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第四章 酔生夢死 その6

 華鉄と羅雪を取り囲んでいた衛兵達が地面に横臥するまで、それほど時は必要なかった。観戦していた官吏達、そして階段の上で見下ろしていた華炎の眼には、瞬きの間に終わったように感じられただろう。それほどまでに天来具を持つ者と持たざる者の差は決定的である。

 羅雪の振った白蛇は、衛兵が構えた剣の間合いの外から肉薄する。鞭のように身体をしならせながら、円陣を組む衛兵を薙ぎ払った。まるで羅雪と華鉄を中心にした竜巻が発生したかのように、衛兵の身体が軽々と宙を舞う光景は壮観である。空の旅を終えた衛兵は床に激しく叩きつけられて昏倒し、立ち上がる素振りもなかった。


「ひぃっ、あなたは、ぶ、武官ではないかっ、衛兵などに頼らず、あの二人を捕らえなさいっ」

「い、いや、しかしっ」


 背中を壁に貼り付けて少しでも羅雪から遠ざかろうとしている官吏達が、次々と醜い言い争いを始めていた。いくら軍事権を持つ武官と言えども、いやそれなりに腕が立つ武官だからこそ、羅雪との実力差を理解して怯えているようだった。

 部屋の隅っこで震える鼠のような官吏達を見て、羅雪は鼻で笑う。彼らを相手にする気はさらさらなく、抵抗しないならばこちらから仕掛けるつもりもなかった。

 この場にいる官吏達は、心を病んだ華炎に怪しげな呪いや術を紹介して取り入った奸臣であり、華鉄によって生きようが死のうがどうでもいい相手と判定された者達だ。逆に、今後も必要と思われる能臣達には、事前に根回しを済ませており、この革命の戦火に巻き込まれることがないよう忠告している。

 全く、俺の知らない間に準備を進めていたとは恐れ入った。馬鹿みたいに開催されていた酒宴の数々に、そんな意味があったとは思わなかったよ。

 羅雪は背中に庇う華鉄をちらりと見ながら、心の中で賞賛する。

 そう、これまで華鉄が散々行ってきた酒宴。様々な臣下と酒を酌み交わしていたあの時間で、華鉄は相手の真意や能力を見極めていたらしい。今後に役立つ能力を持っているのか、味方となる見込みはあるか、そうしたことを判断するために多くの臣下を招いた酒宴を開催していたというのだ。羅雪の眼からはただ遊んでいるようにしか見えなかったが。


『酒の席ほど、人の本性や能力が露わになる場はないからな。敵味方を見極める場所としては最高の舞台だ』


 と、革命直前の華鉄が得意げに語っていた。酒好きのうつけ者ではなかったわけだ。


「何だ羅雪、随分と愉しそうではないか。そなたの嬉しそうな顔、始めて見たぞ」


 羅雪に見られていることに気付いた華鉄が首を傾げて言う。

 羅雪は顔を逸らして、微かに笑って答える。


「ああ、どうやら俺も、夢っていう美酒に酔っちまったみたいだ」

「…………ほう」


 吐息混じりの声が後ろで聞こえる。

 今、華鉄が一体どんな表情をしているのか気になったが、ここで振り返ったら負けたような気がするので、羅雪は正面を見つめ続けた。


「……ならば、よかった。酒は一人で淡々と飲むのも悪くないが、やはり酌み交わす相手がいるのが一番だ。まだまだ付き合ってもらうぞ、早々に酔い潰れるなよ」

「ああ、お前の方こそ泥酔しないよう気を付けろ」


 冗談を返すと、華鉄が喉の奥を鳴らすようにククッと笑った。


「安心しろ、俺は酒に強いからな」

「……そう言う奴が一番信用できねぇんだよなぁ」


 そんなやり取りをしながら、二人は玉座へと続く階の一段目に足を掛けた。華鉄は横臥した衛兵の手から剣を奪い取り、その切っ先を皇帝に向けている。父親を斬るのは自分の役目であると革命前に言っていたことを思い出した羅雪は、先頭を華鉄に譲る。華鉄の背中を見守りながら、一段ずつ登り詰めていく。


「……グ、ギ、ギ。……鉄、鉄、鉄めぇ。我が子でありながら、帝位を簒奪するかっ! この痴れ者めっ! 忠と寿、二人の兄に申し訳ないとは思わんのかっ!」


 華炎は意地でもこの座を譲らないと言うように、玉座に座り続けていた。その口元からは甲殻類のように泡を噴き出し、眼球は赤い蜘蛛の巣が張っているように血走っている。


「…………父上。あなたが哀れでなりません。乱世を平定した英雄でありながら、自らその末期を汚し続けた。……兄上らもきっと草葉の陰より嘆いていたはず。こうして私の手で引導を渡すことを、兄上らも望んでいることでしょう」


 華鉄の後ろを進む羅雪には、華鉄の表情を読むことは出来ない。その背中を見る限りでは堂々としているようだが、その声色にはどこか悲哀を感じる。本当には泣き崩れそうになるのを必死でこらえているのでは、体裁をどうにか取り繕っているのでは、そう思わせる。少なくとも華鉄が父親の現状を嘆き、自分の手で華炎の英雄譚の幕を引こうとしているのは確かである。


「……ええいっ、鉄っ、このうつけ者っ、親不孝者めがっ! 王林っ、王林はどこだっ! 鷲の護衛であろうっ、さっさとこのうつけ者を召し取れっ。王林よっ、どこにいるっ!」


 顔を左右に向けて、王林の姿を探している。唾を撒き散らしながら忠臣の名を叫んでいる。痴ほう症の老人のようなその姿は、英雄の最期として直視するにはあまりに忍びない。かつては戦場に轟く鬨の声も、今は聞くに堪えない情けない声色である。

