第四章 酔生夢死 その3
近頃、王林の様子がおかしいことに月花は気付いていたが、皇帝から蟄居を命じられたのならばそれも当然のことと、あまり気に掛けてはいなかった。むしろ、王林が家に居ることが増えたお蔭で、様々な話を聞くことが出来たので楽しくすらあった。
他愛のない日常の会話を積み重ねている内に、まるで本当の父娘になったようだった。故郷も親類も失った月花にとって、王林と暮らす穏やかな日々は掛け替えのない物となっていた。
なぜ、忠臣である王林が皇帝から蟄居を命じられたのか。その理由を王林は詳しくは語らなかった。陛下の面前で粗相をしたから、との一点張りだ。
女には聞かせたくない話なのだろうと察して、それ以上、月花も追及することはなかった。
だが薄々ではあるが、月花にも分かることがある。
恐らく、華鉄様の、そして羅雪が仕組んだ策のせいなのだろう、と。
この平穏は仮初に過ぎない。あっという間に崩れ去る時が来る。
そのことが分かっているために、月花の胸は日ごとに苦しくなっていた。
そして日々を重ねるごとに、王林の様子にも不可解な点が目立つようになっていた。妙にそわそわしたかと思えば、不気味なくらいに月花に優しく接して来たり、逆に邪険にするようになったり、近頃は家を留守にすることも増えていた。
行先を告げずに風のように家を抜け出し、人目を忍びながら夕方には帰って来る。夕餉を持って行った月花がどこに行ってたのかと問うと、「気にするな、大した用ではない」「友人の宅に呼ばれていてな」「おお、この魚の煮つけは絶品であるな」などと誤魔化そうとする。
月花は微笑を浮かべながら「そうですか」とだけ返答したが、嫌な予感を拭い去ることは出来なかった。
そうして、王林の蟄居が命じられてから八日が経った日、王林の留守を狙ったかのように奇妙な手紙が月花の元に届けられた。
「あれ、これって何かしら? 紙?」
普段から屋敷に出入りする商人がいつものように置いて行った食材の山の中に、その手紙は紛れていた。粗悪な紙質でくしゃくしゃに丸められていたため、仮に王林が見つけていたとしても何かの拍子に紛れた紙屑としか思わなかっただろう。
万が一、その丸まった紙を広げて、そこに書かれていた文字を目にしてたとしても、内容を読み解くことはできなかったはずだ。奇怪な文字の羅列を見て、子供の悪戯と鼻で笑っていたかもしれない。
月花はその奇妙な紙屑を拾い上げて、ゆっくりと開いた。
この時代の紅において、この奇天烈な文字列を読むことが出来るのは、たった二人しか存在しない。月花、そして羅雪である。
月花の視界に飛び込んできた文字列は、二つの意味で懐かしい物だった。
一つは四年振りに目にした故郷の文字であるということ。そして二つ目は、その文字の筆跡が間違いなく羅雪のものであるということだ。
「これって、ゆきすけの、文字……」
それに気づいた瞬間、視界が歪んで涙が零れた。止めどなく溢れる涙で大事な手紙を濡らしながら、何度も読み返す。そこに綴られた、愛おしい人の想いを抱き締めるように。
『月花。遅くなって本当にすまなかった。だが、ようやく準備を整えることが出来た。明日、文武百官が揃う朝礼の場で事を起こす腹積もりだ。命懸けの決起だ。正直なところ、確実に成功する保証はない。それでも、俺は華鉄と運命を共にするつもりだ』
羅雪の文字は決意を記すように力強く刻まれている。
『こんなことを書くと、お前のことだから、危ないことをするな、と思ってるだろう。俺と再会した時、俺に嫌われようとしてあんな言動を取っていたくらいだもんな』
……その通りだよ、全く。
本当なら顔を付け合わせて、真正面から叱りたいところだ。
『俺の身を案じてくれていることは分かってる。感謝もしてる。だが、それでも俺は華鉄と共に立ち上がる。それはお前を救うためでもあるが、……正直に言おう、それだけではない』
この一文は意外だった。
華鉄様と革命を起こすのは、私のため、だけじゃない?
『……俺は、華鉄が掲げた夢を共に追いたいと思ってる。……この感情を言葉にするのは難しいんだが、あえて言うなら、夢に酔ったんだ』
……夢に、酔う?
