後宮脱出失敗
実家を訪れてから二週間後。
翠珠は皇太后に呼び出された。
「翠珠、あなた何やらかしたの?」
「何もしてないわよ」
心配そうにささやく春永に返すものの、皇太后に呼び出されるなんて本当に心当たりがない。
(まさか、刺繍に不手際があったとかじゃないわよね……でなかったら待ち針打ったまま衣を片付けてしまったとか……?)
裁縫道具は、仕事始めと仕事終わりにきちんと数を数えている。今のところ、足りなくなったことはないはずだ。
となると、刺繍に何か不手際があったのだろうか。手を抜いたつもりなんてなかったけれど。
先を行く易夫人のあとを追うものの、不安ばかりが膨れ上がってくる。
通されたのは、今まで一度も入ったことのない奥の間だった。皇太后は、昼はほとんどずっとこの部屋で過ごしているらしい。
螺鈿の細工が施された紫檀の家具、精緻な刺繍の施された壁掛け。一段高くなったところに腰を下ろしている皇太后は、銀色がかった灰色のずっしりとした衣をまとった迫力のある女性だった。
「李翠珠、参りました」
部屋の入り口のところで平伏する。
「かまわぬ。ここまでくるがよい」
「恐れ入ります」
廊下を歩きながら、易夫人に叩き込まれた礼儀作法を必死に頭の中で繰り返しながら、自分の足元だけを見て前に進む。
皇太后の前まで来たところで、改めて膝をついた。
侍女頭の易夫人が、膝をつき、頭を下げたままの翠珠の前に、何かを置く気配がした。視線だけをちらりと動かしてみれば、台の上に何か置かれている。
「顔を上げよ」
再び命じられて、そっと視線を上げる。
「そなたのおかげで、頭痛が治まった。褒美として、これをとらそう」
見れば、台の上には、見事な髪飾りが置かれている。翠珠の身分ではとうてい入手が不可能な品だ。
だが、皇太后からの礼を受け取らないという選択肢もなく、翠珠はありがたくそれをいただいた。
(実家に帰ったら、家宝にできるもんね)
金銀の細工が施された立派な髪飾りを、実際に使うことなどないだろう。螺鈿細工を施した紫檀の箱を父に入手してもらって、家宝にするのがよさそうだ。
「それから、そなたの持ってきた品々も面白かった。特にあの――髪を入れる飾り物。亡き夫の遺髪を入れることにした」
「あれを購入したのは、海様ですので……」
皇太后と亡き先帝は相思相愛だったと聞いている。手元に残していた遺髪を大切にしているというならば、ロケットを選んで正解だったのだろう。
(さすが、海様。よく見ているのね)
きっと、護衛として側にいる志縁は、皇太后の想いをくみ取っていたのだろう。余計なことを言わなくてよかった。
「そなたの父にも、褒美を取らそうと思うが何がよいか?」
「恐れながら――父は、皇太后様のためとは存じません。遊睡草の代金を頂戴してますし、父には、この髪飾りを賜ったと伝えますからそれで充分です」
翠珠はますます深く頭を下げた。
(お父様があそこまで貪欲じゃなかったら……素直にお礼をいただけたんだけど)
皇太后とつながりができたとなれば、父は全力でその繋がりを利用しようとする。後宮での翠珠のこれ以上の出世が見込めないとならばなおさらだ。
「翠珠。皇太后様が、何も礼をしないというわけにはいかないのよ」
そう易夫人が言うけれど、翠珠としてもこれは譲れないところだ。
(……あ、あれをお願いすればいいじゃない!)
