07話
「……って、もう七時半か」
栞さんは専業主婦だから家にいないということはほとんどない、それでも起こしに来なかったということは――まあどうでもいいかそんなことは。
できるだけ迷惑をかけない過ごし方をすると決めたのだから少なくとも残りほぼ二ヶ月、今年いっぱいは頑張りたい。
制服に着替えて顔を洗ったり歯を磨いたりしてから外に出る。
ここから高校は近いので面倒くさいということはないが絶対に絡まれるだろうから微妙に足が重かった。
「ふざけんなよお前っ」
あー……やはり萩島から絡まれるのは避けられなかったようだ、どう説明したものか、そして彼女がどう説明したのかが気になる。
というかこういう時にすぐに相談するからなのか、とてつもない嗅覚で嗅ぎつけるのか、それを俺は逆に聞きたかった。
「痛えんだけど」
「結那はもっと痛い思いをしたんだぞっ」
それを聞いてえ? なんで? と考えてしまった俺は完全に悪だ。
それでも彼女は自由に行動していた、俺はそれを止めなかった、なのに勝手にやって来て被害者面されても困る、俺は間違ったことを言っていないのだから。
「もういいよ明くん」
「結那……」
いつの間にか普通に名前で呼ぶようになっている、瞳とはどうなっているんだろうか。
「あたしも悪かったんだよ」
「でもお前昨日は……」
「いいんだって、それに稲本くんが実家に戻ったことで瞳ちゃんともっと仲良くできるようになったじゃん」
くん付けとか小学生以来だな。
彼女には説明しなかったが俺が戻った理由はそれだ、おまけに瞳は最後に俺に本音をぶつけてくれてたしな。
なんで余所者には自由にさせるのにってずっと気持ちを抑えていたんだろう、だから少しは役立てたんじゃないだろうか。
たーだ、宮木もらしくないことを口にしていると思う、なんで好きな奴が他の女子と仲良くできていい的なことを言うんだよって。
「結那がいいならいいんだけどよ……」
「うん、あたしは大丈夫だから、それに明くんに話を聞いてもらって楽になったしさ。それよりごめんね、瞳ちゃんのことが好きなのに頼るような真似をしちゃって」
「そんなん別に関係ねえよ。困ったら頼ってくれればいい、瞳だってそれは分かってくれるはずだ、どこかの馬鹿とは違うんだからな」
いちいち罵倒しなければ気が済まないようだ、ま、それならいくらでもしてくれていいと思う。
そうすれば将来の俺が調子に乗らずに済むだろう恐らく。
「もう、いちいちそんなことを言っちゃ駄目だよ」
「結那がそう言うならもう言うのはやめる」
だが宮木はこの間一度もこちらを見てないんだよなあ。
なんのためにそんなことを言っているんだろうか、不満があるなら萩島の勢いを利用して文句を言えばいいのに。
ただまあいくらでも意思表示をしてくれればいいが朝から微妙な気分だな、教室にも居づらくて適当にHRまで校内でも散歩してくることにした俺に更に追い打ち。
「最低ですね稲本先輩は、女性を泣かせるのなんて有りえないですよ」
どうしてこうも遭遇率が高いんだか。
適当に相槌を打って散歩を再開。
「って、そりゃそうか、来たのが遅かったもんな」
結局すぐ戻ることになって気分転換は全くできないまま一日が始まってしまったのだった。
結果的に言えば彼女と関わる人間の多くから文句を言われた。
「有りえない」「近づかないで」「気持ち悪い」「馬鹿」「アホ」「邪魔者」
萩島と幼馴染ということも多大に関連しているんだと思う、男女関係なく俺を悪く言う奴は沢山いて特に言い返すこともなく受けきった。
その度に宮木は「そんなことを言っちゃ駄目だよ」と言い回る羽目になっていたので申し訳ないことをしてしまったと思う。
昨日だってもう少しくらい優しく対応してやるべきだった、少なくとも心配で来てくれた子に対する態度ではないと後悔したくらいだ。
しかし今はそれよりも気になっていることがある、それは朝の花の水やりを忘れてしまったこと。
「早く帰らねえと」
急いで帰って裏庭に行くと栞さんがそこにいた。
「あの、水やり……」
「朝にしておいたよ」
「あ……すみません、ありがとうございました」
あーあ、そもそも両親が俺を捨ててなければこの人達を困らせることもなかったのによ。
学校だって違ったわけだし、一生関わらなかったというのに。
「どうしたの? 顔色が悪いけど」
「普通ですよ、ただ体育があったので疲れただけです。あ、ちょっと出かけるんで、夜飯はいいですから」
ほとんど使っていなかった小遣いがある。
これを言わずに使うのはパクるみたいで心苦しいが生きていくためには仕方がない、腹が減ったら飯を買おう。
「どこに行くの?」
「萩島――明翔と遊びに行くだけですよ」
「そっか、じゃあ気をつけてね」
「はい」
スマホと金だけを持って適当に散策。
なんか自分で自分の首を絞めているような感じがする。
距離を、壁を作っているのは確実に俺だ。
「って、公園に来ちまったけど……」
宮木が利用したくなる気持ちが分かった。
静かで、薄暗くて、考え事をするのには丁度いい。
「航くん」
「は? って、なんで瞳がいるんだ?」
「お母さんに聞いたの」
いや、場所を説明してはいないんだが?
