第四章 酔生夢死 その4
紅書の記述によれば、紅玄革命が起こったのは現在の暦で六月一日。春の終わりを告げるうだるような熱気が、興安全体に立ち込めていたらしい。
文武百官が皇帝に拝謁し、先月の政の報告を行う、月初の朝。
毎月の恒例行事をこなすため、いつものように皇城の謁見の間に足を運んだ皇帝・華炎は驚いたことだろう。本来、部屋の左右に勢揃いした百官らが一斉に頭を下げる場面でありながら、今回に限っては頭数が揃っていなかったのだから。数え上げれば七十に満たない歯抜け状態だ。
臣下たる官吏が皇帝よりも遅れて謁見の間に入って来るなど考えられない事態だ。
「……本日は、集まりが悪いぞっ。何をしておるっ」
玉座に腰かけた華炎は辺りを見渡して早速不満を口にすると、官吏達は困ったように顔を見合わせる。彼らもなぜ今日に限って参列者が少ないのか、不可解に思っていた。
また、華炎は気付いていないが、玉座から少し離れた位置に置かれた、皇太子・華鉄の席も空席であった。
ただし、こちらはあの『うつけ』の椅子である。空であったとしてもどうせ二日酔いか何かだろうと考え、この場で気にしている者は皆無だった。
唸るように怒声を放つ華炎を前にして、官吏達は戦々恐々とする。不機嫌の最高潮に達している今の皇帝の前で何か一つでも粗相をすれば、首が胴から離れることになるのは明白である。それ故に、官吏の誰もが政の報告の一番槍を務めることを避けようと、互いにちらちらと視線で牽制し合っていた。
「ええいっ、遅れるとは、腹立たしいっ! 儂をこけにしたなっ。すぐさま彼奴らの屋敷に赴き、首に縄を付けてでも引っ張ってこいっ」
衛兵にそうやって怒鳴りつけた時、カツッカツッと高らかな靴音が鳴った。
一瞬にして辺りが静まり返り、靴音だけが謁見の間に響き渡る。まるでわざと踵を床に打ち付けているかのように音を鳴らしている。
誰もが王林の登場を期待した。
華炎はもちろん、官吏達もそうである。感情が高ぶった華炎を宥めることが出来るのは、王林将軍しかいないのだ、と。
しかし、その場に現れたのは、王林ではなかった。
肩で風を切りながら歩き、紅いの礼服の裾を軍旗のように翻す。官吏の視線の矢を受けながら威風堂々として、正面に皇帝の憤怒の形相を見据えながらも物怖じしていない。皇太子・華鉄が我が物顔で謁見の間にやって来た。
その一歩後ろには、悠然とした華鉄とは対照的に、研磨された刀剣のように鋭利な雰囲気の少年が付いている。触れる者を皆傷つけると言わんばかりに、警戒心を露わにしている。東夷出身の羅雪が官吏達の動きを警戒し、華鉄の護衛をしていた。
「遅ればせながら、ご機嫌麗しゅう、父上」
玉座へと続く階段の前で立ち止まった華鉄が、恭しく一礼した。
華炎が何か答える前に、額に青筋を浮かべた官吏の一人が進み出た。
「か、華鉄様っ、何をお考えなのですっ! 遅刻したばかりか、そのような態度でっ」
早速、叱りつける文官。
口振りこそ怒っているが、内心は嬉々としているはずだ。声色に本気が感じられない。
華鉄の非礼や非常識さをあげつらうことで、不機嫌な華炎への生贄にしようとしている。華鉄に華炎の怒りを集約させ、自らの保身を図るという魂胆だ。
官吏の胸の内など百も承知である華鉄は大仰に驚いて見せた。
「おおっ、これは失敬。しかしながら、紅の政を支えるお歴々の皆様が陛下の御前でありながら、報告をする様子が一切見られませんでしたので。てっきり報告会は終わったものと早合点してしまいました」
