後宮脱出のための次の手段
「――翠珠」
「なんでしょう?」
「こういう時のために、君の父上は俺に頼むと言ったのではないか?」
「……あ」
言われるまで気づかなかった。父が、志縁に翠珠を頼んだというのには、そういう事情もあったのか。
「でも、大丈夫ですよ。たいした問題じゃ――」
「俺のせいだ。俺に任せてはもらえないか。手を打つから」
なんで、こちらを見る志縁は、そんなに真剣な目をしているのだろう。父に頼むと言われた以上、責任は果たさなければならないということか。
「は、はぁ……では、よろしくお願いします。嫌がらせがなくなれば、私はそれでかまいません」
と、翠珠は言ったのだけれど、翠珠が思っていた以上に事態は早く進行した。
(……意外と早く終わったかも)
なんて、思ったのは志縁と話をして三日後のことだった。衣が汚されたり履物が隠されたりする嫌がらせが、ぴたりと止まったのだ。
志縁が、本当に何か手を打ってくれたのだろうか。
そんなことより、今大切なのは、次はどうやって円満に後宮から離れるかということだ。
(病気になる……っていうのもありだとは思うけど、お医者様の目をごまかせるとも思えないし)
毒を飲めば病気になることは可能だろう。そんな知識もないわけではない。
李家の商いは、そこまで多岐にわたっていた。
だが、毒をどうやって入手するかというのが問題だし、そもそも論として、身体を損なう真似をするのは嫌だ。
健康な体というのは、翠珠にとっては何よりの宝なのだ。
(やっぱり、お父様をうまく使うしかないかな……)
転生物の小説や漫画は病床で何冊も読んたけれど、こういう時は、もっと権力や力を持って転生するものじゃないだろうか。
こんな風に何もない状態で、生まれ変わってきて、何ができるというのだろう。チートが欲しい。
(いや、健康な身体があるんだからそれで充分よね。実家は割とお金持ちだし、恵まれてるもん)
一瞬、自分の運命を呪いそうになったが、すぐに思い返す。
ベッドからほとんど出られなかった前世と比べれば、自由に動き回ることのできる今はずっと恵まれている。おまけにそこそこ美人でもあるのだ。
(……何か、参考になることはないかな)
記憶がよみがえった当日、思い出したことを書き記した紙を取り出す。
思い出せたキャラクターの名前、国の関係、年表。
年表を指でたどっているうちに、ふと思い当たることがあった。
(……飢饉)
ばっと紙を取り出して、指で追う。飢饉のあとに疫病の流行。そして、戦。
それを見ながら、翠珠はめまぐるしく頭を回転させた。
このあたりの主食は麦だ。麦を大量に買い付ければ、李家が他の商人達から目をつけられる。
(……麦より米……米なら、安く入手できる……?)
だが、大量に米を買い付けたところで、それをどうすればいいのか。うまみのない話に、父は乗ったりしないだろう。
「……お父様に、手紙を書こう」
牡丹宮の御用商人となった父は、事前に許可をもらえば後宮に来ることができる。
(あと、ついでにお菓子も買ってきてもらおう)
同僚達に配るお菓子は、いくつあってもいいものだ。嫌がらせが終わったとはいえ、油断はできない。いいことは分かち合っておかないと。
父への手紙を出してもらおうと、易夫人に許可をもらいに行ったら、向こう側から志縁が歩いてくるのに気がついた。
一緒に出掛けた日以降、彼と顔を合わせる機会が増えたような。
「翠珠じゃないか。どうした?」
「父に後宮に来てもらおうと思って」
「まだ、嫌がらせが?」
「ううん。それはあっという間に終わったんですよ。数か月は続くと思ってたんで、急に終わってびっくりしちゃいました」
翠珠の言葉に、志縁はほっとした顔になる。
自然と並んで歩く形になったのは、彼が翠珠についてきているからであって、翠珠が彼についていっているからではない。
「李殿に来てもらおうというのは、どういうわけか?」
「それはですね……」
口を開こうとして、慌てて口を閉じる。
麦が不作になりそうだから父と対策を取りたいなんて、志縁に言ってもしかたのないことだ。彼には、きっと理解できないだろうし。
「後宮の皆に配るお菓子を持ってきてもらうんです。あと、ついでに皆の実家からの文も。文は易様の確認が必要ですけどねー」
後宮に入ってしまえば、実家とのやり取りはごく限られた機会になってしまう。だが、御用商人が後宮を訪れる時に実家からの文を持ってくるのは黙認されていた。
侍女頭の易が目を通してからでなければ、宮女達には届けられないけれど。
「こっちの皆の様子も、父への手紙に書いておくので、回し読みしているみたいですよ」
父との手紙をやりとりするようになって、一番恵まれたのはそこだと翠珠は思う。仲間達と実家のやりとりができるようになったからだ。
おかげで、直接ではないにしても実家の様子も知ることができて、春永や京香には感謝されている。
「――そうか。嫌がらせをされているわけじゃないならいいんだ」
明らかに、志縁がほっとした顔になる。
(……やっぱり、気にしてくれてたのかしら)
後宮を出たいという翠珠の願いを、間接的に志縁は阻んでしまったことになる。それを気にしているのだとしたら、意外と律儀な人だ。
「地味に暮らしていれば、きっとそのうち忘れてくれると思うんですよ」
皇帝の妃になりたいとも思わないし、ここで生活している間地味に平穏に暮らしていければそれでいい。
「――そうか。ああ、易殿の部屋はここだったな。では、俺は仕事に戻る」
ひょいと手を上げて、志縁は皇太后の部屋の方に向かって歩いていく。
その後姿を見送りながら、翠珠は首を傾げた。
(ひょっとして、私を送ってくれた……?)
いや、そんなこともないだろう。きっと、気のせいだ、気のせい。
それにしても、嫌がらせがやんだ裏には、どんな事情があるのだろう。
易の部屋に入室し、実家に手紙を届けてほしいと頼む。易は、翠珠の差し出した手紙に目を通し、軽く眉を上げた。
「最近、そなたは実家とのやり取りが多いのではなくて?」
「……そう、でしょうか」
父に後宮に寄ってくれるよう頼んだのは二度目だ。
一度目は、髪飾りを取りに来てほしいと頼んだ時。
そして、二度目が今日だ。前回も友人の実家からの様子を、父の手紙に紛れ込ませてもらったから、それが易の気に障ったのだろうか。
「でも、大事なことなんです……易様。だって、お菓子は必需品です!」
ぐっと手を握りしめて主張する。
「後宮内で、円滑な人間関係を築くためには! 賄賂が一番です! 父が御用商人になったことで嫉妬されています! お菓子で懐柔しなくては!」
「そなたは、率直過ぎるのが欠点よね」
「易様の前で、取り繕ってもしかたありません……」
皇太后が後宮入りした時からずっと彼女の側に仕えてきた易は、皇太后同様、争いを勝ち残ってきた人間だ。
彼女の前で翠珠が取り繕ったところで、勝ち目なんてあるはずもない。
「そうね……いいでしょう。ちょうど、私も李に頼みたいことがあったし、先に私のところに来るよう申し伝えて。それと――」
思案する顔になったので、次に何を言われるのかと翠珠は身構えた。
「巴旦杏の焼き菓子を、私の分も持ってこさせてちょうだい」
「易様も?」
「若い頃、町中で食べたのよ。牡丹宮の料理人に任せると、どうも上品な味になっていけないわ」
「かしこまりました!」
易に差し入れするとなると、父としては緊張するだろうけれど、持ってきてもらうしかないのだ。翠珠の平穏な後宮生活のために。