脱走しようとしていたわけじゃありません
その日の夕刻、翠珠は後宮と外を隔てる塀の側にいた。というか、側にある木の上にいた。
子供の頃から活発だったから、木登りくらいは今でもできる。枝に座って塀の向こうを見やれば、ちょうど太陽が沈みかけているところだった。
街中橙色に染まっているのが美しい。こんな美しい街が、あと数年で焼け野原になるだなんて信じられない。
(逃げるだけなら、ここからでもできるかな……)
日本と違い、塀の上に電気が流されているということもない。この木から塀に飛び移れば、外に逃げ出すことはできそうだ。
(自由に動く身体って素晴らしい!)
前世では人生の大半病院のベッドの上だったから、身体が自由に動くというだけで素晴らしいと思う。
(……最悪、戦が始まったらここから逃げるとか……? その時には、皆もここから逃がしてあげればいいし)
できれば、その前にここから出ていきたいものであるけれど。
「おい、そこの宮女。そんなところにいるなんて、ここから逃げるつもりか?」
「……い、いえ……って嘘ぉっ!」
声をかけてきたのは、先ほど馬医師との会話を聞いてしまった志縁だった。慌てて振り返ったので、枝から転げ落ちそうになる。
「わわわわわ! ひゃあああっ!」
身体がぐらりと揺れ、手を伸ばすが間に合わない。驚くほどするっと翠珠の身体は枝から離れた。
(――もうだめ!)
ぎゅっと目をつぶり、痛みに耐えようとしていたが、身体がふわりと受け止められる。
「……気をつけろ」
「ご、ご迷惑をおかけしまして……!」
横抱きにされたまま、翠珠はもごもごと言った。こうやって見上げていると、彼の顔立ちが整っているのがよくわかる。
(……あれ、どこかで見たことあるような?)
間近で彼の顔を見た時、一瞬誰かの顔がちらついた。それが、誰の顔なのかはわからないけれど。
日が落ちかけている今、日頃は茶色く見える彼の髪も、今は他の人と大差ないように見える。
(……思っていたより、大きいなぁ……)
遠くから見かけた時も、武人らしく背が高いと思っていたけれど、近づいて見れば思っていた以上に大きい。
「気をつけろ」
丁寧に立たされ、また翠珠の頬に血が上る。
「で、ここでお前は何をしていた?」
「海志縁様! 少し、お時間いただけますか」
いきなり翠珠の方から声をかけたので、志縁は驚いたように目を見張った。
「時間、とは?」
「ああっ、すみません! 私は李翠珠と申します。牡丹宮に針子としてお勤めしています」
「李翠珠……? どこかで会ったか?」
翠珠の方は、志縁のことを知っているが、志縁の方は翠珠のことなんて認識していないだろう。
「いえ、会ったことはないと思います。外を見ながら、ちょっと考えていたんです。実家に連絡取れないかなって」
実際のところは逃げ出す策を練っていたのだが、見つかってしまったのだからしかたない。とりあえずごまかすことにした。
「今日、部屋にいたら、馬医師と海様が話しているのが聞こえてしまったのです。皇太后様の頭痛がおさまらないと」
「宮女は皆、部屋を留守にしている時間だと思っていたが」
(ああ、それであんな無警戒に話をしていたのか)
たしかに、休憩時間にわざわざ自分の部屋まで戻るものは少ない。
昼寝をするにしても、作業部屋の端に転がればすむことだし、それよりは皆とおしゃべりをしている方がずっと楽しい。
「ちょっと頭が痛くて静かな部屋で横になってただけです。それで、ですね」
いぶかし気な表情を崩さないままの志縁は、それでも翠珠の話を聞いてくれるつもりはあるようだ。
「私の実家は、太国や遼国と取引をしているんです。ひょっとしたら、お探しの薬草、父なら手に入れられるかも――」
「遊睡草だぞ? そんなに簡単に手に入るのか?」
「……さあ。でも、遼国は遊睡草の産地なので、探せば見つからないこともないと思うんですよ」