『女のお前にどう説明したらいいか分からないが、俺は、自分の力を試したいんだと思う。紅という強大な国を、俺と華鉄の力だけで崩すことが出来るのかどうか、それを知りたいんだ。これは理屈ではなく、男が持つ本能なんだろう』
紙面に刻まれた言葉の端々に羅雪の強い感情が見て取れる。これは華鉄にも打ち明けていない、羅雪の本心なのだと分かった。故郷の文字で書かれているため、手紙の内容を知ることが出来るのは月花しかない。その安心感からか、羅雪が嘘偽りない自分の本音を綴っているのだと月花には確信できた。
『だから、明日の決起は、お前のためだけじゃない。俺自身のわがままで、自分の命を懸けるんだ。失敗したとしても後悔はない。……だから、お前が気にすることはない』
ああ、何だろう。この文章を読めて、すごくほっとしている。
私が攫われてから、羅雪にはきっと数え切れない苦労や心配をさせて来てしまった。この四年間、自分のことも顧みず、私のために、ひたすらに、我武者羅になってくれていた。
それが、とても申し訳なかった。だから、ようやく羅雪と再会できた時にも、私のことを忘れて欲しくて、冷たい態度を取ってしまった。
でも、今は違うんだ。羅雪も、羅雪自身の将来の夢や目標が出来たんだ。
そのことが分かって、すごく安心している。華鉄様には感謝しないといけない。
『さて、長文、すまなかった。ここから、華鉄の用意した策をお前に伝える。お前に革命の片棒を担がせるのは非常に心苦しいが、これはお前の恩人である王林将軍の命を救うことにもなる。協力して欲しい』
将軍を救うという一文が目に入ったことで、月花は涙を拭い、そこに書かれていた策略を頭に叩き込むことにした。
††
「月花よ、お前に話がある」
蟄居中だというのに外出していた王林が帰宅すると、月花はいつものように二人分の夕餉を用意した。しかし食べ始める直前に、王林がそのように切り出す。料理が乗った卓を挟んで向かい合う、年の離れた夫は真剣な眼差しで月花を見据えていた。
ドキリとした。羅雪からの手紙はとっくに処分しており、策のことを王林に気付かれる心配はないはずだ。だが感づかれたのだろうか。
「はい、何でしょうか? でも早く食べないとせっかくのお夕食が冷めてしまいますよ」
「今でなければならん」
まるで戦場にでもいるような面持ちで返答した王林は、懐から丸々と肥えた革袋を取り出して、月花の前に置いた。革袋の中からチャリンッと金属音が響く。これは王林が普段から使用している財布だった。
月花が困惑しているのを余所に、王林は、今度は畳まれた着物を積み上げていく。更に何かを包んだ風呂敷なども並べる。夜逃げの準備でもしているようだった。
「王林、将軍? これは?」
「この財布は、少ないが路銀だ。あと、儂の名前で、お前を匿ってくれそうな知人宛の紹介状も書いた。数は多くないが、困った時には彼らを頼りにするといい」
「な、何を言っているのですか?」
「…………月花よ、ここを去るのだ。そして、どこか遠くで、幸せに暮らすがよい。本当ならば、そなたを故郷に帰すことができる船を用意できれば一番良かったのだが……。それは難しかった、許せ」
まさか、最近、将軍が屋敷を空けていたのはこれらを準備するためだったの?