 とうとう階段を登り切った華鉄が華炎と、父親と正面から相対する。


「父上。王林将軍はこの場にはおりません。あなたご自身が遠ざけたのです。あなたに残された唯一の忠臣であり、あなたの良心であった王林を」


 老いて病んだ父親を看病する孝行息子のような優しい声で、静かに指摘する華鉄。だが父親に突きつけているのは薬膳の乗った匙ではなく、鋭く光る刀剣であった。


「王林っ、王林っ、どこだっ、儂はここにいるぞっ。早く助けに来ぬかっ!」

「……もし、あなたが王林だけは信じ続けていれば、……きっとこのような結果にはならなかったでしょう。…………さらばです、父上っ」


 華鉄は剣を振り上げて、一切の躊躇いを見せずに、全ての繋がりを断ち切るための一振りを行う。剣の太刀筋は間違いなく華炎の喉元を切り裂いていたはずだ。

 だが、刃が華炎に届く前に、羅雪は背後におぞましいほどの殺気を感じて、理屈ではなく直感で身体を動かしていた。脳を介さない反射行動だった。華鉄を突き飛ばして、同時に右横に倒れ込む。

 そして、つい先程まで華鉄の首があった場所を、光り輝く何かが矢の如き速度で斜めに通り過ぎたのを見た。三日月のような形をした何かは、華鉄の首が置かれていた空間を切り裂いて、華炎の頭上を掠めると謁見の間の天井に直撃する。

 ズンッと鈍い音と元に天井を支える柱の一部が破裂し、抉られたような刀傷が刻まれた。

 この一連の現象は、明らかに天来具『光刃』の力であった。

 この場に集った誰もがそのことに気付き、光の刃が飛んで来た方向へと目をやる。それは謁見の前の入り口。そこには、想像通りの人物が、刀身を黄金の如く輝かせた剣を構えていた。


「――王林はここにおりますぞ、陛下っ」


 謁見の間に王林の言葉が声高に轟き、滞留していた空気を激しく振動させる。まるで雷の如き咆哮。それは、華鉄が少しずつ作り上げた革命の雰囲気を一変に塗り替えてしまう。


「おおっ、王林、王林よっ」


 子供のように華炎がはしゃいで、その名を呼ぶ。


「今、参りますぞっ、陛下っ!」


 そう言うが早く、王林が僅かに前傾姿勢を取りながら駿馬のように駆け出した。玉座まで続く決して短くはない距離を、あっという間に駆け抜ける。齢五十とは思えない、その足腰の強靭さは一体どこから来るものなのか。

 王林は走りながらも光刃を振い、三日月型の刃を次々と作り出しては羅雪に向けて放つ。


「チィッ」


 羅雪は絶え間なく浴びせられる刃の嵐を、白蛇で防ぎ続けなければならなかった。白蛇の伸縮自在の能力を活かすことで、全ての刃を叩き落すのは難しくはなかった。

 だが、飛来する光の刃は質量こそ持たないが、可視化された斬撃そのものだ。白蛇の柄や穂先で受ける度に、痺れるような衝撃が羅雪の両腕に伝わって来る。それ故に、反撃に転じることは難しかった。それは防戦を強いられるということでもあり、王林の接近を許すことを意味していた。

 光刃の猛攻を完封した時には、既に王林は階段を上り終えており、すぐ眼前に迫っている。


「陛下の御前であるっ、頭が高いぞっ、小童っ!」


 そう一喝すると、実体を持つ光刃が羅雪を目掛けて振るわれる。

 羅雪は一合も交えずに、前転して回避。同時に、近くで転がっていた華鉄の身体を脇に抱えて階段を飛び降り、王林から一気に距離を取った。

 階段を挟んで相対する王林と羅雪。先程まで見下ろしていた王林の顔が、今度は上方にある。いつの間にか、視点の高さが逆転していた。


「……陛下。御身のお傍を離れ、危険な目に合わせてしまったこと。王林、一生の不覚でございます。どうか、お叱り下さい」


 王林は華炎の後ろ手に庇いつつ、羅雪への注意を払いながら謝罪していた。


「……ああ、王林よ。詫びるのはこちらだ。そなたを信じておれば、このようなことには……。儂の臣下にして、永遠の友よ。どうか、不甲斐ない儂を叱ってくれ」


 はらはらと涙を流しながら答える華炎の姿に、皇帝の威厳はどこにもなかった。一人の男が友人に許しを乞うだけの様相である。


「……陛下。その言葉だけで、私は十分でございます。……では、御下がりください。この不届き者二名は、私が全力を持って片付けましょう」

「おお、なんと頼もしい。……そうだっ、そなたさえ、居てくれれば。常勝の将軍が余の傍にいたのに、何を心配していたのだろう。何を恐れていたのだろう」

「そうでございます。……この王林、此度も陛下に勝利をもたらしますぞっ!」


 心から救われたような、晴れ晴れとした王林の笑みが、階段の上から羅雪達に向かって注がれる。


「……華鉄、一応聞いておくが、この展開もお前の策の内ってことはないよな? まだ、次の一手があるってことは……」

「ないっ! この場から王林を遠ざけるために様々な策を打っていたのだぞっ!」


 羅雪の確認に、華鉄が不貞腐れる子供のように声を荒げて否定した。その表情には珍しく焦燥の色が見える。東夷出身の羅雪とは異なり、紅の皇太子である華鉄は王林の英雄譚を幼い頃から聞かされている。そのため王林の存在を一際脅威に感じているようだ。


「しかし、この場に遅れてやって来たということは、今まで眠り薬で眠らされていたのは間違いない。……効き目が弱い薬だったのか、もしくは量が足りなかったのか?」


 羅雪は首を傾げて、眠り薬を調達した本人を問い質す。


「まさかっ。あの眠り薬は、前々から親父殿の典医に横流ししてもらっていた代物で、その効果は妓女で何度も実証済みだ。眠る前にあの薬を飲んだ妓女は、俺が何したとしても、絶対に昼までは目覚めなかったぞ。量も誤ってなどいないはず……。クソッ、王林めっ」


 薬の調達ルートをここで始めて知った羅雪は、改めてこの皇太子に仕えて良かったものかと頭を抱える。


「お前、今までそんなことのために眠り薬を……」

「今更、どうでもよいっ。それよりも羅雪っ、必ずや王林を倒せっ」


 華鉄は自分の策が失敗したことがさぞ腹立たしいのだろう。今までの余裕綽々だった態度をあっさりと崩し、地団駄を踏みながら人差し指を王林に突きつけている。

 王林は強敵だ。技量も、天来具の数でも、経験でも圧倒的に負けている。唯一の勝機は眠り薬の効果。万全の状態を装ってはいるが、王林だって人の子だ。眠り薬の影響が全くないとは考えにくい。その隙を突く。


