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第四章 酔生夢死 その1

 華炎の使者に呼ばれた華鉄は、皇帝のプライベート空間である紫宸殿に足を踏み入れていた。紫宸殿とは皇帝の寝室や専用の浴場、温室などが配置された宮城の一画のことであり、この場に入ることを許されるのは皇族か、皇帝からの信頼の厚い臣下のみである。

 紫宸殿の奥には、牡丹の花壇が植えられているだけの小さな庭園がある。御殿に囲われるように佇む、隠されたこの庭は密談には最適な場所であった。

 そこでは華炎と王林が華鉄を待っていた。


「遅れまして大変申し訳ございません」


 二人を待たせた華鉄は恭しく頭を下げて謝罪する。


「……来たか。華鉄」


 華炎の声色は低く、微かな怒気を帯びていた。だがその怒りは遅刻した華鉄に向けられたものではなく、その隣に屹立している王林を対象としているようだ。華炎と王林の二人の間に流れる空気が、どことなくぎこちなく感じられた。


「どうかいたしましたか、父上」

「無論、月花の件よ。王林の嫁に行ってしばらく経ったので、そろそろ良い知らせがあるかと思って王林を呼び出したのだが……。おい、鉄にも聞かせてやれ」


 華炎の窪んだ眼窩に収められた眼球が転がるように動き、ギロリと王林を睨んだ。


「……はい。あれから怪しい人物が月花に接触した様子も見られませんでした。月花を問い詰めましたところ、華鉄様を襲ったのは衝動的なもので、全ては自分一人で計画し実行したと白状しました。どうやら誰かからの入れ知恵ではないようです。裏で誰かが糸を引いてたという我々の考えは杞憂だったのでは」


 王林が目を伏したまま、恐らく華炎に話した報告と同じ内容を淡々と伸べる。

 ……ふむ、月花は俺が指示した通りに動いてくれているようだ。

 策略が順調に進んでいることが確認できて、華鉄は一人で満足していた。内心の喜びを顔面に出さないよう心の最奥に封じ込め、驚いたような素振りだけ作って見せる。


「では、宮女如きが本気で皇帝の暗殺など大それたことを考えたということか?」


 心にもない事を飄々と言ってのけた。


「いや、その娘は何者かを庇っているのかもしれんぞ。王林、貴様も貴様だ。小娘の言い訳に騙されおってっ! 夫婦ごっこなど生温いやり方はもう止めじゃっ、真実を話すまで爪を剥がすなり、逆さ吊りにするなり、どんな手を使ってでも黒幕を吐かせよっ」


 華炎が華鉄の虚言に同調して叫ぶ。口角泡を飛ばしながら大声を上げる華炎の姿に皇帝の威厳はなく、心に鬼を飼った一介の老人そのものであった。


「……陛下、恐れながら申し上げます。我が妻をどれほど脅しても、黒幕の手掛かりを得ることは難しいでしょう。共に暮らしてみて分かりましたが、彼女は中々の胆力の持ち主。四年前に海賊に攫われて故郷の家族や友人と離別し、言葉の通じない紅で暮らしてきました。甘やかされて育てられた貴族の娘とは違います」

「つまり、拷問されても口を割らぬと?」

「それもありますし、そもそも黒幕などいないのではないでしょうか。陛下の暗殺は月花が一人で考え実行した。その単純な事実を、我らが複雑に考え過ぎただけではないかと」


 流石、将軍。見事に正解である。

 華炎の思考を惑わせて、異なる真相に導いた張本人である華鉄は密かにほくそ笑む。


「ならばもう生かしておく理由はないっ、今すぐに首を斬れっ!」


 華炎は子供のように地面を激しく踏み鳴らして憤怒を露わにすると、王林に命令を叩きつける。これは当然の結果だ。そもそも月花の死罪はすでに決定事項だ。今まで刑の執行を引き延ばしていたのは、情報源として利用価値があると思われていただけに過ぎない。それが無くなれば、首をはねるのは当たり前のこと。

 それなのに、鋭く飛来した指令を受けた王林は苦慮するように唇を噛み締めていた。これまで皇帝からの命令には即座に従い、疾風よりも素早く実行してきた男が躊躇いを見せている。

