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第三章 月の真言 その5

 結婚式が終わって参列者が引き上げた屋敷の内部は、耳に痛いほどの静けさに満ちていた。既に日は落ちて代わりに闇の帳が辺りを包み、灯明皿が室内を照らす唯一の光源となっていた。

 寝室に置かれた灯明皿の炎が照らし出すのは、一つの寝台とその上に並ぶ二つの枕である。後宮にあった皇帝専用の寝台に比べれば質素だが、紅の庶民では決して手に入らない高級品であり、月花の故郷では見掛けたことすらない代物だ。


「ははっ、女中がいらぬ気遣いを回したようだな」


 月花と共に寝室に足を踏み入れた王林が苦笑を漏らした。

 寝台に歩み寄った王林は枕と毛布を一つずつ手に取り、寝台から離れた床に投げ置いた。


「儂は床で寝る。そなたはそこを好きに使うといい」

「し、しかし、将軍の寝る場所を私が奪うわけには……」

「いや、構わん。これでも昔は、戦場の真っただ中で野営の準備もなく野宿をしたものだ」


 そう言い放つと、月花に反論する隙を与えず、早々に床に広げた毛布に身体を横たえる。


「やれやれ、今日は慣れないことをしてくたびれた。しかも久方ぶりに酒なんぞ飲んでせいで、頭も重い。意外と思うかもしれんが、儂は下戸なのだ。……さあ、そなたも疲れたであろう? ゆっくりと休むがよい。今日からこの家はそなたの家でもあるのだ。以前のような居候ではない。ちゃんとした家主だ。遠慮する事無く存分に寛ぐことだ」


 王林は言うが早く、毛布を被って既に寝る準備に入っている。


「そ、そうですか、そう仰られるならば……」

 王林にこれ以上言っても譲らないだろうと悟った月花は、仕方なく寝台の上に腰かけた。

「おっと、そうだ、寝る前にそなたに聞かなければならないことがあったのだ」


 むくりと起き上がった王林が真面目な表情を作る。だが、酒の酔いのせいで頬が赤らんだままであるため、どこか滑稽な顔である。


「…………陛下を殺そうと企んだというのは誠か?」


 月花は一瞬だけ口籠ってから頷く。


「……はい。花見の席で足を斬られた宮女のように、私も陛下に弄ばれるのかと思うと恐ろしくなり、それならばいっそのこと、と愚かなことをしました。ですが陛下は私の害意に気付いていたのでしょう。寝室におられたのは陛下の身代わりとしてやって来た華鉄様でした」


 顔を伏せながら静かに返答していると、自然とあの夜の出来事が月花の脳裏に蘇った。


『よいか、月花。王林の元に嫁に行った際、皇帝殺害の件を問い質されるであろう。その時にはこのように答えのだ』


 そう言って華鉄から指示された文言を、月花は今まさにそっくりそのまま口にしていた。

 こうなることも華鉄様は読んでいたのだろう。一体、何手先まで見通しておられるのか。

 月花の回答を聞き終えた王林は両腕を固く組んで、考え込むような渋面を作っていた。


「……そうか、事実であったか……」

「…………やはり、私が後宮を追い出されたのは、あの夜の件があってのことでしたか。いえ、当然のことでございますね。むしろ、処刑されなかったことが不思議なほどです」


 これは月花の本心である。

 一体、華鉄様はどのような口八丁手八丁を用いて私の命を救い、王林の元へ嫁に行くように取り計らったのだろう。あの夜にはいくつかの指示は頂いたが、計画の全貌までは明かしてはもらえなかった。これからどう動くべきか、自分で判断しなければならない。


「…………う、む、今回の婚姻は、陛下の殺害を図ったそなたへの罰でもあるだろう。だが、気にすることはない。今は、形式上とはいえ儂の妻ということになっているのだ。後宮と比べると住み心地は悪いかもしれんが、堂々と暮らしておればよい」

「……そのお言葉、心より感謝致します。将軍には助けて頂いてばかりで何と御礼を申せばよいか。……それに後宮など私のような田舎娘には分不相応でした、これで良かったのです」

「いやいや、月花よ、安心せよ。そなたが儂が生涯に出会った女の中で三番目に美しいぞ、後宮の宮女としても十分にやっていける可能性はあったはずだ。自信を持つがよい」


 それは果たして褒めているのだろうか。三番目という数字が妙に具体的で、貶しているようにも純粋に褒めているようにも聞こえて、複雑な気分だ。


「さ、三番目、ですか……」

「儂の妻と娘が一番と二番だ。流石にこの二人には、いくらそなたでも叶わぬであろう」


 苦笑と共に帰って来た言葉に、月花は虚を突かれた。


「ま、待ってくださいっ。確か、将軍に、妻子はいないと……」

「ああ、確かに、今は、もういない。……まだ、儂が陛下に仕える前に二人共亡くなった。娘が生きておれば、今頃そなたくらいの歳だったかもしれん」


 そう呟いた王林の瞳は潤んでいるようにも見える。あるいは、灯明皿の上で揺れる炎の明かりを反射しているだけなのか。どちらにせよ、王林の表情は今まで見せたことがないほどに穏やかでどこか危うく、陶酔しているようだ。

 しかし、王林に妻子がいたとは初耳だった。

 一年間、居候として住んでいた時にも、そのような話は聞いたことがなかった。

 酒に酔ったという先程の言は冗談ではなかったのかもしれない。


「……儂は、しがない百姓の出だ。寒村で生まれ、田畑を耕すだけの毎日、同じ村の娘を嫁に貰い、娘を成して、貧しくも慎ましく暮らしていた。ははっ、今思えばなんと退屈な生活であろうな。だが、今の儂には夜空の満月のように手の届かない、懐かしき日々よ」


