第四章 酔生夢死 その2
華鉄から「至急来られたし」と書かれた便りを貰った羅雪は、待ち合わせ場所である桃李園にやって来た。庭園に林立する桃と李の木々は以前見た時よりも花弁の数を減らし、すっかり衣替えをしている。
地面に敷き詰められた花弁の絨毯に足を踏み入れると、裸になった桃木の枝を寂しそうに眺める華鉄を見つけた。
華鉄と会うのは王林との結婚式以来だった。あれから数週間は経っている。
近付く羅雪に気付いた華鉄は、開口一番、愉快そうにこう言った。
「やあ、羅雪よ、聞いて喜べ。仕込みは上々といったところだ。親父殿の苛立ちを思い出すと今も笑いが止まらん。……実は今朝方のことなのだが……」
華鉄は嬉々とした表情で早朝に起こった出来事を語る。
華鉄の話を聞き終えた羅雪は不安な面持ちで問いかける。
「お前の弄した策が的中し、皇帝と将軍の仲に亀裂が入ったのは分かった。確かに喜ばしいことだが、……しかし将軍の元にいる月花が心配だ。もし将軍が月花の首を手土産に、皇帝との関係の修復を考えたら……」
最悪の事態を想像しただけで羅雪の全身に鳥肌が立った。すぐにでも王林の屋敷に乗り込んで月花を連れ出したい気分だ。
そんな逸る気持ちを何とか抑えつけている羅雪に対して、華鉄は余裕の微笑みを崩さない。
「安心しろ。将軍の性格からして、月花に危害を加えることはしない。前にも言っただろう?」
「……なぜ、そうまで言い切れる? お前は皇帝とは違って、将軍と互いの全てを知り尽くした間柄ではないだろう?」
「根拠の一つは、月花を保護したのは王林だからだ」
「それは聞いている。月花が海賊に襲われていたところを、賊討伐にやって来た将軍に救われてそのまま興安に連れて来られたとか」
「……王林という男は厳格な男だ。冷酷に敵を斬り伏せ、鋼鉄の蟷螂の異名を取った。そんな男が、いくら不憫だからといって東夷の女を興安まで連れ帰るなど、面倒を見ているのは不自然だろう」
羅雪は王林の人柄を風聞でしか知らない。だが噂話を信じるならば、確かに忠義に厚く義理堅い男であるらしい。これまで妻子を持たなかったのは、自らの弱点を作らないためと言われていることからも、王林の人となりが知れる。
疑り深い華鉄からも同様の評価を得ているのならば、王林が一廉の人物であることは間違いないのだろう。ならば月花を連れ帰った理由がますます分からなくなる。
「恐らくは、王林にはかつて娘がいて、その面影を月花の中に見たとか。あるいは師や恩人の姿に似ていたとか……。あるいは、やはり、純粋に女として惚れたのか」
空を見上げながらポツリポツリと予想を呟いた華鉄だったが、すぐにあっけらかんとした表情で「ま、理由など何でもよい」と言い放った。
「重要なのは、王林は慣れない事をしてまで月花を保護したということ。それだけ大事に想っている相手だ。自分の手で助けた命を自ら摘み取ろうなど、そんな不義理なことはしないさ」
そう言われると、確かにそのような気にさせられる。
月花の身の安全の保障が完璧に示されたわけではなかったが、華鉄の自信満々な口調で説明されると納得させられてしまう。それに、月花も全てを承知のうえで華鉄の計画に乗っているのだろう。ならば月花自身を信じるしかない。
「……分かった。お前の言うことを信じよう。というより、もうそうするしかないと言った方が正しいか。今更、ジタバタしたところでどうにもならん」
羅雪が半分諦めたように言うと、華鉄は嬉しそうな顔をして言う。
「ほう。良い心掛けだ。そうやって黙って俺についてくれば万事うまくいくのだ」
そう言って頷く華鉄を眺めながら、羅雪はこの皇太子を利用しようと考えた過去を悔いた。
どうしてこの男はここまで自信過剰なのだろうか。羨ましいほどだ。
「……それで、お前はこれからどうするつもりだ。目論見通り、皇帝の傍から将軍を引き剥がしたわけだが、すぐに動くのか?」
「いや。色々と根回しも必要だからな。まだ動かん。親父殿も王林が居なくなった直後は流石に警戒をしているだろう。王林が命じられた蟄居は十日間だ。その間に全ての準備を整える。……動く時は、九日後。文武百官が揃う、毎月恒例、月初の朝礼の日にしよう。百官共が揃うその日、彼奴等の眼前で天命を革めてくれようぞ」
華鉄は軽薄な笑みを保ちつつも厳かに宣言する。
ついに期日が定められる。今まで華鉄が語り続けた夢想が、現実になる時だ。
僅かに高鳴る胸の鼓動を感じながら、羅雪は静かに一礼する。
「……了解した。では、その時に向けて万端の準備を終えるとしよう」
「うむ、頼むぞ、羅雪」
その返答を受けて顔を上げた羅雪は、華鉄と視線を合わせる。
その時、華鉄が歯を見せるような、意地の悪い笑みを浮かべた。
「……ほほう、羅雪よ、中々見どころのある顔つきになったではないか? さては、そなた、愉しんでおるな。結構、結構」
愉しんでいる?