記憶が戻ってみれば、翠珠というのはなかなかの勉強家だったらしい。自分の家が関わっている商売については、きっちり記憶している。
もちろん、家を出てから三年たっているので、父の商売も方向性が変わっている可能性は否定できないが。
「……父の名は?」
「李元璋と申します」
「ああ……あの、なるほどな」
父の名を口にすれば、志縁は心当たりがあったらしい。父の名前がどういう理由で知られているのかについては、あまり考えない方がよさそうだ。
(やり手というか、時々やり過ぎるしね、お父様は……)
翠珠の後宮入りだって、父があちこち走り回り懇願した結果だと聞いている。いい意味でも悪い意味でも、ある程度父の名は知られているようだ。
「李家の娘が、牡丹宮の針子だとは知らなかった。商家の娘なら、まずは下働きから始めるだろう?」
「刺繍の腕が認められて、二年目に牡丹宮付きになったんです。平民としては、早い出世ですね」
ここは取り繕ってもしかたない。
皇帝の妃として見初められれば一気に出世するが、皇帝が後宮を訪れるのは皇太后との面会の時だけ。今のところ見初められたという話はなく、今出世しようと思ったら容姿ではなく技能を見せるしかない。
「そうか。では、君は俺に何を望む?」
「ですから、私の父に頼めば、遊睡草を入手できるかもしれないじゃないですか。ただ、問題があって」
「問題があるなら、皇太后様にお話しすればいいだろうに」
「私、針子なので皇太后様と直接お話をする機会なんてあるはずないですよ。新しい衣をお見せするのだって、侍女の方々の役目だし」
皇太后の身の回りの世話をする侍女は、見目麗しく身分の高い令嬢で固められている。翠珠などは手を動かすだけで、お褒めの言葉を賜るのも侍女達なのだ。
そのことに不満を覚えたことはないのだが、こういう時はちょっと困る。
「……そうか。馬医師に話をしてもいいだろうに」
「馬医師だって、私の方から話しかけるなんてできませんよ。だから、あそこで考え込んでいたわけで」
馬医師はしばしば牡丹宮を訪れるけれど、皇太后の治療にどの程度の時間がかかるかなんて翠珠に読めるはずもない。
「なるほどな。では、俺から馬医師に話をしよう。いや、皇太后様から直接命令していただいたほうが早いか」
「だ――だめです、そんなのだめですよ!」
慌てて志縁の腕を掴んだので、彼も驚いたようだ。腕に掴まっている翠珠を払うこともせず、じっと見つめ合ってしまう。
「なぜ?」
「私の父は、とってもとってもとーっても! ものすごく!俗物なんです! 皇太后様からの命令なんて聞いたら舞い上がっちゃいますよ。あくまでも内密に、でも、なんとなく身分の高い方のために……みたいな雰囲気が欲しいです」
「俗物か」
志縁の顔に苦笑いが浮かぶ。
「そりゃそうですよ。ごり押しして私を後宮に押し込むくらいですもん。できれば、直接私が父のところに行きたいんですけど……さすがにそれは無理なので」
一度後宮に入ってしまったら、めったなことでは出ることができない。実家との文のやり取りも易夫人を通さねばならない。
できれば、翠珠の書いた手紙を志縁か志縁の信頼できる誰かに持って行ってもらえればいいが、果たしてどうだろう。
「君の言いたいことはわかった。皇太后様の体調も心配だ。俺の方で手を打ってみるから、数日待ってもらえないか」
「はい、よろしくお願いします」
大喜びで、翠珠は志縁に頭を下げる。
とりあえず、思いもよらないところで道が開けた。
首尾よく遊睡草を手にすることができたならば、皇太后に面会することもできるかもしれない。そうしたら、後宮を出たいと直接交渉するのだ。
そのためにも、父には頑張ってもらわなければ。
けれど、物事は翠珠の予想とはまったく逆の方向に走っていくことを、この時点の翠珠はまだ気づいていなかった。