華鉄がちくりと皮肉を混ぜ込んで答えると、官吏達は苦虫を噛み潰す。しかし彼らは腐っても数々の試験を突破した紅の高級官吏。この程度の舌戦で負けを認めることはない。
「いえいえ、華鉄様。今まさに、報告を行おうところだったのですよ。失礼ですが、貴方様が飛び出したせいで、せっかくの我らの段取りが滅茶苦茶になってしまいました。困りますな、こういう場にも順序や儀礼というものがございますゆえ」
「それは、重ね重ね申し訳ない。私も陛下に報告しなければならない事柄があった故、ついしゃしゃり出てしまった。では、ここは私が一番手を務めることで、この場を治めるというのはどうかな? 私が話している間は、段取りを練り直す時間にもなるだろう」
先程まで誰が最初に皇帝への報告を行うかを牽制していた官吏達にとって、これは有難い申し出だっただろう。
「……はあ、仕方ありませんなぁ。ならば、先鋒はお譲りいたします」
渋々といった表情を作った官吏は、壁際の列の元居た場所まで戻る。
ようやく邪魔者を追い払った華鉄は改めて華炎を見上げた。
「……お待たせいたしました、父上、いえ、陛下」
「……鉄よ、貴様、何のようだ? 王林を捕らえて参ったのなら褒めて遣わすが……。そのようには見えぬな」
「ええ。王林将軍の件ではございません。上奏したい事柄があったため、こうして参りました」
「上奏、だと? 貴様が?」
「はい。とある人物の罪状とその処断についてでございます」
華鉄は懐から折り畳んだ紙を取り出して、顔の前に広げた。そこには長々と文章が綴られており、最後には多数の人間の署名と捺印がされていた。その文面を、華鉄は高らかに読み上げ始める。
明朗な華鉄の声色が謁見の間に響き渡る。稲妻よりも鋭く、琴の音色よりも耳に心地よい声が辺りを優雅に舞い踊る。
「一つ、その者は己が欲望のままに国家の富を散財した。一つ、その者は舞踏を失敗した女を糾弾した後に殺めた」
読み上げられる罪状の数々は、この世界でたった一人を指し示していた。華鉄の上奏の意図を察した官吏達の顔がみるみる青くなっていく。
これぞ、かの有名な『華炎糾弾の上奏文』である。この全文を読みたければインターネットで検索すればすぐに見つかるはずだ。また、興安城跡地に建設された紅玄時代博物館には、上奏文の現物と思われる紙片が展示されているので、興味があればそちらを訪れても良いだろう。
現物を見れば、この上奏文が名文として評価された理由がよく分かるはずだ。ただ単に文章としての美しさではない。紙片に残された墨の文字は力強く、そして美しく刻まれており、華鉄の若々しさと聡明さが窺い知れる。
実の父親であり、現皇帝を罪人として糾弾した華鉄の心情は、現代人に我々には想像する他ない。紅玄革命は父親への憎悪の発露であったのか、あるいは愛情の裏返しであったのか。どちらにせよ、英雄であった父親の末期をこれ以上汚さぬようにと介錯を務めたことは事実だ。
「一つ、その者は蓬莱を治めるという天命を授かりながら、今や国家を蝕む害悪となった。故に、その天命を今ここで革めることとする。……以上、皇太子・華鉄、及び二十三の官吏が皇帝陛下に奏上いたします」
持って回った言い方であるが、皇帝の座から降りろと告げているのである。
「か、華鉄様ぁっ、お戯れが過ぎますぞっ。し、しかも、この場にいない官吏達の名を勝手に使って連署にするとはっ!」
壁の花となっていた官吏達が華鉄を取り囲むと、唾を飛ばしながら騒ぎ立てる。ただでさえ不機嫌な華炎の前で皇帝に退位を迫るなど、この場にいる全員が処罰されてもおかしくないと考えて慌てふためていた。
