皇太后に気に入られたら嫌がらせが始まった
父と自由に会うことができるようになったのはよかったのだが、皇太后に気に入られたということで、違う問題が発生した。
(いや、わかってたんだけどさ……だから、皆の家の商品をお勧めしたんだけどさ……)
汚された衣を手に、翠珠は遠い目になった。
部屋を出ている間に、誰か翠珠の部屋に入り込んだらしい。明日着ようと思って、寝台の上に出しておいた衣が泥まみれだ。
(ひょっとして、海様と一緒に出掛けたっていうのもあるのかもだけど。こんなことなら、最初から断ればよかった……!)
後宮にいる以上、一応妃候補ではあるけれど、針子が皇帝に顔を合わせる機会などあるはずがない。
だから、宮女達は貴族との結婚を望む。皇帝に迎えられていなければ、結婚が認められる場合もあるからだ。
(たしかに海様は、優良物件だろうけど、一度皇太后様のご命令で一緒に出掛けただけでこれってひどくない?)
皇太后の信頼が厚い護衛だ。どの程度の身分なのか聞いたことはないが、それなりに高位の貴族であるのは間違いない。
宮女が結婚する相手としては、選択肢として十分ありえる。
(だからって、こういうのは困るのよねぇ……)
はぁっと深くため息をつく。汚されてしまったものはしかたがない。洗濯場まで行って、洗濯してこよう。
これが墨だったら目も当てられなくなるところだったから、まだましだと思うことにしよう。
皇太后から賜った髪飾りは、そうそうに実家の父に取りに来てもらった。
父を呼びつけた名目は、「呂家の実家の酒を届けてほしい」だ。ついでに、春永から家族への手紙も持って帰ってもらったから、春永も喜んでくれた。
髪飾りをおさめるのに、父に螺鈿細工の箱を入手するよう頼んだら、ほくほくしながら帰っていった。
授けてくださったのが皇太后とは言っていないけれど、「身分あるご婦人からのお礼」と言ったので、察しはついているかもしれない。
あけっぴろげに皇太后から賜ったと言わなければそれでよいので、父が妄想を膨らませるのに任せておいた。
(本当は、後宮から出たかったんだけどなぁ……)
薬草を無事に見つけてくれたのは父の手柄だが、翠珠に礼を選ばせてくれるのならば後宮から出してほしかった。
そうなったら、こんな事態にはなっていないだろうに。
(刺繍の腕を誉めてくださっただけ、ましと思うしかないかな)
次に何をしたらいいのか考えながら、洗濯場へと向かう。
(うぅ、水が冷たい……!)
季節は、まもなく冬を迎えようとしている。洗濯場の水は、氷るように冷たく、手を入れたらぴりりとした。
それでも衣を汚したままにしておくわけにはいかないから、歯をがちがち言わせながら、洗い物をすませる。
「翠珠じゃないか。そこで何をしているんだ?」
「あ、海様」
洗濯場で衣を洗っている翠珠に声をかけてきたのは、志縁だった。
志縁と顔を合わせるのは、実家から後宮に送ってもらったその日が最後だった。
後宮に戻ってからは、遠目に見かけることはあったけれど、それだけ。あえて声をかけるほどのこともなかったので、一方的に翠珠が見かけて終わっていた。
「ああ、洗濯か」
「そうなんですよ……だから、後宮から出たいってお願いしたんですけどね」
こんな幼稚な嫌がらせをするなんて、どうかしている。ため息をつきながら、泥の落ちた衣をぎゅっと絞った。
「後宮から出たかったのか?」
ひょいひょいと石段を降りてきた志縁は、翠珠の側に立つ。
「ええ、まあ。この間、皇太后様のご命令で出かけたのが、誰かの気に障ったみたいですね。しかたないんですけど――あまりひどくならないといいなって」
「しかたない?」
「命の危険があったわけじゃないし、この程度なら洗えば済みますから」
病院のベッドからほとんど離れられなかった前世のことを思えば、こんなのなんの痛手にもならない。
(……いや、傷ついてないわけじゃないんだけど)