必死に頭を回転させていたら、願ってもないことを思い出した。
「で、でしたら。後宮を去る許可を賜りたく……! いただいたこの髪飾り、家宝として一生大切にいたします! 父のもとで、親孝行する機会をくださいませ」
思いついたこの申し出、翠珠としてはよくやったつもりだった。父に親孝行するためと言えば、父に対する褒美と言えなくもないんじゃないだろうか。
「……それは許せぬ」
だが、皇太后は、翠珠の願いをあっさりと却下した。女帝に翠珠が文句を言うことなどできるはずもない。
「そなたの刺繍の腕は私も買っているのでな、去られては困る……では、こうしよう。牡丹宮の御用商人として、後宮への出入りを許す」
「あ、ありがとうございます」
後宮を去る許可をもらえなかったのにはがっかりだ。だが、文句を言えば不敬になる。ありがたく頭を下げた。
「その折には、そなたとの面会を許そう。それでよいか? 時を選び、文を出し、品を持ってこさせるがよい」
だが、皇太后の計らいは、翠珠の思っていたものとは違っていた。
つまり、翠珠はいつでも好きな時に父を後宮に呼べるというわけだ。
そして、牡丹宮だけの出入りであるから、父は皇帝には近づくことにならない。
さすが、女性だらけのどろどろとした世界を、五十年以上生きてきただけのことはある。
「か、感謝いたします!」
翠珠はますます深く頭を下げた。
(お父様と連絡がつきやすくなったということは……うん、まだ脱出の機会が完全に失われたわけじゃない)
いつか、翠珠がここから逃げ出す日が来たら、実家に行きやすくなる。
皇太后からは、他に甘い菓子が下賜された。これは、裁縫部屋に持って行って、皆で食べることにする。
いいことがあったら、きちんと皆におすそ分けする。これは、この世界で生き延びるための知恵だ。
皇太后のところから戻った翠珠は、さっそく休憩時間に賜った菓子をふるまった。
「……わあ、おいしい」
春永が、蒸し餅を手ににっこりとした。
下賜されたのは、棗の餡が入った蒸し餅と、胡麻の餡が入った蒸し餅だ。裁縫部屋にいる全員に配っても余るほどに十分な数がある。
皆のところに持って行く前に、二つ、自分の寝台に隠したのは、もらった人間の特権だ。
「でも、なんで翠珠が選ばれたの?」
「実家が商家だからよ。珍しいものをたくさん知ってるんじゃないかって。春永の実家の作っているお酒もお気に召したみたいよ」
温めた葡萄酒に果汁やハチミツを足して寝る前に飲むのが、このところの皇太后お気に入りの寝酒だそうだ。
春永の実家である呂家にも、葡萄酒をおさめるようにと命令があったそうで、春永の家族も喜んでいるというのは、部屋を去る前に易夫人が教えてくれた。
どうせなら、ここで一緒に働いている者達の実家にもいいことがあればいいなと思った。今回、貴族の家の娘には何もできなかったけれど、それはそれで我慢してほしい。
「――うまくやったわね」
そう蒸し餅をほおばりながら言ったのは、貴族出身の娘だ。まだ、皇太后に目通りしたことはないらしい。
(文句を言うくせに、しっかりお菓子は食べるんだ)
と思ったけれど、ここで逆らってもしかたない。
「たまたまよ。だって、商売してるんだもの。あなたに聞くよりは、市場のことがわかると思ったのでしょう」
李家は手広く商売をしているのは、彼女も知っている。貴族の娘がふらふら市場をさまようなんてないから、彼女もおとなしく口を閉じた。
「でも、海様と一緒だったのでしょう? それはそれでついてたわよね」
「ついてる?」
「ええ。だって、宮女達の間ではひそかに人気よ。お役目大事で、女性には興味なさそうだから、近づく人も少ないけど」
「へぇ、そうなの」
女性には興味なさそうという話だったけれど、翠珠には親切だった。
きっと、皇太后のお役目を一緒に果たす仲間だから、悪い印象は与えたくなかったのだろう。
「もうお話をすることもないんじゃないかな。だって、護衛の方と私達じゃ接点なんてないでしょう」
翠珠はそう言ったけれど、同僚達はそれを信じていないようだった。
「また、そんなことを言って。海様は優良物件なのよ。全力で縁をつなぎなさい」
餅を食べ終わった春永が、翠珠の背中をどんと叩く。翠珠は、それには苦笑いで返すことしかできなかった。