少ない路銀と自虐を言っていたが、その財布の膨れ具合を考えるととてもそうは思えない。それに知人への紹介状というのもただ手紙を書いただけではないはずだ。ここ数日間、屋敷を留守にしていたのは、知人の元を直接訪問して頭を下げに行っていたのだろう。
「……そなたは皇帝陛下の暗殺を謀った。その罪は到底許されるものではない。そなたが今日まで生かされていたのは、暗殺を企てた黒幕と接触すると思われていたからだ。……だが、そうではないのであろう? 故に、そなたの斬首の命が儂に下された」
「……」
「しかし、そなたは儂が拾った命だ。殺すのはあまりに忍びない。だから、そなたを逃がすことにした。今夜、興安を発て。そして、どこかで密かに暮らせ」
淡々と説明的に述べる王林。
無機質な鋼鉄を思わせる鉄面皮には、相変わらず何の感情も載っていないように見える。だが話している内容は、月花へのこれ以上無いほどの配慮だ。感情が入っていない話し方をしているのは、月花に心置きなく此処を去って欲しいという想いからなのだろう。
嗚呼、これって、まるで私が羅雪にしたような。
今、あの時の羅雪と同じような立場になったことで、ようやく彼の気持ちが理解できた。これほどまでに切なく、悔しく、寂しい想いを抱いていたんだ。
「……私が逃げたら、将軍は、どうなるのですか?」
「……儂は陛下からの信頼が最も厚い臣下じゃ。多少、嫌味くらいは言われるだろうが、大したことではない。そなたは気にせんで良い」
「……本当でしょうか? 昨今の陛下は心に鬼を飼っていると聞いております。将軍だって蟄居を命じられたではありませんか。もし罪人を逃亡させたとなれば、いくら将軍といえども」
「……」
沈黙が返って来た。それは肯定を意味している。
「まさか、……将軍、……自らの首を……」
雷に打たれたような衝撃が、月花の頭頂から足先までを貫いた。
月花を逃がした罪を自らの首で償おうとしている。それが王林なりのケジメなのだ。彼の頭に月花と共に逃げようなどという選択肢はなく、自らの罪は自らの死で清算しようとする、武人としての律義さが根付いているのだ。
「だ、駄目ですっ、将軍。ならば、私がっ、私の首でっ」
「ならんっ!」
これまで彫刻のように固まっていた王林の表情が豹変し、般若の形相となって月花を叱りつけた。その怒声は千里を駆けるかと思うほどに鋭く、月花を黙らせるには十分過ぎた。
月花を驚かせたことに気付いた王林は、はっと息を呑んでまた表情を一変させた。今度は少し穏やかで、悔いるような顔つきになる。
「で、でも、陛下を殺そうとしたのは事実。……私の咎です、私が……負うべき、罰で」
「……違う。確かに陛下は心を乱されていた。そなたが、身を守ろうとしたのは、当然の行為だ。……そなたは悪くない。……もし、誰が悪いのかと問われれば、それは陛下だ」
「し、しかし、将軍っ!」
「…………そなたは、儂にまた娘を失わせるつもりなのか? もう、あのような思いはしたくないのだ。……娘の死体を目にする親の気持ち、あのような思いはもう二度と味わいたくない」
王林は怯えている。膝の上に置かれた王林の強固な拳骨が微かに震えている。
鋼鉄の蟷螂と呼ばれ、紅の民衆から英雄視され、数々の敵を屠り、数々の味方を失いながらも最後には勝利の栄光を手にした猛将が、今、たった一人の少女の死を恐れていた。
王林のその表情を、月花は見たことがある。月花が故郷の港町で暮らしていた頃、都会に行きたいと宣言した時に父親が見せたのと同じ表情だった。娘を心配する、父親としての顔だ。
そしてこの表情を見せた父親はとても頑固で、娘の言い分など聞く耳を持たなくなることも月花は知っていた。だから、もうそれ以上反抗することは諦めた。
「……分かり、ました。……では、明朝にすぐにこの屋敷を去ります。……将軍、これまで大変、お世話になりました。今までの心遣い、生涯忘れは致しません」
月花はそう言って、床に指を置いて深く、深く頭を下げた。
「……ああ、そうするがよい。儂もそなたと出会えて心から嬉しく思う。……そなたと過ごした日々は、失った娘との一時を思い出すようだった。冥土の土産としてこれ以上の物はない」
月花が顔を上げると、そこには柔和な微笑みを湛えた王林がいた。目尻に刻まれた皺が灯明皿の明かりを反射して僅かに光っている。
「……将軍、どうか、別れる前に、最後に、酌をさせて下さい。……形の上とは言え妻として、娘として」