 王林が葛藤する様子を眺めていた華鉄は、これは良き兆候、と至極満悦していた。この右手に酒杯が無いのが実に惜しい。


「……陛下。月花の死罪、この状況下では少々難しいと言わざるを得ません」


 絞り出したような王林の声で紡がれた言葉に、華炎が一瞬呆けた。王林が何を言っているのか分からない、とでも言いたげな表情。だが、冷水を熱せば沸々と煮立つように、遅れて王林の言葉を理解した華炎の顔に怒りが宿り始める。


「何をっ!」

「まず、月花の首をはねる理由がございません」

「儂の暗殺を謀ったではないかっ! もし儂が華鉄を身代わりしていなければ間違いなく死んでおったぞっ!」

「しかし、その事件は既にひと月近く前のことです。すぐに月花を捕らえて罪を公式に問うていたならばともかく、今頃になって騒ぎ立てるのは不自然です。そして、陛下は月花の暗殺未遂を知っていながら、なぜそのような女を家臣に賜ったのかと、妙な勘繰りをする連中も出てくるでしょう」


 即興にしては王林の口から紡がれる言い訳は論理的で、筋が通っていた。華鉄は感心し、華炎もまた少し冷静さを取り戻したようだった。

 よし、ここは将軍の言葉に乗っておくのが得策か。将軍の口からは言いづらい点を、俺の方で指摘してやろう。

 そう考えた華鉄はやや大袈裟にポンッと手を打つ。


「なるほど、将軍の言われる通りです。それに今や、月花は将軍の正妻です。死罪にするならばそれなりの証拠を準備しなければ世間が納得しないでしょう。もし強引に月花の首をはねれば、『陛下は将軍に宮女の月花を下賜したはいいものの、やっぱり月花の美貌が惜しくなり、その嫉妬から難癖をつけて将軍を殺した』などと騒ぎ立てる者が出るやも……」

「な、何っ」


 華炎の瞼が驚愕と怒りによって大きく見開かれ、血走った眼が華鉄の方を向いた。

 おっと、これはちょっと焚きつけ過ぎたか。少し宥めておかなければ、俺の首が飛んでしまう。そんな皮肉な事態だけは避けなければ。


「……無論、父上がそのような感情で動いてはいないと、私は知っております。しかし大衆とは無知蒙昧で視野が狭い者達ばかりです。こうした悪評が流れることもあり得るのです。英雄と呼ばれた父上の名に傷がつくようなことは、絶対に避けなければなりません」


 華鉄は慇懃無礼に頭を下げると、華炎の功績を持ち上げながらも鋭く諭す。

 華炎は自分の歯を砕こうとするかのような激しい歯ぎしりをして、屈辱を噛み締めている。

 死が間近に迫った人間は、誰しも己の名を重んじるようになり、命と同じくらい自分の名が大切になる。身分の高い者であるほどこの傾向は強く、自分の名を偉大なものとして後世に残したがり、逆に悪評は揉み消そうとする。

 権力者のそうした浅ましい考えの集大成を、我々は歴史と呼んでいるのだ。

 華炎もまた、古今東西の権力者と同じく悪名が残ることを嫌がっていた。


「ええいっ、では、儂の命を狙った罪を許せと言うのかっ! そんなことは断じてならんっ! 死罪に理由が必要と言うならば捻り出せっ! 知恵を絞れっ!」


 激昂する華炎に対して、王林がおずおずと口を開いた。


「……陛下。それは難しゅうございます。お怒りは分かりますが、相手は所詮小娘。生かしておいたところで、再び陛下に害を成せるような人物ではございません。月花をどこぞの寺に尼僧として預け、俗世との関わりを断たせるのも一つの方策かと。これならば陛下の名は傷付かず、かつ月花をこの世から永久に追放したのも同じことでございます」


 王林のこの提案は最善手だ。完璧な一手と言える。もしこの提案に華炎が食い付けば、華鉄の企ては水泡に帰しただろう。

 しかしこのような折衷案を今の華炎が飲むはずないことを、華鉄は良く知っていた。


「ならんっ! 断じて生かしてはおけんっ!」


 華鉄の予想通りに華炎は憤りを露わにし、それどころか折角の良策を思いついた王林を睨むと、今にも掴み掛らんとばかりに迫り寄った。


「王林っ、貴様、何ゆえその小娘を庇う? さては、情が移ったか? 親子ほどに年の離れた娘に誑かされたのか? ……そういえばあの娘を連れてきてたのは貴様だったな。ははっ、こいつは傑作だっ! あの時から好いていたのかっ。実の娘ほど離れた女子をっ」