しかし、華鉄は悠然な雰囲気を崩さずに笑っている。
「心配はご無用。この上奏文の綴られた連名は全て本人の許可を得ている。彼らが今日、この場にいないのも、革命が起こることを知っているからだ」
「な、か、彼らもこの悪戯の協力者ということかっ!」
「……上奏文に名を残した二十三名の官吏は、私がこれからの時代に必要と認めた者達だ。故に、このような危険な場所で命を散らすことになっては勿体ない。だから遠ざけた。……今日、この場に集ったそなた達は、……陛下と同様に、新しき時代には不要な存在というわけだ」
そう言って華鉄は上奏文を袂に仕舞い込み、周囲の官吏と華炎を見回す。
「……これは冗談でも悪戯でもありません。陛下、貴方の役目はもう終わりです。その椅子から退いて頂きたい」
階段の上に居座る皇帝を見上げながら、はっきりと退位を迫る。
意外にも華炎の形相は比較的冷静に見えた。虫の居所が悪そうな顔つきこそ変わらないが、烈火の如き憤怒の表情というわけでもない。いや、もはや激怒などという言葉では言い表せないほどに、感情が突き抜けてしまったのかもしれない。
華炎の乾燥してひび割れた唇がゆっくりと動き始める。
「…………鉄よ。……そなたがうつけ者と呼ばれようとも、儂はそなたの才覚を信じておった。母親の腹は違えども、あの忠と寿の弟じゃ。二人の兄と同じように文武の才に恵まれ、儂のために命を散らす孝心も備わっているだろう、と。故に、そなたの素行にも目を瞑っていた」
これまでに何百回と聞かされた、今は亡き兄との比較。華鉄はそれを黙って聞き流す。
「……だが、考えてみると、そなたが儂に歯向かってくれて、むしろ良かったかもしれん。これで心置きなく、無能なそなたを始末することができる。……この、一族の恥晒しめっ、あの世で二人の兄に詫びるがいいっ!」
華炎が火山の噴火のように溜まり切った激情を解放させて、怒号を放つ。それが合図だったかのように皇城中の衛兵が甲冑を揺らしながら颯爽と現れ、華鉄と羅雪を取り囲んだ。
華鉄と羅雪に向けられる多数の剣。ほんの僅か突き出しただけで、華鉄達を串刺しにするほどに迫り来る。周囲を取り巻く剣山から華鉄を庇うように、羅雪は一歩前に出る。
「……華鉄。口達者なお前でも話し合いでの解決は無理そうだな、どうする?」
剣の切っ先が目と鼻の先で瞬いているにも関わらず、羅雪は落ち着き払った声色で背後の華鉄に問う。
「うむ。まあ、無理であろうとは分かっていた。あの親父殿が相手だからな。……無血革命とならば最上だったのだが、流石にそれは欲張りすぎだったか。……よし。構わんぞ、羅雪。そなたの力、見せつけてやれ」
「御意。……さて、起きろ、『白蛇』っ!」
羅雪は右手を空に翳して、天来具の名を呼ぶ。
ずっと羅雪の腰の巻き付いて息を潜めていた白蛇が目を覚ました。まさしく蛇のように羅雪の着物の中をするすると這いながら、袂を通って袖口から飛び出す。槍の穂先を先頭にして空中へと跳躍した白蛇は、即座にその身体を硬質化させて槍の形状へと舞い戻った。
「な、なんだっ、その武具は?」
「まさか、天来具っ!」
周囲がどよめく中、白蛇の柄を握り締めた羅雪は、まるで演武を見せるようにクルクルと振り回す。長柄と穂先で空気を掻き回す音を奏でたが、最後にはピタリと静止させて、槍を構えて見せる。
雪の如き真白な柄に、その先端に光る槍の穂。武具でありながら異様な美しさを持つ。まさしくこの世の物ではあり得ない、天上から授かりし武器に相応しい佇まいである。
「……天来具、白蛇だ。……貴様らにこいつの相手が務まるか?」