「……華鉄。もし、俺が負けた時のことだが……」


 羅雪は華鉄の前に進み出て、振り返らずに言う。


「……不吉なことを申すな」


 華鉄からの返答は平静だ。だが悟っているようでもある。この勝負の勝ち目が薄いことに、華鉄ほどの策士が気付かないはずはなかった。


「……お前は、全力で逃げてくれ。そして、いつか、また旗揚げをしろ。……俺達の、『夢』のために……」

「…………」


 沈黙。


「ああ。必ず」


 ようやく帰って来た声は、言葉を無理矢理絞り出したように掠れていた。

 そして、羅雪は華鉄を置き去りにして、床を蹴った。

 白蛇を構えて階段を駆け上がる。数段を飛ばし、風のように走り抜ける。待ち構える王林に向かって一直線に突き進む。

 その距離が詰められ、白蛇の間合いに届く直前に、能力を使用する。白蛇の柄が生きた蛇のように蠢きながら伸長した。


「ムッ!」


 左右に波打つように蛇行しながら突き出された白蛇に、流石の王林も刮目する。槍の穂先が見る者を惑わすように、右へ、左へ、上へ、下へと縦横無尽に動き回るさまは、これまでどの戦場でも見たことがないはずだ。

 行けるかっ。

 そう羅雪が逸ったのも束の間、王林が振るった光刃は白蛇の穂にピタリと狙いを合わせ、激しい金属音と共に弾き落していた。恐ろしいほどの動体視力、そして、剣をまるで自分の手足のように操る技量によって成せる神業だ。

 白蛇は自由自在な伸縮性を持つが故に、外部の力を受けると軌道が容易く変わるという脆さも持っている。光刃に叩き落とされた白蛇は、王林の足元の床に勢いよく突き刺さった。

 外したっ。


「この程度か、小童ぁっ!」


 すでに王林は刀身の輝く光刃を腰に番えており、真横に鋭く薙いだ。刀身から三日月の刃が放出され、羅雪の胴体を真っ二つにしようと肉薄する。

 白蛇を構えるか? いや、それよりも。

 一瞬にも満たない思考。

 羅雪は咄嗟に、叩き落とされ床に打ち込まれたままの白蛇を縮めた。伸び切っていた柄が、滑車で巻き取られるようにスルスルと縮んでいく。

 本来であれば、槍の穂先が羅雪が握る柄の方へと近づく動きになる。しかし穂先が床を貫いでいる現状ではむしろ逆。穂先が固定されているため、柄が縮小した場合、それは柄を握る羅雪の身体を運ぶことになる。

 結果、羅雪は床の上を滑りながら、王林の元に接近する。その中途、三日月の刃は身を屈めて回避した。刃の端が右肩を掠めて、皮膚を削いでいったが気にしてる暇はない。

 この局面で間合いを更に詰めて来るとは、王林も想定していないはず。

 王林の懐に飛び込んだ羅雪は、短槍の如く縮んだ白蛇を床から引き抜き、王林の胸部に向かって突き出した。


「チィッ、鬱陶しいっ」


 再び激しい金属音がけたたましく鳴り、またもや、羅雪の攻撃が防がれたことを告げた。

 白蛇の穂を防いだのは光刃では無く、別の剣。むしろ光刃とは対照的に、刀身が黒煙に覆われているかのように黒く染まっていた。

 『斬影』、王林の持つもう一振りの天来具。鋼鉄の蟷螂の左鎌である。


「やはり、そいつを抜いたなっ」


 羅雪は吐き捨てると、反射的に後ろに跳躍して王林から離れた。

 案の定、王林はすぐさま左手に握った斬影を振るう。ただし、その刃の向かう先は羅雪の身体ではなく、床だった。謁見の間の床を覆っていた絨毯が切り裂かれて、美しい幾何学模様の一部に刀傷が刻まれた。断ち切られた絨毯の繊維が綿埃のように辺りを舞い、日差しを受けてキラキラと輝く。

 ただ、それだけである。

 しかし、それだけで済んだのは、羅雪が即座に王林から距離を取り、自分の影を斬影の間合いの外まで逃がしたからだ。あと一歩判断が遅れていれば、斬影の黒き刃が羅雪の影を切り裂いていただろう。間一髪である。


「……この斬影の初撃を回避した者は、そなたが初めてだ、羅雪殿。東夷で天来具の知識を得たというのは嘘ではなかったようだ」


 右手に光刃、左手に斬影を握り、真の戦闘態勢を取った王林が抑揚のない声で賞賛する。


「……ああ。……斬影に影を斬られた者は、斬られた影の箇所と同じ部位に刀傷が付く。いかに重厚な鎧で身体を覆っていても、その剣に影を斬られることは生身を斬られることと同義という。そんな恐ろしい天来具、警戒しないわけないだろう」


 羅雪は心中の興奮を抑えつけながら淡々と答える。

 そう、羅雪の気持ちは昂っていた。蓬莱に名高い王林将軍とこうして相まみえていることに、言いようのない高揚感を覚える。


「……対照的な二本の天来具だな。光刃の無限の間合いにより、遠方から敵を斬り伏せることが出来る。そして、仮に敵が光刃の攻撃を掻い潜って間合いを詰めてきた時には、斬影による搦手で殺す。よく考えられた戦術だ」


 光刃の派手な能力で敵の注意を引き付けながら、斬影の一太刀で影を断つ。これまで斬影の存在を秘匿にしていたことも納得だ。光刃と斬影、必殺剣と暗殺剣、その二振りの鎌が蟷螂の両椀だった。


「そなたこそ、その白蛇という天来具を見事に使いこなされている。そなたような使い手がこの平穏な時代にもいたことを、素直に嬉しく思うぞ。……そんな有望な若者の命を、この老いぼれの手で奪わなければならないこと、実に惜しい」

「……それはこっちも同じだ。……あんたのような英傑が、古びた時代に置き去りにされるのは忍びない。……なぜ、この国を庇う? 紅の命脈はとっくに尽きている、そんなことは余所者の俺ですら分かるのに……」

「……いや、儂の気持ちなどそなたや華鉄様にも分かるまい。そなたらのような若者には」


 会話を交わしながらも、王林の双眸は鋭く、常に羅雪の隙を伺っている。光刃を持つ王林には、間合いなどという概念は存在しない。視界に映るあらゆる物体に刃が届く。そのことを分かっている羅雪は白蛇を構えたまま、予断なく王林の動きを観察している。

