皇太后の命令
翠珠が、皇太后の筆頭侍女である易夫人に呼ばれたのは、それから二日ほどが過ぎたあとのことだった。
「そなたに、使いを命じます」
「わ、私にですか……?」
どこかの家に使いに行くならば、たいていは侍女が行かされる。
本来の翠珠の役目は衣を縫ったり刺繍を施したりすることで、お使いを言いつけられるのは初めてだ。
「ええ、そなたなら適任だと推挙した人物がいるのよ。そなたの家は商家だったわね。市場に行き、皇太后様の気晴らしになるような品を探してきてちょうだい」
「こ、皇太后様をですか……!」
思わず裏返った声が出てしまってもしかたないと思う。皇太后と言えば、現時点で国一番の高貴な女性だ。その皇太后を楽しませることなんて可能なんだろうか。
「ええ。嫌だとは言わないわよね? とても名誉なお役目だもの」
「……ですが」
「もちろん、高価な品を買ってこいというわけではないのよ。子供のおもちゃとか、他国から来た珍しい品だとか――そうね、庶民の食べる菓子など。後宮には献上されないようなものをご覧になりたいのよ」
「重大なお役目ですね……!」
皇太后が珍しいものを見たがるというのはわかる気がした。後宮からめったに出ることもない上に、近頃は頭痛が続いている。
気晴らしがしたいということなのだろう。
「そなたには護衛をつけます。皇太后様からのお役目ですから、気を引き締めていくのですよ」
「承知しました」
命令を伝えたのは易夫人とはいえ、事実上皇太后からの命令だ。
気持ちを引き締めながら、出かける支度をし、命じられた場所へ行くと、そこに待っていたのは、先日話をした志縁だった。
「海様。どうしたのですか?」
「俺が君の護衛だ。俺から、易殿に街の者が好む品をお見せしてはどうかとお話したんだ。ついでに、君の家にも寄れるだろう」
「ありがとうございます。では、急ぎましょう」
父と話すだけならば十分な時間があるが、皇太后の気晴らしになるような品も探さなければならない。
そのため、戻りは明日ということになり、今夜は実家に宿泊する許可も与えられている。たぶん、この隙に父と話をしろということなのだろう。
(海様って、意外と易様に信頼されているのかも)
志縁の提案を、易があっさりと受け入れたのに驚いた。
今日の彼は、護衛官としての衣ではなく、いくぶん気楽な格好だ。
紺色の袍がよく似合っている。腰に剣を吊っているのはかわらないが、町中にいても人波に紛れることができそうな雰囲気だ。
「まずは、市場ですね。呂春永の実家に寄りたいのですが、かまいませんか?」
「呂春永は、君の同僚か」
「はい。彼女の実家は、お酒を造っているそうです。葡萄のお酒を今年初めて作ったとこの間言っていたので……」
まさか、この国に葡萄酒が入ってきているとは思わなかった。春永の実家で、今年初めて葡萄酒を仕込んだのだそうだ。
「西方からの献上品は見たことがあるが、わが国で仕込まれたというのは見たことがないな」
「葡萄酒を温めて、果実の汁を絞り、ハチミツで甘みを足していただくんです。身体がぽかぽかするそうですよ」
残念ながらレモンそのものは存在しないが、似たようなクエンという果物は存在している。クエンの汁を絞れば、いい香りになるだろう。
「そうか、肌寒い日が多くなってきたからな。そういう飲み方も初めてだ」
「そうなんですよね、いつ雪が降ってもおかしくないですから」
最近、寒い日が増えてきた。仕事の最中、火鉢に手をかざして温めることも多い。
「海様に試していただいて、お気に召したら皇太后様に献上しましょう。毒見が必要なら、私がしてもいいですよ」
飲酒をしてもいい年齢というのは明確には定まっていない。基本的には飲まないが、毒見のために一口飲むくらいならいいだろう。
「牡丹宮には、専門の毒見係がいるんだ。君がそこまでする必要はない」
志縁の穏やかな声は、翠珠の耳に心地よく響く。
(そう言えば、男の人と並んで歩くの……初めてだった――!)
不意にその事実に気づき、かっと顔が熱くなるような気がした。
前世では、人生の大半をベッドの上で過ごした。
今の生では、十になる前に後宮に送ると決めた父に厳重に監視されて、誰かと出かけることなんてできなかった。
そんなわけで、男性と並んで歩くというのは二度の人生でも初めての経験だったのである。
(意識しちゃダメだってば……!)
そもそも志縁が既婚者かどうかも知らないし、翠珠が気持ちを寄せたところでどうにかなる相手でもない。
胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。
大丈夫、別にどうってことはない。初めての経験だったから、ちょっとびっくりしてしまっただけ。
繰り返し自分に言い聞かせながら、翠珠は一目散に呂家を目指す。
呂家で葡萄酒を入手することに成功し、市場の方へと回る。実家に帰るのは最後だ。
「……これなんかどうですか?」
翠珠が取り上げたのは、西の地方から流れてきた装身具だった。いわゆるロケット式の首飾りだ。
「これはなんだ?」
「ここをぱかっと開いて。恋人や家族の髪や絵姿を入れるんですよ」
「髪なんか入れてどうするんだ?」
「ええと……ずっと一緒ってことですよ。思わぬ別れってあるでしょう? そういう時でも、心はずっと一緒だよって。そう思うためのお守りみたいなものです」
(……お父さんとお母さん、悲しんだだろうな……妹も)
そんな話をしていたら、前世のことを思い出す。
ずっと病院にいたけれど、家族は翠珠を見捨てることはなかった。
クリスマスからお正月にかけての時期は翠珠が家で過ごすことができるよう、翠珠の体力作りに協力してくれたし、極力家族が一緒に過ごすことができるよう、仕事や友人との約束も調整してくれた。
ロケットに写真を入れるなんて習慣はあちらではほとんどすたれてしまっているけれど、前世の翠珠の写真は、一枚くらいどこかに飾られているだろうか。
「君が、そんな顔をするとはな」
「どんな顔ですか?」
「……内緒」
くすりと笑った志縁は、主に言ってロケットを買い求める。
「皇太后様は、そういう可愛らしい話はお好きだな。献上することにしよう」
(……大丈夫かな、本当に)
皇太后が、本当にこんなものを気に入るかははなはだ疑問だ。だが、志縁の方が皇太后のことはよく知っているのだろうし、彼に任せることにした。
それから市場を回り、子供が使っているおもちゃや、若い娘の間で好まれている飾り物などを手に入れる。
「あら、これは……」
目に留まったのは、毛糸のマフラーだ。羊の毛を使った編み物は、今まで見たことがなかった。糸は染められておらず、羊の毛の色そのままだ。
最近、西方から入ってきたのだろうか。
「皇太后様は、こちらの品もお気に召すかも。まだ、これからますます寒くなりますし、これはどうでしょう?」
翠珠は、温かそうなストールを取り上げる。
太い毛糸で編まれたストールは、皇太后の持ち物として洗練さには欠けているが、防寒にはよさそうだ。
「これは、初めて見るな。よし、これも買って行こう」
その他に、寄木細工の小箱、流行が始まったばかりの焼き菓子なども買う。
(……ゲームの世界だと思ってたけど、こうしてゲームの中では見たことなかった文化もあるわけね)
西方との交易は、まだ始まったばかりだ。
これからどんどん翠珠の知らないものも入ってくるのだろう。
(……本当に、この国近いうちに滅びるのかな……)
けれど、翠珠にはそれを知る手段はなかった。