を捻りながら引き抜くと、返り血を全身に浴びて着物を赤く染め直す。同時に、真っ赤に濡れた短剣を空に突き出しつつ、吠えた。
恐らくは、それが蓬莱の言語なのだろう。
蓬莱人が挙げた鬨の声に呼応するように、商船に横づけされていた筏の周囲から複数の水柱が鯨の潮吹きのように登る。海面に立った真白の柱の中から現れたのは、またもや蓬莱人であった。今まで彼らは海中に潜り、息を殺して筏の下に潜んでいたのだ。彼らの腰には父親を刺した短剣よりも、より殺傷に適した長剣が帯刀されている。
商船から垂れ下がったままの綱を伝って、続々と船内に乱入する闖入者達。彼らの正体に気付いた船員が声を上げるも、全てが遅かった。
「……蓬莱の、か、海賊だああぁあっ」
漂流者を装うことで獲物となる商船が近くのを待っていた海賊達。あるいは本当に漂流していたのか、それは不明である。
蓬莱人こと海賊達は、立ち向かおうとした船員を忽ち返り討ちにする。護身用の短剣を持つ船員もいたが、無駄な抵抗に終わるばかりであった。
戦いにすらならない、一方的な惨殺。瞬く間に櫂の漕ぎ手も斬り捨てられ、死体が流れ作業のように軽々と海に投げ捨てられていくため、商船の周辺が文字通りの血の海となっていた。
「こ、こいつ、らぁああああっ」
最初の衝撃からようやく立ち直った雪介の心に、憎悪の火が灯った。全身の体液が高熱を帯びて、怒髪天を衝く。思考が怒りに染まり、それ以外の感情が音を立てて欠落した。
眼前の海賊達の眼を、耳を、鼻を、唇を、腕を、脚を、指を、爪を、臓腑を、毛髪を、ただ破壊したいと言う衝動に支配される。それは生まれて初めて抱いた、殺意という感情。齢十二の少年が扱うには大き過ぎる熱量を持った情念だった。制御し切れない感情を持て余した雪介は、勝算も無く本能のままに駆け出す。
近くで長剣を奮っている海賊に向かって無謀にも飛び掛かろうとしたその時、雪介の父親が眼前に立ち塞がった。
「お、親父っ」
「にげ、逃げるんだっ」
父親は雪介の身体を抱えると、刺し傷から血を流しながら海賊達の合間を駆け抜け、海に飛び込んだ。
雪介の全身に海水の冷気が纏わりつく。だが父親に抱かれた箇所だけは少し温かい。
「お、まえ、だけでも、……生き延び、て」
か細い父親の声と共に、雪介は先程まで海賊達が乗っていた筏に無理矢理上げられた。海の冷気も、父親の体温も名残惜しむ間もなく体表から消え失せる。
「お、親父も、はやくっ」
雪介は慌てて父親の右腕を掴んで引っ張ったが、その身体は鉛のように重く、とても引き上げられない。まるで海の底から見えない腕が伸びて、父親にしがみ付いているようだった。
父親は青白い顔で微笑みながら雪介の手を振り払い、筏を故郷の漁村がある方に向かって力強く押し出した。一瞬、筏は大きく跳ねたが沈むことは無く、雪介を乗せたまま商船から離れていく。荒い波に揶揄われながらも、陸の方へと流れゆく。
「親父っ、親父ぃっ」
一際、高い波が雪介の視界を塞ぎ、その波が去った時には父親の姿は海面のどこにもなかった。海底から伸びる腕に引きずり込まれてしまったのだ。
「あ、ああああっ」
あれほど頭を満たしていた憎悪が消失し、代わりに後悔と絶望が津波のように押し寄せた。
無数の後悔が、海上に浮かぶ泡沫の如く現れては消えていく。海賊を乗せていた筏に、今は自分が運ばれているという皮肉な状況が、自分の過ちを糾弾しているように感じられてならなかった。
漂流者など気付かなければ、こうして惨めに一人生き延びることもなかったのに。
…………一人、……一人、だって?
その時、雪介は今まで片時も離れず自分の傍にいてくれた少女の姿が、どこにも見当たらないことに気付いた。
耳を澄ますと、自分を呼ぶ少女の声が微かに聞こえた。
「ゆき、すけええ、たす、け、てぇえ」
顔を上げた。海面から商船へ。ゆっくりと離れていく商船。その進路を変えて海の向こうへ、恐らくは蓬莱と呼ばれる大陸へと進み始めた商船。その甲板に我が物顔で居座っている海賊の群れの中に、見慣れた少女が紛れていた。
「つきぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
声を枯らしてその名を叫ぶ。
怯えた顔でこちらを見つめているつきは、綱で手足を縛られている。売り飛ばせば金になるとでも思われたのだろうか。怪我をしている様子はなかった。だがその顔は海面に映る雪介の表情よりも深く暗い絶望に染まっている。
しかしおつきの全身から放たれた絶望の闇の中で、襟に刺さったかんざしだけが唯一光を放っていた。それは雪介を導く、北極星のような綺羅星。全てを失った雪介に残された唯一の光芒であった。
「必ず、……必ず、お前を迎えに行くっ。だから、生きて、待っていてくれえええええぇえ」
涙も出尽くした雪介の双眸は、商船の姿が見えなくなっても尚、水平線を睨み続けていた。