 絵画のように静止している二人だが、その間にも読み合いという戦いを続けていた。

 そんな中で、羅雪の背後に守られていた華鉄が口を開く。


「……なあ、王林よ。そなたも分かっているはずだ。親父殿の、皇帝華炎の暴虐ぶりに人心は離れ始め、皇城には欲深い奸臣が蔓延るようになった。このままでは、いずれ大きな乱が起こり、再び乱世の時代に舞い戻るかもしれん。それでも良いのか?」

「……華鉄様。私にとって、この紅という国は子供のような存在です。見捨てることなど、出来ません……。これは理屈ではございませんし、理解してもらおうとも思いませぬ。陛下と戦場を共にした者でなければ、儂の心など分からぬでしょう」


 そう答えた王林が、突然、ククッと声を漏らして笑う。

 今の会話のどこに笑い処があったのか、羅雪と華鉄は困惑する。

「ああ、失敬。先程、全く同じような問いかけを受けて、そして同じ答えを返したことを思い出し、可笑しくなってしまいました。……そうそう、あの娘も、華鉄様の策だったのですね? どうやって華鉄様があの娘を懐柔したのか、どうにも不思議でしたが、この場に来てようやく腑に落ちました」

 一度、言葉を区切った王林は羅雪の方を向き直った。


「……羅雪殿、あなたは月花を以前から、紅に来る前から知っていた、そういうことか」

「……」


 羅雪は否定も肯定もせず、この問いかけを聞き流そうとした。王林に余計な情報を与えまいと、貝のように口を閉ざす。

 だが内心の焦りは堪え切れない。

 もう月花との繋がりは露呈している。月花は、果たして無事なのだろうか。そもそも王林がこの場にいる時点で、月花の身は……。


「……ふ。答えずとも、儂には全て分かっている。お主と月花は共に東夷の出身だ。互いに顔見知り、いやもっと深い関係だったのだろう? お主は、異国に連れ去られた愛しい人を取り返すためにやって来たというわけか、ふふ、若いな」

「…………」

「しかし、もうお主と月花の再会は叶わん。儂が屋敷を出ようとした時に月花が立ち塞がったのでな、邪魔であったから光刃で斬った。……哀れな娘だな。最期までお主の名を呼び続けていたぞ」


 その瞬間、羅雪の心の臓が跳ね上がり、全身の毛が逆立つのを感じた。思考が漂白されて、天地が反転したかのような衝撃。王林に向かって無鉄砲にも飛び出したくなる衝動に突き動かされる。しかし理性を総動員して何とか抑え込み、浮き上がった足の裏を再び床へと接着させた。奥歯を噛み締めて、激情を嚥下する。

 全身の筋肉に力を込めることで、感情のままに動こうとする身体を硬直させた。

 相手は百戦錬磨の強者、挑発の仕方も心得ているはずだ。今の言葉も果たして信用に値するかどうか分からない。

 そうだ、相手をよく見ろ。焦るな。

 視界を覆っていた怒りの霞が晴れると、王林の姿に矛盾点を見つけることが出来た。


「……王林将軍、その手は通じない。光刃にも、あなたの衣服にも、返り血の一滴たりとも見当たらない。あなたは皇帝の危機を知りながら、月花を斬り捨てた後、わざわざ血のついた着物を着換え、光刃の刀身を丁寧に拭ったというのか?」


 羅雪が自分に言い聞かせるように指摘すると、王林は口角を吊り上げて笑った。簡単な問題を子供が解いたことを褒めるような、そんな笑みだ。


「……良い判断だ、羅雪殿。二十年の治世で堕落した今の紅の若者より、遥々東夷から渡って来たそなたの方に気骨を感じるぞ。出来ることなら、そなたと刃を交えるのではなく、同じ方向に刃を向けたかった」

「それは、俺も同じ気持ちです。……あなたとは、戦いたくなかった」


 海賊に攫われた月花が今日まで生き延びることが出来たのは、王林の保護があってこそだ。羅雪に王林を恨む気持ちなど微塵もなく、むしろ感謝と憧憬の念を覚えている。


「しかし、こうして相まみえたのも天命だ。……陛下に、紅に、我が子に仇なすのであれば、儂に躊躇いはないぞっ!」


 その言葉と共に、王林は予備動作もなく即座に光刃を振るった。光刃の刀身が作り出した三日月は矢のような減速もせず、放物線も描かずに、真っ直ぐに飛来する。

 会話の最中でも決して気を抜かなかった羅雪は、この不意打ちにも冷静に対処する。白蛇を縦に構え、飛んで来た三日月を受け止める。黄金に輝く三日月は白蛇の柄に接触すると、斬撃のような金属音と衝撃を残して砕け散り、衝突時の震動が羅雪の両腕に痺れるように伝達した。

 羅雪は白蛇を構え直して、こちらから王林を攻める。

 自らの影を王林の間合いに晒さないように、絶妙な塩梅の距離を保ちながら白蛇を伸長させる。鞭のように振るい、あるいは槍の如き直線的な動きをさせながら、妙技を尽くして王林を攻撃し続ける。技量でも経験でも敵わない相手に唯一勝機があるとしたら、それは攻め続けることだけだ。一歩でも引けば、敗北は免れない。

 ヒュンヒュンという白蛇が風を切る音が、まるで蝟集した虫の羽音のような騒音となって謁見の間を染め上げていく。

 王林の正面から、右から、左から、背後から、頭上から、足元から、白蛇の牙が喰らい付く。


「見事な技だ。……が、相手が悪かったな」


 王林は羅雪への賞嘆と己への絶対的な自信を口にしながら、蟷螂の両鎌を振るって羅雪の全攻撃を撃ち落とす。白蛇が風を切る音と共に、激しい金属音が奏でられる。それは白蛇の穂先が弾かれる音だった。音と共に火花も散る。

 縦横無尽に動き回る白蛇の穂先は、まるで蜂のような軌道を描き、常人の眼で追い切れるものではないはず。だが王林には通じていない。白蛇の向かう先を正確に読み、その動きに二振りの天来具を合わせている。