「ああ、頼む。……ふふっ、娘に酌をしてもらうというのは、父ならば誰もが願う夢だ」
口元を綻ばせた王林が空の酒杯を差し出す。そこに向けて月花は酒器を傾けた。トクトクと音を立てて、透明な液体が注がれていき、香しい匂いが立ち込める。
王林は実に美味そうに酒を流し込んだ。
「……将軍、私には、どうしても気になっていることがございます。これが今生の別れになるならば、どうかお聞かせいただけないでしょうか?」
「……うむ、何じゃ?」
「私を拾って頂いたことです。娘に似ていたから、と将軍は以前仰っていましたが、しかし、私は東夷の娘です。……将軍のご息女に似ていたとはどうしても思えないのです。紅には年頃の娘はいくらでもいたのに、なぜ、私だけが将軍の優しさを賜ることが出来たのか……」
「ふふ、そんなことか。……理由は、名だ」
何杯か酒を流し込んで、あっという間に顔を赤くした王林が照れるように呟く。
「名前、ですか?」
「ああ。初めて会ったあの日、儂が名を聞いた時に、そなたは夜空に浮かんだ満月を指差したであろう? それで、どうにもそなたが、他人とは思えなくなってしまってな」
ふと、月花は最初に王林と出会った頃を思い返す。
まだ紅の言葉が分からず、怯えるだけだったあの時。海賊から助けてくれた王林が身振り手振りで、何とか意思疎通を行おうとしてくれていた。恐らく名前を聞いているのだろうと思った月花は、『つき』という本名の由来である月を指差したのだった。
「あっ、それでは、将軍のご息女の名前も……」
「……ああ、月と言う」
娘の名前を口にするのは久方ぶりだったのだろう、王林は愛情を溢れさせるような優しい声色で告げる。
「……月、ああ、月。懐かしい響きじゃ」
王林は何度も繰り返し、娘を呼ぶ。酒の酔いが、王林の目の前に亡くなった妻子の姿を映し出しているのかもしれない。
「……月。……月よ、許してくれ。……そなたを守れず、不甲斐ない、父じゃった。……だが、安心してくれ、もうすぐ儂も、そちらへ向かう。待たせて、済まなかったなぁ」
少しずつ舌を縺れさせながら独り言を述べて、ひたすらに謝罪している。だがその表情はこれまで何十年と張り詰めていた緊張がようやく解けたような、安堵しているようだった。
そして、ガチャンッと音を立てながら王林の手から酒杯が落ちて、中身を辺りに撒き散らした。同時に、王林の身体も酒の上にどっと倒れ込むと、静かな寝息を立て始める。心地よい夢を見ているように、その寝顔は泣き疲れて眠った赤ん坊のように穏やかだ。
「……申し訳ございません、将軍」
月花は、王林が用意していた衣服を広げると、床に横たわった王林の身体に掛けてやる。
酒に仕込んでいた眠り薬の効果は確かなようで、王林が目を覚ます様子はなかった。
月花は羅雪からの手紙に書かれていたことを思い出す。
『結婚式の日に渡した着物の襟元に眠り薬が入っている。それを王林に飲ませれば、明日の昼までは目を覚まさないはずだ。その間に、俺と華鉄が全てを終わらせる』
金糸と銀糸で縫われたあの見事な着物の贈り物に、まさかそのような薬品が隠されているとは思ってもいなかった。指示通り、襟元の縫い糸を切ると、折り畳まれた紙が入っており、それを広げると白い粉末が姿を見せた。それを酒に密かに混ぜて、王林に飲ませたのだった。
正直なところ、最初は王林を騙すことに躊躇いがあった。しかし、王林が自らの命を引き換えにしてまで、月花を助けるつもりであることが分かった時に、覚悟は固まった。
この人を、絶対に死なせてはいけない。
羅雪の手紙に書かれていた『王林を救うことにもなる』という文章の意味。それは、王林を眠らせて革命の舞台から遠ざける、ということだった。
この策を考えたのは華鉄様なんだろうけど、実に恐ろしい人だ。結婚式の贈り物の時から、すでに仕込みは終わっていたなんて。それに私の王林将軍への恩義を見抜いたうえで、言葉巧みに革命に協力させている。革命の障害になる将軍を暗殺するような計画だったならば、きっと私は協力しなかっただろう。敵に回すには恐ろしいが、味方としては心強い人だ。
後は、革命が成功することを祈るだけだ。きっと、大丈夫。智謀に長けた華鉄様と、その隣に羅雪がいるんだから。この鉄と雪の契りには、誰にもかなわないはずだ。
そう願う月花の髪には、銀色のかんざしが夜空に輝く月明りのように静かに瞬いていた。