「というかもう暗いんだから一人で出歩くなよ、危ないだろ」
「それは航くんも一緒だよ。隣、座ってもいい?」
「まあ俺のじゃないしな」
それでも彼女は律儀に「お邪魔します」なんて口にし横に腰掛けた。
「色々な人に悪口を言われたんだって?」
「悪口っていうか正論な」
「結那さん悲しそうだったよ」
そのきっかけを作ってくれたのは彼女であり、俺なんだがな。
「結那さんは止めたんだけど、明翔さんが許せねえって止まらなくてね」
「宮木に悪いって言っておいてくれ。それと瞳、悪かった」
「え?」
「俺ばかり贅沢な生活をして悪かった。我慢させ続けてしまったんだよな、それに全然気づかず一人暮らしとか自由すぎたよな」
後悔先に立たずとは言うけどもうちょっとくらい先に気づかせてくれてもいいと思う、そういうのをしっかり主張してくれないと俺は気づけないから。
「そりゃ瞳も不機嫌になるよな、景信さんからだって嫌われて当然だ。ま、これからは謙虚に生きるつもりだから許してくれや」
「ちょっと待ってよ、急にどうしたの? みんなに悪く言われて不安になっちゃった?」
「そうじゃねえよ、普通に生きられるありがたみに気づいただけだ、それと家族じゃないのに世話をしてくれている優しさにもな。それを利用しちゃいけねえんだ、あくまで普通の学校生活を送れているだけでも十分でさ」
俺は立ち上がって言う。
家族ではないが年上として一人で帰らせるわけにはいかない、本当なら萩島を呼びたいところではあるがたまには兄らしくこういうことをしてやりたくなった。
「送る、だから帰ろうぜ」
「航くんはどうするの?」
「もうちょっと外で時間をつぶして帰るわ」
「……うん、じゃあ帰ろ」
とはいえ並んで帰っては防犯の意味がない。
だから少し後ろを歩いてあの家まで歩いた。
「……送ってくれてありがと、気をつけてね」
「おう、瞳は萩島と仲良くな。じゃあな」
誰からも好かれなかった俺とは違って周りの人に好かれているんだから羨ましい話だ。
彼女と別れた後は適当に散歩をして午後二十二時になるまでには家に帰った。
「ただいま――か、景信さん……」
この家に住んでいた頃はまだ中学だったしこんなに遅くなったのは初めてか。
「今何時だと思ってるんだ」とこちらに問うてくる景信さんの顔は怒っているようにも見えるし、そうでもないようにも見える。
「え……えと、二十一時五十分です」
「なにをしていた?」
「散歩……ですかね、すみません」
「まあいい、さっさと飯食って風呂入って寝ろ」
「あ、飯はいいって言っているので、風呂にだけ入らせてもらいます」
景信さんは「勝手にしろ」と残して入り口横の和室に入っていった。
喉が乾いたためリビングに行くが冷蔵庫を勝手に開けるのもどうかと思いその手前で硬直する。
「ねえ」
「はっ、はい?」
真っ暗で全然気づけなかった、ある意味景信さんが玄関で待っていたことよりもホラーだ。
「そんなに嫌? 私たちと暮らすの」
「嫌なわけないじゃないですか、寧ろ感謝の気持ちしかありませんよ」
「その割にはごはんだって全然食べてくれないし、夜遅くまで外で過ごしたりするでしょ? 瞳に聞いたわ、本当は特に用なんてなかったって」
栞さんから聞いて瞳が移動してきたなら、瞳が栞さんに情報を吐いていてもおかしくはないか。
「あと、お昼ごはんだって食べてないんでしょ?」
「まあ、あまり迷惑をかけないようにって生活しているだけですよ、貰っていた金はまだ残っているので」
「それ返して」
「あ……分かりました」
財布から綺麗にとってあった三万円を渡す。
確かに受け取った金の使用しなかった分を勝手に小遣いと称して貰っていただけだし、パクリみたいなものだから返す義務があるか。
「これからはきちんとごはんを食べてね」
「……はい、あ、風呂に行ってきま――」
「聞いてなかったの? ごはん、食べてね」
栞さんが電気を点けると机の上には飯が置いてあった。
「でも、今日は外で食べて――」
「ないよね?」
「な、なんでそんなことが分かるんですか?」
「分かるよ、航君とはずっと過ごしてきたんだから。血が繋がってなくてもね」
ここで拒むのは逆に負担をかけることになるか。