「チッ、まだまだっ、これからだっ」


 羅雪は白蛇の柄を更に激しく振り回して、その動きを加速させていく。白蛇が風を切る音は暴風のような轟音となり、残像すらも置き去りにする高速に達する。

 しかし、それすらも、王林にとっては児戯に等しいようだ。

 白蛇が風を切る音を立てる度に、それと同時に火花と金属音が羅雪と王林の間で瞬間的に断続的に弾けた。

 なぜ、ここまで俺の動きに付いて来れる。いくら百戦錬磨の英傑とは言え、もう人の眼で追える速さではない。二振りの天来具を持つからと言って、身体能力が底上げされるわけではない。三つ目の天来具を持っているとでもいうのか。人智を超えた動きを可能とする、あるいは未来を予知できるような能力を持つ天来具をどこかに仕込んでいるのか。

 羅雪は攻撃を続けながら、王林の爪先から頭の先までを眺め回して天来具を探す。

 そこで、気付いた。

 王林は、空間を自在に駆け回る白蛇の姿を眼で追っているわけではなかった。王林が睨んでいるのは、たった一点のみ。

 それは、羅雪の視線だ。

 王林の双眸は真っ直ぐに羅雪の眼を貫いていた。何の感情も抱かずに、淡々と獲物を観察する捕食者の瞳で。まさしく、蟷螂。

 ……そうか、王林は俺の眼の動きで白蛇の行き先を読んでいたのか。

 まさしく達人だ。言うほど簡単ではない。相手の僅かな視線の移動を子細になぞりつつ、白蛇の狙いを読み、その動きに完璧に対応する。天来具の能力などではなく、極限まで磨き上げられた実力と経験でなせる神業。

 天来具を二振り持っているからといって、今まで慢心したことは一度としてなかったのだろう。丁寧に実戦経験を積み重ねて、天来具を保有するに相応しい実力を兼ね備えた強者。

 彼我の実力差を否応なしに理解させられる。常に生死の狭間に身を置き、乱れた世を生き抜いた者だけが得られる圧倒的な経験値。


「……やはり、若いな。力の差を察しただけで戦意が下がるとは。……羅雪殿、老婆心から忠告しよう。人には、絶対に勝てない相手と分かっていても、戦わねばならぬ時がある」


 羅雪が全身全霊を込めて放った白蛇の数多の攻撃を、悠々と弾き落した王林が言う。門下生に稽古をつける師のように。

 そう、王林の言う通りだ。

 格上の相手だとしても、実力差が歴然で勝てないと分かっていても、ここで負けるわけにはいかない。

 自身を叱咤し、考えを改める。

 考えろ。俺の勝利条件とはなんだ。王林に勝つことか? 確かに、英傑と呼ばれたこの男に勝つことが出来れば、名声は揺るぎないだろう。だが、それが最優先の目標ではない。俺がすべきことは、背後にいる華鉄を新たな皇帝に据えることのはずだ。

 だとしたら、必ずしも王林に勝つ必要は無い。倒そうなどと考えるから防がれる。こちらの動きが読まれるのならば、むしろそれを逆手に取って……。

 光芒の如き閃きが脳裏を過る。

 気付いた時にはすでに行動に移っていた。

 再び、白蛇を放つ。今までと全く同じように、王林に向かって。

 それは、ある種の信頼でもあった。

 王林であれば、この攻撃を防げないはずがない。必ず白蛇の動きを読み切って、それに対応してくれる、という絶対的な信頼。何十合と討ち合った者だけが抱くことが出来る、圧倒的強者への敬意にも似た信奉だった。

 緩い円弧を描くように飛び掛かった白蛇の眼前に、王林が光刃を構えた。羅雪の信頼に答えるように、白蛇の動作を読み切って、その向かう先に光刃を置いたのだ。

 またもや防がれることになる、白蛇の攻撃。


「そう、それで、いいっ!」


 羅雪は白蛇が光刃に弾かれた瞬間にもう一度操り、その挙動を僅かに変える。白蛇の穂が弾かれたことでたわんだ柄を、光刃の刀身に引っ掛けた。すかさず、幾重にもとぐろを巻いて、光り輝く光刃の刀身が見えなくなるほどに絡み付かせる。


「ぬぅっ!」


 羅雪の意図に気付いた王林が光刃を引っ張ったが、羅雪も対抗して白蛇を引く。両者の間で伸長した白蛇の柄がピンッと伸び切って、まるで綱引きのように宙に張られた。

「き、貴様っ!」

「これで光刃は封じたぞっ! グズグズするな、走れっ、華鉄っ」


 羅雪は王林の鋭い眼光を睨み返しながら、背後の華鉄に向かって呼びかけた。


「ああ、頼むぞ、羅雪。古臭い頭のジジイをそこに縛り付けて置けっ」


 羅雪は、刀剣を握った華鉄が玉座に向かっていく姿を視界の隅に捉える。


「くっ、陛下の元に行かせるのが狙いだったかっ!」


 この時になってようやく、王林の視線が羅雪の双眸から逸れて、玉座までの階段を登っていく華鉄の背中を追った。王林の眼には逡巡が宿ってたる。白蛇に捕まれた光刃を放り出して華鉄を止めるべきか、あるいはこのまま引っ張り合いを続けるべきか、この二者択一に葛藤しているようだ。

 そう、羅雪は、この僅かな一時さえ稼げれば良かった。華鉄が華炎を弑するまでの時間を。羅雪と華鉄の勝利条件はただ一つ、皇帝の排除、それだけなのだから。

 しかし、王林の躊躇は長くはなかった。白蛇が絡みついた光刃を即座に投げ捨てて、羅雪には目もくれずに華鉄を追って駆け出す。流石の判断力である。だが、これで王林の片腕を?いだようなものだ。

 羅雪は王林が見捨てた光刃を回収するために、伸び切った白蛇を縮ませる。白亜の柄が後退する蛇のようにスルスルと羅雪の手元へと戻っていく。白蛇の穂先に引っ掛けた光刃が近づいてくると、羅雪の心も僅かに踊る。光刃を失った王林、片鎌が?がれた蟷螂など恐れるに足らない。

 勝機を見出したことで、羅雪に一瞬の隙が生まれた。

 そして、それを見逃す王林では無かった。


「やはり、若いなっ」


 華鉄を追っているように見えた王林は一転し羅雪に向き直ると、縮小していく白蛇の柄に飛び掛かった。最初からこれを狙っていたかのような、瞬時の行動だった。白蛇の柄を掴んだ王林の身体は、縮んでいく柄に引っ張られながら羅雪との距離を一気に詰める。