 独り言のように身の上話を語り始める。

 初めて聞く王林の生い立ち。きっと普段であれば決して語らないだろう。珍しく酒が入ったせいで、口が軽くなっただけだ。

 月花は相槌も打たずに黙って聞き入ることにした。王林の英雄譚を知る者は紅にごまんといるが、この話を知る者はきっと限られているだろうから。

 何よりしんみりとした王林の語り口調を聞いて、とても水を差す気分になれなかった。


「しかし、当時は乱世の只中、無法者はそこら中にいた。平穏の終わりは、絹を引き裂くことよりも容易く呆気ないものだったよ。……押し寄せる夜盗の群れ、僅かな蓄えは奪われ、家屋に火が放たれた。……女達の悲鳴に、子供の鳴き声、男達の断末魔。……だが、あの時代では珍しくもない、ありふれた光景。……あの時、偶然儂の目の前で繰り広げられただけのこと」


 王林は詳しく語ろうとはしないが、月花にも情景を想像することくらいは出来る。

 後宮にいた頃、宮女の同僚からも乱世の頃の話を聞いたことがあった。彼女達もまた、故郷にいた頃に年長者から聞いた話だったが、乱世の時代に遍く繰り広げられた、目を覆うほどの悲劇の数々は目も覆いたくなるほど悲惨さだったらしい。諸侯達の天下争奪戦の陰で最も労苦を強いられたのは、下々の生活だった。

 領土の境では常に小競り合いが続き、周辺の村々は常に生活を脅かされた。領地を守るためと称して兵士達が村に押し寄せては、兵糧の徴収を行う光景も珍しくはなかった。しかし、どう言い繕われたところで、村民にとっては強奪と変わりがない。村民の中には食べる物に困って夜盗に身を落とす者も増え、それが更なる貧困と狼藉者を生み出すと言う悪循環の輪廻。

 まさしく、世が乱れれていた。


「……物を言わなくなった妻と娘の亡骸を見て、儂は怒り狂い、賊に復讐を果たそうとしたが多勢に無勢、敵うはずもなかった。……彼奴等が儂を弄び、嬲り殺しにしようとした時、……燃える村の煙を見て、助けに来てくださったのが陛下だった。だがその頃の陛下も旗揚げをした直後で手勢は少なく、夜盗相手でも死闘を繰り広げることになった。はは、今、陛下が従える大軍勢を知っていると信じられぬだろうな」


 己の悲劇を語る王林の声色は恐ろしいほど平静で、月花の耳には他人事のようにも聞こえる。

 だが、きっと違う。恐らくは、とっくに感情など乾いてしまったのだ。水が一滴も出ないほどに絞り切った雑巾のように、悲哀の感情を既に出し尽している。だからこそ、これほどまでに穏やかに語ることが出来るのだろう。


「……夜が明ける頃に、ようやく全ての決着がついた。陛下は、華炎様は、返り血で黒ずんだ右手を私に差し出してこう言われたのだ、『共に二度とこのようなことが起こらぬ世にしないか』と。華炎様は生まれ故郷と妻子を失った私に、新たな生きる目標を下さった。……これから何があろうとも、この方に一生付いて行こう。その時、私はそう決めた」


 王林は静かに呟いてから、ゆっくり目を閉じる。瞼の裏に蘇った当時の情景をしっかりと噛み締め、味わい尽くそうとするように。

 ……この人の忠誠心は、鍛え抜かれた鋼よりも強固だ。華鉄様は、王林将軍と陛下を仲違いさせようと企んでいるようだが、少なくとも将軍が自らの意志で陛下の御許を離れることはあり得ない。

 月花は、そのように察した。


「……そのような過去があったとは存じませんでした」


 そう言うと、王林の双眸が慌てたように素早く見開いた。月花が目の前にいることをすっかり忘れていたようだ。


「あ、ああ、いや、儂の方こそ、つまらない話をした。すまん。……先程も言ったが、そなたが妻となったことに変わりはないのだから、儂に遠慮することなく自由にしてよいぞ」


 月花は予想通りの答えが返ってきたことに苦笑し、頷いた。


「……お気遣い頂き、ありがとうございます。……私は良き妻にはなれないかもしれませんが、娘ならばなれると思います。将軍も、どうか、私を妻ではなく娘として接して、家事や雑用をお申し付けください」

「…………なるほど、娘か。確かに、そなたは妻というよりも娘の方がしっくりくる」


 腑に落ちたように頷くと、王林の表情が慈愛に満ちた父親のそれへと一変する。それは農村で暮らしていた時、妻子に見せていた顔なのだろう。だが、今まで将軍としての立場が長らく続いたせいで父親としての表情を忘れてしまったのか、その顔はどこか不格好だった。

 それでもその表情は、月花に実父の存在を思い起こさせた。

 東の海の果てにある懐かしき故郷の漁村で暮らしていた父親。月花が都会に憧れているのをずっと窘め、商船に乗り込むことも最後まで反対していた。分からず屋で頑固者だと思っていたが、実はずっと心配してくれていたのだと今になって分かる。

 もう二度と会えないと思っていた父親の顔を、王林の中に見たような気がした。

 四年間の紅での暮らしで捨て去ったと思っていた郷愁の念が今になって蘇り、月花の心を掻き毟った。

 無意識の内に、月花の目元から一粒の涙滴が零れ落ちる。その透明な粒は、灯明皿の淡い橙色の光を反射して星明りのように瞬いていた。

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