 唾を撒き散らしながら嘲笑する華炎。

 流石の王林もこれには目を丸くして、顔に掛かった華炎の唾を拭おうともせず一瞬の間に膝をついて首を垂れた。


「そ、それは誤解でございますっ! 月花は東夷出身でありながら海賊に捕まり、紅に連れて来られた娘でした。言葉の通じない国に一人きりとは、あまりに不憫だったため……」

「ほう。鋼鉄の蟷螂と呼ばれ、その二刀流で冷酷に敵を屠って来たお主が、見ず知らずの娘にそのような面倒見の良さを発揮するとは知らなかったぞ」


 全く信用していない華炎の口振り。むしろその眼差しは王林への疑いを強めている。王林こそが月花を使った暗殺計画を企てた黒幕なのではないかと、その瞳が疑っていた。


「…………陛下。決して、……決して、私が陛下のお命を狙うことなどあり得ませぬ。……私は陛下と生死を共にして、戦場を駆け抜けました。遠い昔のことなれど、あの日々は昨日のことのように思い出せます。私は陛下と一心同体と思って、今までお仕えして参りました。そんな私が、どうして陛下を暗殺しようと考えるでしょうか?」


 そう言ってゆっくりと持ち上げられた王林の顔には、懐旧への想いに彩られていた。それは皇帝に向ける表情ではなく、この世に二人といない知己に話しかけているようだ。華鉄がその場にいることも忘れて、二人だけの思い出話に花を咲かせようと話題の種を撒いている。

 そんな王林と華炎を眺めながら、華鉄は一人疎外感を覚えていた。

 ……全く、羨ましいものだ。親父殿は恵まれている。

 生まれた時から皇太子として役目を与えられて、何不自由ない生活が保障されてきた華鉄には、友と呼べる者がいなかった。周りから華炎と王林の英雄譚を聞かされる度に、苦楽を共にした戦友という存在を欲したが、いくら皇太子と言えども、それだけはどれだけ望んでも手に入れることが出来なかった。

 だから、二人の関係性に羨望の眼差しを向けてしまう。

 しかし、王林の主君への思い遣りは、病んだ華炎の心には届かなかった


「……一心、同体、だと? 思い上がりも甚だしいぞ王林っ。儂の術策があってこそ、乱世を生き残り、勝利を得ることが出来たのだっ! 紅を建国したのはこの儂だぞっ!」


 華炎のしわがれた声が王林の頬をぴしゃりと打つ。

 王林はまるで身に覚えのないことで叱られた子供のように呆然とした後、すぐさま顔を俯けた。今、王林の顔は屈辱と落胆に歪んでいることだろう。地面に顔を向ける王林の姿が、華鉄の眼には異様に小さく映った。


「王林よ、貴様に十日の蟄居を命ず。これは貴様への猶予だ。この十日の間に月花を処刑するに足る証拠を用意し、直ちに首をはねるのだっ。もしそれが出来ぬのなら、そなたこそ儂の暗殺計画を企てた張本人として、その首を儂の元に届けさせるっ。良いなっ!」

「………………御意」


 有無を言わさずに捲し立てられる華炎の罵声が、王林と華鉄の鼓膜を貫く。周囲の忠告に傾ける耳を持たない老いた英雄の暴言が、辺りに響き渡って木霊した。

 それは紅という熟れ切った果実がとうとう腐り落ちる予兆であった。古今東西、どれほどの大国であっても権力者が忠臣を蔑ろにすれば、国家転覆の危機と相場が決まっているものだ。そのことに王林も華炎も気付けなかった。

 もし王林が気付いていれば、命懸けで華炎を諫めていたかもしれない。あるいは、華炎自身が気付いて自省することもあったかもしれない。そうなっていれば、あるいは紅という国にももう少し余命があったかもしれない。

 しかし、歴史にイフはあり得ない。

 紅の建国者、華炎は己の国と共に滅びる定めである。

 その場でただ一人、華鉄だけが紅の崩落の予兆を感じ取り、満足げに頷いていた。


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