しかたのないことと頭ではわかっていても、大切にしていた衣を汚されれば、心は傷つく。翠珠のため息に、志縁はむっとしたように口角を下げた。
「なぜ、俺に言わない? こういった時のために李殿は俺に頭を下げたんだろう」
「……こんなの。こんなことでいちいち、海様のお手を煩わせるわけにはいきません」
「――だがな」
ちらりと横目で見やれば、志縁が身に着けている衣は上質のものだった。皇帝に目通りさえできない身分の宮女達がざわざわするのもわかる。
(異国の血が入っているから、純血にこだわる人は嫌って言うらしいけど……)
鍛え上げられた長身。穏やかな微笑み。顔立ちは文句なしに整っていて、武官であるにも関わらず物腰は柔らか。これで、出会いのない宮女がざわつかなかったらどうかしている。
「そりゃそうですよ。皇太后様にご褒美いただいたんですもん。ねたまれるに決まってるでしょう」
「そういうものか。これは、俺の考えが足りなかったな。皇太后様からお誉めの言葉を賜れば、励みになるかと思ったんだが。皇太后様も、翠珠に礼をしたいとおっしゃっていたし」
「もちろん、皇太后様のお気持ちは嬉しかったです。ものすごく光栄だし――ただ、こういうところじゃ、ねたまれるのはしかたないですよ」
実際後宮に入ってから目の当たりにしたことはなかったけれど、前世では病室から出られなかった分、読書をしたり、テレビを見たりして時間を過ごすしかなかった。
どろどろとした昼ドラ、海外のアクション映画、サスペンスからホラー、恋愛物に歴史物。読DVDをレンタルしたり、動画の配信サービスを使ったりして、様々なジャンルを楽しんだ。
その分、空想の世界での経験は豊富だった。人生経験が浅いとはいえ、この程度は想定済みなのだ。
「誰か、心あたりはないのか」
「たぶん、貴族出身の人だと思うんですよねー。春永とかその他の同僚は、皇太后様のところに彼女達の実家で作っている品を献上したので、実家には利益があったはずなんですよ」
それで言えば、翠珠は彼女達には感謝されてもいいはずだ。
春永の家の葡萄酒は、定期的に皇太后のところに届けられるようになったし、他の娘の家の寄木細工は、今度の宴会の土産物に決まったそうだ。
皇太后の宴会の土産物として使われたとなれば、今後貴族や大商人からの依頼が次から次へと舞い込むに決まってる。
「それで、どうするんだ? 嫌がらせがやむまで」
「別に何も。できることってないですしね。皇太后様から賜った髪飾りは実家に避難させたので、なくなって困るものもないし、頭を低くしてやり過ごします」
翠珠の使っている髪飾りはさほど高価な品ではないし、その他の飾り物も同様だ。衣が汚されるのは困るが、汚されたら洗濯すればいい。
あと、前世の記憶を書き記した紙が見つかるのは少々困るが、厳重に隠してあるので見つかることはまずないはずだ。
「俺のせいか」
「なんで?」
「翠珠の腕はよいから、今後も大切な衣類を任せてはどうかと皇太后に申し上げた」
「うわぁ……海様、余計なことを言ってくれましたね」
「すまない」
志縁が、心底申し訳なさそうな顔になるので、逆にこちらが申し訳なくなってくる。
「ああ、でも大丈夫ですよ。こういうのって、よくあるし」
「翠珠も嫌がらせをするのか?」
「なんで、そんな発想になるんでしょうね? 嫌がらせなんてしませんよ。意味ないじゃないですか」
後宮内で出世するのに、他人の足を引っ張るというのはよくある事例だ。だが、翠珠はそんなことはしようと思っていない。
「私は、平穏に暮らせたらそれでいいんです。あと、なるべく早いうちにここを出たいかな」
「まだ、ここから出たいのか」
志縁にそう言われ、返事に困る。
「父に言われて入ったけど、思ってた以上に大変だったんですよねぇ……」
どう答えるか迷った挙句、衣を必要以上にこねくり回しながら、あいまいに返すことしかできなかった。