 無論、羅雪は慌てて白蛇の縮小を止めたが、その時にはすでに王林は手を放して跳躍していた。慣性の法則に従い、白蛇が縮小する勢いに一度乗った王林の身体は静止せずに、羅雪の元へと肉薄する。

 羅雪の視界の中であっという間に大きくなった王林は、斬影を高々と掲げている。


「くっ!」


 急いで羅雪は距離を取ったが、その間合いから身体を逃すことは出来ても、影の退避までは間に合わなかった。

 振り下ろされた斬影の切先は床を刺し、羅雪の影の右肩に触れた。敷かれた絨毯と床板を刃が貫くドスッという鈍い音が響いた後に、羅雪の肩が熱を帯びた。


「……ぐっ、これが、斬影の力……」


 肩を覆う衣服の生地には何の変哲もない。だが、生身の肩には、冷たい鋭利な物体で刺し貫かれたような感覚が確かに奔った。そして少し遅れてから、衣服に血の染みが広がっていく。焼けるような痛みの感覚と出血の量から見て、深手であることは間違いない。刺傷は右肩を真っ直ぐに貫いている。正面から傷口を覗き込めば背中側の景色が見えるだろう。

 羅雪の生身は斬影の刀身に触れてさえいないのに、影を突かれただけでこの有様だ。例えどのような重厚な甲冑に覆われていたとしても、影の傷はそのまま生身の傷へと跳ね返る。

 右の指先が痺れ、触覚が薄れる。白蛇を握る力すら朧げになっていた。

 しかし、それでも羅雪は幸運だった。

 羅雪が斬影の能力を事前に知っていたから、寸前のところで回避が出来た。斬影の特性を知らなければ、影を回避させることなど考えなかっただろう。そうなれば赤子の手をひねるよりも容易く影の喉元を貫かれて、自分が殺された事にすら気付かずに逝ったかもしれない。暗殺の武器としてこれほど相応しい天来具はない。

 利き手に傷を負ったとはいえ、まだ戦える。

 痛みで支配された思考を奮い立たせ、白蛇の左手に持ち構えて王林の追撃に備える。

 さあ、掛かってこい。手傷を負った獣は、無傷の時よりも恐ろしいことを教えてやる。

 だが、そんな覚悟を持って正面を睨みつけた時には、もう王林の姿はなかった。


「しまっ! 華鉄っ!」


 玉座へと向かう階に目をやると、駆け上る華鉄とその背に迫る王林がいた。王林が構える斬影の間合いは既に華鉄の影を捕捉している。

 何という身のこなし。革命を仕掛けた側であるこちらが、手の上で転がされるように翻弄されてしまう。これが乱世という修羅場を潜り抜けた強者との差異だというのか。

 階段の中途にいる華鉄は迫り来る王林の存在に気付き、剣を構えて向き直った。だがその剣の握り一つで、王林との実力の差は明白だった。抵抗らしい抵抗など許されるはずもなく、皇太子の末路としてはあまりにも虚しい最期が贈られるだろう。


「くっ、伸びろっ! 白蛇ぁっ!」


 羅雪には駆け出す時間すら残されてはいなかった。即座に左手に抱える白蛇を王林の背に向けると、その柄を一直線に伸ばす。鞭のようにしならせたり、蛇のような動きをさせる必要はなく、王林との最短距離を走るように伸長させた。

 まさしく、瞬時。

 白蛇の穂は矢の鏃のように真っ直ぐに、白亜の直線を軌跡として刻みながら宙を飛んだ。その矛先は、王林の動きを即座に止めるべく、心の臓へと向かう。

 しかし、僅かに遅かった。


「お覚悟をっ、華鉄様っ」


 王林は躊躇うことなく華鉄の影に向かって斬影を振り下ろす。蛇の一噛みは間に合わない。

 王林が払った斬影の刃は、絨毯に深く刻まれた華鉄の影の首を切り裂いた。絨毯の生地が引き裂かれる音と共に、影の首が落とされる。その事象は時を置かずして、影の本体へと反映されるはずである。

 終わった。そう、誰もが思っていた。

 しかし、人々はやがて気づく。

 王林が振るった斬影は切り裂いた絨毯の繊維と共に、華鉄の影の断片も宙へと巻き上げていることに。繊維は埃のように陽の光を受けて煌めき、そして影の断片もなぜか空中で立体化し、粉々に崩れながらも黒光りしていた。

 おかしい。斬影で断たれた影がこのような挙動をするはずがない。これではまるで、影が実体化しているようではないか。


「ち、違うっ、これはっ、影ではないっ!」


 いち早く察知した王林が目を見開いて愕然としている。

 そうして、白蛇が王林に辿り着くまでの一瞬が過ぎ去る。

 ドスッと刃物が肉を貫く、汁気を帯びた鈍い音が立つ。同時に、宙に鮮血が散って、まるで宙を舞う桃李の花弁のようであった。

 王林の背中から心の臓を貫くべく放たれた白蛇。

 だがその狙いは僅かに外れ、左の脇腹を貫いていた。


「ぐぅっ!」


 吐血した王林はそのまま階段から転がり落ちて、床に叩きつけられる。再び、立ち上がろうとするが、深手を負った身体ではままならない。

 そんな王林を段上から見上げているのは、華鉄である。

 その華鉄の右手に握られているのは、その場にいる誰もが一度は目にした、飾り気のない短剣だった。天来具、蠱牙である。

「然り。王林、そなたが斬ったのは、俺の影ではない」

 そう語る華鉄の足元から床に這うように伸びている黒い何か、遠目からは影のようにしか見えないそれは、華鉄の言葉に応えるのようにもぞもぞと蠢いている。


「……蜘蛛かっ」


 王林が血を交えた声でその正体を吐き捨てる。


「いかにも。蜘蛛を俺の足元に密集させ、影のように見せかけていた。冷静に観察すれば見抜けただろうが、羅雪との戦いで焦燥していたそなたの良い目くらましになったな」


 そう言い切った華鉄は種明かしは終わりとばかりに王林に背を向けると、再び階段を登っていく。段上に座する、皇帝に向かって。

 すると、華鉄の影のシルエットを形作っていた蜘蛛達は、蠱牙による洗脳が解けたのか、自分達がなぜここにいるのか分からないと言った様子で触覚をピクピクと動かし、やがて陽の光に怯えるように散り散りになって逃げ去っていく。それは黒雲が無数の断片に千切れ、雲散霧消するようであった。文字通り、蜘蛛の子が散る。