「すみません、いただきます」
「うん、ゆっくり食べてね」
それで食べ始めた俺だったのだが冷めてるのに心がぽかぽかしてきて無性にがっついてしまった。
流石に目頭が熱くなるなんてことはなかったものの、箸が止まらなくて仕方がなかった。
「美味しい?」
「はい、凄く美味しいです」
栞さんが作ってくれたのを食べるのは一年ぶりだ、そういう懐かしさっていうのもあるのかもしれない。
「――って、全然ゆっくりじゃなかったですけど、ごちそうさまでした」
「航君」
「はい」
俺の対面に座った栞さんはこちらを真面目な顔で見た、瞳が大きくなったらこんな風に成長するんだろうなと感じるくらいにはよく似ている。
「血が繋がってなくてもね、私は家族だって思ってるよ? 景信さんがいて、瞳がいて、航君もいる――逆にいないと落ち着かなかったくらいだよ」
「ありがとうございます。あの、すみませんでした、泣かせてしまって」
「許さない」
「え……」
「敬語をやめてくれないと許さない!」
これでも中学生時代までは普通に接することができていた、けれど、高校生になって追い出された時に迷惑だったのかと思って敬語に改めたのだ。
「罰として一緒に寝ちゃうよ? 嫌でしょ? 高校生にもなって母親と一緒に寝るなんて。例えそれが義理であっても」
「え、別に嫌じゃないですけど」
「え……そ、そうなんだ」
「一緒の布団にとかじゃなければ問題ないんじゃないですか? 景信さん的には」
それこそそれができる広さがある。
大体、俺一人に十畳部屋は大きすぎて少し寂しいのだ、昔みたいにカーテンで隔てれば特に問題はないはず。
「昔はそうやって瞳と同じ部屋で寝ていたわけですからね」
「そっか――じゃなくて! なんで敬語をやめない流れになっているの!」
「そこはまあ割り切ってもらうしかないですかね……」
「航君が割り切ってよ!」
普通の生活をさせてもらっておいてそれで家族じゃないは都合が良すぎるか。
「分かりました」
「それなら!」
「あ、敬語はこのままでいいですか?」
「駄目に決まってるでしょうがー!」
うがーと栞さんは暴れる。
机を子どもみたいに叩いたり、こちらに来て肩を揺さぶってきたり、床に寝転がって駄々をこねたり、本当に自由で見ていて飽きないものではあったのだが、
「うるさいぞさっきから」
「あ、ごめんなさい……」
景信さんが訪れたことにより沈静化、これ以上見ることは叶わなくなってしまった。
「航、私はお前が嫌いだが栞はお前のことを嫌っているどころか実の息子みたいに認知している。その厚意を無碍にするな」
「えと、そのことは自分もそういう認識でいこうかと思っていまして」
「そうか、なら親の言うことくらい聞け」
栞さんを見ると満面な笑顔、景信さんを見ると――相変わらずの真顔。
保留でということにはできそうにない雰囲気、それに俺でも家族なのに敬語を使っているのはおかしくね? となる。
「……ちょっと風呂に入ってくる」
「うんっ、行ってらっしゃい!」
「それとな航、栞がお前の部屋で寝るのなら私も寝るぞ」
「えっ!?」
横に景信さんが寝てたら落ち着かねえよ! というか最近は本当に沢山話すようになったなこの人、それとも苦手すぎてそういう風にしか見えていなかっただけなのか?
「栞となど寝かせたら間違いを犯すかもしれないしな」
「起こさねえよ!」
「は?」
「あ……そ、そんなことするわけない……でしょう?」
俺の元両親よりもよっぽど美人だし捨てないし優しいしで魅力的だが親戚の母親に手を出すような屑ではない、つかどれだけ悪く見られているんだよ俺って。
「ふっ、やっぱりお前はそれくらい生意気じゃないとな」
「あ……風呂行ってくる」
「さっさと寝ろ、それと五十メートルくらい離れていれば栞と一緒の部屋で寝てもいいぞ」
「そんなに広くねえだろ……」
まあでも栞さんのことを愛しているということなんだろう、栞さんも嬉しそうに笑っているし不幸な人間はここにはいないと。
「ね、私も一緒に入ろうか?」
「入らなくていい!」
「おい、航!」
「ちげえから!」
これはこれで問題がないわけではないが少なくとも他者から見れば辛い学校生活を耐えるためには必要な暖かさだった。