意外な言葉を掛けられて羅雪は困惑した。思わず両手で自分の頬を触る。
確かに、口角が持ち上がっていた。
華鉄に呆れていた? いや、違う。笑っていたんだ。何故? 決まっている、華鉄の策が順調に進み、とうとう革命の時が近づいているからだ。
興奮していた。喜んでいた。心の臓が叫ぶように高鳴り、全身を巡る血が熱を帯びている。まるで酩酊しているように意識が高ぶっている。
自分は華鉄に振り回されているのだとばかり思っていたが、そうではないのかもしれない。
考えてみれば、月花を失ってからというもの、蓬莱に渡る手段を考え続け、蓬莱に着いたら月花の行方を探すことにあくせくしていた。そう、月花のために、その一心で動き続けていたから、自分の夢や野望、将来、などを抱いている暇はなかった。
そのことを後悔しているわけではない。だが、月花と再会して、月花を救える手段が見つかったことで、ようやく、自分の未来について考えるだけの余裕が生まれた。
今、華鉄の壮大な夢の実現に向けて動いている。紅という一大帝国を切り崩し、暴君を廃するという途方もない偉業を進めている。自分の力を認めてくれる主君に出会い、信頼を得て、共に覇道を歩んでいる。その実感が、胸を高ぶらせているのだ。
これは理屈ではない。雄が持つ、本能だ。ただ、デカいことをしてみたいという夢。
戦友を得て、策を巡らせ、技術を磨き、敵を撃ち、縄張りを広げる。太古の時代、人が人としての知性や倫理を得る前から行ってきた闘争の本能。
遺伝子に刻まれた本能が、今、羅雪の心を興奮させていた。
その時、華鉄の傍で生えていた桃木、その枝の先に残っていた最後の桃色の花びらが、ふわりと風に攫われた。それは吉兆か、あるいは凶兆か。
ひらひらと舞い落ちる桃の花弁に気付いた華鉄が、寂し気な顔で桃李園を見渡した。
かつて羅雪と華鉄が契りを交した時には若芽しかなかった桃李園の木々、満開の花を咲かせていた時期はあっという間に過ぎ去って、今となっては纏っていた花弁を全て足元に脱ぎ捨てて夏への準備を始めている。
裸になった木々を眺めた華鉄が独り言のように小さく呟いた。あるいは、その一瞬だけは本当に羅雪の存在を忘れ、本音を漏らしたのかもしれない。
「……新たな季節の始まり、だな」
ただ単に終わりゆく春を惜しんだのか、あるいは紅という一つの国、一つの時代の幕引きを自らの手で行うことに一抹の不安と寂しさを覚えたのか。
人間が桃や李の木の心を読み取ることが出来ないように。羅雪には、華鉄の表情の真意を読み取ることが出来なかった。
春が終わって夏が始まるのと同じように、紅の終焉と共に新たな時代、玄が生誕する。
それはもう、誰にも止めることのできない流れであった。歴史の当事者である華鉄や羅雪ですら制止することは叶わない、歴史の大きなうねり。
紅玄革命、その始まりである。