 皇帝・華炎は、羅雪達が戦闘している間も逃げずに、その場に留まっていた。それは自分の玉座が脅かされることなどあり得ないという絶対的な自信と、王林が負けるはずないという全幅の信頼感によるものだったのだろう。

 それが無為に期し、己の敗北が確定したにも関わらず、華炎に焦燥や絶望の表情は見られなかった。ただ、諦観だけがある。かつての暴君の姿はそこにはない。悪政を振り続けた気概は欠片も残っていないのか、ただの抜け殻となって背もたれに寄りかかっていた。


「…………父上。お別れの時です」


 華鉄がそのように呼びかけたが、華炎は眼前の息子を見ない。その代りに、階段の下で倒れ伏している忠臣を見つめていた。


「……王林。そうか、そなたも老いていたのだな。……若造二人に後れを取るとは……」


 全てを察し、乾いた声色で呟く。

 これまで自分の老いや死を決して認めず、ひたすら若々しい生を求め続けた華炎だったが、不敗の忠臣だった王林の敗北を目の当たりにし、ようやく自身の時代の終わりを自覚したようだ。顔中に刻まれた皺の数が増え、より深くなっていた。


「ぐっ、申し訳、ございません。今、お傍に参りますっ」


 王林も苦慮に塗れた声で答えた。蜘蛛のように這いずりながら階段を登ろうとしていく。だがその動きは哀れなほどに緩慢で、腹部の傷口からの出血量を増やしているだけに過ぎない。


「…………歳を取るとは恐ろしいことだな。……出来たはずのことが出来なくなる。当たり前が覆されるのを眼にすることになる。…………常に勝利をもたらした王林が敗れる姿など、見たくはなかった。……嗚呼、年月とは、なんと無情なのか」


 華炎は右手で顔面を抑えつけて項垂れている。気力を失った老人は、例え皇帝と言えども枯れ木のような姿に成り果てていた。だが、同時に死力を尽くして燃え尽きた後のような満足感も漂わせている。

 全身の力を抜いて、玉座の背もたれに身体を委ねている様は、樹齢何百年と及ぶ老木が森を見守る役目を終えて、ひっそりと朽ちていくような、そんな荘厳ささえあった。


「……父上。その年月が、天命が、あなたの時代の終わりを告げています。せめて最期は潔く、その首を私に差し出して下さい」


 華鉄は父親が自分を無視していることが気に食わないのか、不機嫌そうな表情で言い放つ。

 その時になってようやく、華炎が華鉄を向いた。

 しばらく視線を交わす父子。

 先に沈黙を破ったのは、クッと笑声を漏らした華炎だった。


「…………鉄よ。礼を言おう。……今ようやく、余が渇望していたものが何であったか、理解できた。何ゆえ、あれほどまでに死に怯えていたのか。……余は、戦場が恋しかったのだ」


 華炎の蕩けたような瞳は、華鉄の姿を映さずにただ過去を見つめていた。


「此度、短い間ではあったが、久方ぶりに戦場に戻ることが出来た。血が沸き肉躍る、あの懐かしき我が戦場。ああ、実に愉快であった。……応酬する剣戟の重奏、……宙を飛び散る鮮血の舞、……そして何より、王林が放つ光刃の輝き。何と美しいことか。……それと比べれば、琵琶の音色や美女の舞踏など、座興にもならんな。……やはり、儂に玉座は過ぎた代物であった。軍馬の鞍の方が儂の尻に馴染んでいたな。乱世こそ、我が居場所だったのかもしれぬ」


 懐旧の想いに浸りながら目を細める華炎。まるで憑き物が落ちたかのように穏やかで、そして驚くほどに覇気を無くしていた。空っ風に吹かれただけでどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと思わせるほどに、存在感を失っていた。

 どれほど盛んに燃えた業火であってもやがては消えて、残った灰が風に運ばれて行く。そんな様子を体現しているようだった。


「……父上、もはや乱世ではございません。民も臣下も、治世を望んでおります。……父上がいかに望まれようとも、もう戦場はこの大陸のどこにもありません。……此度、私が作り上げたこの戦場を、どうか、父上の、英雄華炎の、最後の戦場として納得して頂けませぬか?」


 華鉄は華炎の変化を感じ取り、静かな口調で諭し始める。突き付けた剣こそ下げないが、その声色だけならばごく普通の親子の会話のようであった。

 息子の言葉にこくりと頷く華炎。


「……ああ。満足した。しかし、悲しいかな、昔と比べると、儂も王林も老いた。そなた達、若者に敗北するのは自明の理であったな。此度の戦場も勝利で飾りたいところであったが、……ふふ、世の中、そう甘くはいかないか」


 もはや華鉄が手を下すまでもなく、華炎の生命力は風前の灯火の如く衰えていた。


「盛者必衰の理でございます。古き時代は去り、これより新たな時代が始まるのです」

「ふっ、確かにその通りだ。かつては余も、数々の強敵を退けては併呑し、古き者を駆逐していった。そして今度は余の番、そういうわけだな。……そうやって時代は巡るわけだ。……それが、歴史、というものか……」


 華炎は悟ったように言い、自らの言葉に頷いた。

 そして、消え去る直前のろうそくの炎が一瞬の輝きを放つように、華炎はカッと目を見開いて、華鉄を睨みつける。その瞬間だけは、皇帝として、この大陸の中心たる存在としての威厳を取り戻し、華鉄の試練として聳え立った。


「……だが、我が息子よ。余は自らの意志でこの玉座を明け渡したりはせぬ。腐っても乱世を治めた英雄としての自負がある。命乞いも、媚びを売りもしない。天下を欲するならば、そなたの手で奪い取ってみよっ!」


 華炎は自身の衣服の襟を掴むと乱雑に引っ張った。襟元が伸びて華炎の土気色の喉元が露わになる。生気を失った喉の皮膚は水分もなく乾き切っているが、それでもまだ皮下に血液が流れており、命を帯びている。この喉を剣で断てば、ついに華炎の英雄譚は終幕となる。

 それは、お前に殺す覚悟はあるか、と父親から息子に問いかける行為であった。父親を殺せるかどうか試すなど本来ならばあってはならない、父と子のやり取り。

 しかし、互いに皇族という立場では、普通の親子関係は成り立たない。異質で、異常な関係性だ。もしごく普通の家庭に、一般庶民としてこの二人が生まれていたならば、彼らの間にも当たり前の父子の幸福があったかもしれない。

 そんな、もしかしたら、という可能性の情景を当時の華鉄が思い描いていたかどうか、千年後の現代に生きる我々には知る由もない。


「……さらばです、父上。あの世で兄上と待っていてください、いずれ私も参ります」


 ただ華鉄は感情を押し殺した声を父親への手向けとし、握った剣を真横に鋭く薙いだことだけは、事実である。


「王林よ、先に逝くっ!」


 刃が喉元を断つ直前に華炎はそう叫び、それが乱世を平定した英雄の最期の言葉となった。

 この時の華鉄の様子については、紅書では『華鉄は華炎の首を刎ねた』としか書かれていない。そのため、華鉄は床に転がった父親の首を見て大声で泣き叫び、革命を起こしたことを後悔したとも、高らかな勝利宣言と共に首だけになった父親に唾を吐いたとも言われており、歴史家の間でも諸説様々である。

 暴君となった父親に天誅を下した華鉄は、一体何を考えていたのか。父親を殺したことに満足し感無量であったのか、あるいは後悔し涙していたのか。

 この小説では、あえてこの時の華鉄の姿を描写しないこととしたい。

 残されたのは、王林。主君の姿を見届けようと、満身創痍にも関わらず二本の足でゆっくりと立ち上がった。白蛇が貫いた背中から零れた血が静かに滴り落ちては、床の絨毯に斑点を刻んでいく。それはまるで、王林の涙滴のようでもあった。


「王林将軍、貴殿の戦いは終わりました。どうか、剣を収めてください、その背中の傷もそなままではお体に障ります。急いで手当を……」


 白蛇を縮小させた羅雪は王林の傍まで駆け寄り、その腕を取ろうとした。まだ助かる傷だ。

 華鉄が評価している人物だから、というのもあるが、羅雪自身、この猛将を死なせたくなかった。月花を助けてもらった恩もある上に、何より、その剣技をここで絶やしてしまうのはあまりにも惜しい。

 だが、羅雪の想いに反して、王林の反応は鈍かった。


「……よい、羅雪殿。儂に構うな。……陛下がこの世を去った今、儂もこの場所、この時を死に場所と定めたのだ」


 羅雪の手を振り払った王林が拒絶する。その声色には断固とした意思があった。また、王林の視線が床に転がった華炎の首に注がれたまま全く動かないことからも、その覚悟が嘘でないことが分かる。


「……しかし、将軍。あなたは、まだ生きて下さい。これからの時代にも、あなたは必要です」

「いや、儂は死に遅れた老将だ。守るべきものもない今となっては、潔く去るべきであろう」

「ならば、月花は、月花はどうなるのですかっ。月花はあなたに恩義を感じています。私も同じ気持ちです。……あなたにここで死ねば、私や月花は、誰に感謝すればよいのですかっ!」


 その時、その一瞬だけ、全てを諦観したような王林の瞳に、僅かな躊躇いが生まれた。だがそれも流れ星の如く過っただけで、王林の心を現世に押し止めるまでには至らなかった。


「……月花か、……確かに、あの娘ともう会えなくなるのは、いささか寂しくもある。……だが、あの娘は強い。こんな異国の地に流れ着きながらも、四年間、必死に生きて来た娘だ。儂が居なくても大丈夫であろう。そして、何より、今はそなたがいるのだからな」


 王林の首が錆び付いた金具のように漫然とした動きで羅雪を向いた。

 本懐を遂げたような満足そうな微笑み。もうこの世に未練など無いとでも言いたげな、儚げな表情に、羅雪は掛ける言葉が見つからず、引き留めるのを諦めた。

 この豪傑は、死してなお主君の傍らに立ち、守り続けようとしている。それを妨げることは、俺にも、月花にも許されない。


「……そなたの技、若さ故の未熟さはあるが、しかし、磨けば光る珠だ。月花ともども大切になされよ。……そして、どうか、華鉄様をよろしくお頼み申す」


 そう言って一礼した王林は右手に握り続けていた斬影を高々と振り上げる。

 反射的に、羅雪は王林の間合いから飛び出すため距離を取った。無論、王林に今更抵抗の意志などないことは分かり切っているが、これまでこの豪傑と対峙し続けた羅雪の身体は理解とは裏腹に勝手に反応してしまう。


「あの世には陛下に恨みを持つ者も多いだろう、彼らから陛下を守らねば。……儂も、新たな戦場を見つけたり」


 王林はそう言い残すと、振り上げた斬影を勢いよく振り下ろす。刃が空を斬る小気味良い音が鳴り響き、床と、王林の影を刺し貫いた。黒曜石の如く輝く斬影の刀身が貫いたのは、王林の影の胸部、心の臓が治められているまさにその位置。

 斬影の能力に従って、刀身が刺さった影の部位と同じ箇所に刺し傷が反映される。王林の胸部から唐突に血が噴き出して、衣服を真っ赤に染めた。


「今、参りますっ、陛下っ!」


 王林は天井を見上げながら絶叫して、吐血した。宙に噴き出したその血飛沫は、李の木が花弁を散らす様とよく似ていた。

 そしてついに、豪傑、王林はその場に横臥する。張り詰め過ぎた琵琶の糸が容易く切れるのと同じく、王林の絶命は呆気ないものだった。その老体を支えていた気力が消失したため、膝から崩れるように倒れて、事切れる。年齢を感じさせない俊敏な動きを見せた肉体は、あっという間に物言わぬ肉塊へと代わり、生前を思わせる雰囲気も残らない。そこにあるのは、ただの老いた死体だった。

 だが、それとは対照的に、王林が振るった斬影は床に刺さったまま、その場に立ち続けていた。まるで自らの使い手の遺体を見守るように。王林という豪傑はまさにこの場所で命を散らしたのだ、と主張する墓標となって。

 斬影は、そこに立っていた。

 こうして、革命の日は終わる。だが、同時に新たな始まりの日でもあった。


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