真実
あれから三日が過ぎた。
馬医師も春永も後宮から姿を消した。今は罪人をとらえている牢で、裁きを待つ身となっているそうだ。
春永には本当に気を許していたから、彼女が探していた間者であったと知っても、まだ気持ちの方がついてこない。
――すべて終わった。
そう思っていいのだろうか。
春永が翠珠を殺そうとしたとわかっていても、つい、彼女を探してしまう。ここに来てからの友人も多い方ではなかったから春永がいなくなると薔薇宮そのものがしんとしているように感じられた。
(……親友だと思っていたのに)
この世界は、翠珠が知っている世界とはまったく違う。騙すか騙されるか。それこそ生き馬の目を抜くような苛烈な争いが繰り広げられている。
翠珠は親友だと思っていたけれど、春永の方はここにいた間ずっと翠珠を殺そうと思っていたのだろうか。
はぁっとため息をついたところで、文浩の訪れを告げられた。立ち上がり、翠珠は彼を出迎える。
「気落ちしているみたいだな」
「その表現では、私の気持ちを言い表すにはちょっと足りないですけど。あなたは、落ち着いているんですね」
「まあな」
元の位置に戻ると、彼は行儀悪く翠珠の前に胡坐をかいた。
このところ、彼は政務が終わるとまっすぐこの宮を訪れていた。今日もそうしたようで、彼の衣は堅苦しいもののままだ。
「間者がいるのは想定していたからな。まさか、馬医師と春永だとは思ってもいなかったが。二人とも慧国の者だそうだ」
その国の名に、翠珠はぎゅっと唇を結んだ。それは、この国、崔国に最初に攻め込んできた国の名だ。
慧国の侵略が、この国の崩壊の第一歩になったのは間違いない。たしかに、国内で活動している間者がいるとかいう話を聞いたことはあったような気がするけれど、まさか後宮内にまで入り込んでいるとは思ってもいなかった。
「だけど……春永は、実家の呂家は長い間あの場所で商売をしてましたよね? 長い間この国にいたのに……」
「春永は、あの家の娘では、なかったそうだ。この国の者だという身分を作るために、あの家に養女として入ったらしい」
「馬医師は?」
「彼は、十五の頃、侍医に弟子入りしたそうだ。親の名前は知らない、死に別れたという話だったという」
思わず感嘆の声を漏らしそうになり、慌てて口を閉じる。ずいぶん息の長い話だ。
この国で医師になり、皇族に近づけるまで出世するのも難しい。馬医師は、それをやってのけたのだ。今、彼のことを馬医師と呼ぶのが正しいのかどうかはわからないけれど。
「……あの、春永に会えます? 難しいのは、わかっているんですけど」
春永は、翠珠を殺そうとした罪人だ。彼女に会いたいと願っても、許可が下りるとは思えなかった。
だが、文浩は迷うことなく翠珠の願いを受け入れる。
「二人とも、口を開かないからな。慧国の間者だというのも、周囲から得た情報だ」
春永の実家――ということになっていた――呂家では、慧国と取引があった。家を亡くした娘を養女にして嫁に出してほしいと取引先から頼まれたらしい。
充分な支度金を与えられたからその頼みを聞き入れただけというのが、呂家の者達の証言だった。
そして馬医師の方も。
医術を学びたいという彼に医術の基礎を仕込み、この国の医師に弟子入りさせたのは慧国の医師だったらしい。
その医師が本物の医師かどうかを知る術は、今はないそうだ。
「翠珠も、言いたいことがあるんだろう?」
「……顔を合わせて、何を言いたいのかも本当はよくわかっていないのですけど」
春永が翠珠に近づいたのに、深い意味はなかっただろう――最初のうちは。妃になったからこそ、利用価値が出てきたわけだ。
薔薇宮に移ってから、後を追ってきた裏には、自分の役目を果たすためだったという理由があるのだろうが、それまでの間、数年にわたって育ててきた友情までは嘘だったとは信じられない。
(私……甘いのかもしれない)
文浩が姿を見せては、春永も口を開きにくいだろうと、彼は同席するのはやめた。声の聞こえる範囲にいてくれるから、さほど恐怖は覚えないだろう。
翠珠が向かった牢は、後宮から離れた場所にあった。厳重に警戒されてはいるが、じめじめとしているということはなく、清潔な雰囲気だ。
長く曲がりくねった廊下を歩いているうちに、自分のいる場所がわからなくなってしまう。
翠珠を案内している文浩は、道を完全に覚えているようだった。ひょっとしたら、この迷路のように入り組んだ廊下は、罪人の逃亡を避けるためのものなのかもしれない。
「……行ってこい」
最後の扉を開き、彼は言う。
こわごわと足を踏み入れたら、そこには鉄格子で区切られた牢が並んでいた。そのうちの二つだけが埋まっているようだ。
一人は春永、そして、もう一人は――馬医師だった。
「わざわざ、私を笑いに来たの?」
翠珠が入って来たのに気付いたらしい春永は、格子のところまで近寄ってきた。
侍女としての衣ではなく、囚人の身に付ける粗末な衣をまとっている。ちらり、と隣の牢に目をやったら、馬医師は翠珠に背を向けたところだった。
つい先日まで、彼は親しくしていた相手なのに。
「ううん。そんなことない。ただ――どうして、私を殺そうとしたのかということを聞きたかったの」
「長期計画だったのに、あなたが台無しにしたからよ。内部から、少しずつこの国を壊していく予定だったのに――でもまあいいわ。聞く?」
「――聞かせて。あなた達、慧国から来たの?」
翠珠は鉄格子に近づいた。間近で見てみると、牢の中に捕らえられている春永は、顔色もよく、落ち着き払っているようだった。
「――ええ、まあそうね。私達の役目は、内側からこの国を崩すことだった。役目を果たせば、自由になれるはずだったのよ」
幼い頃、家族を失った春永と馬医師は、ある家に引き取られたらしい。それはこういった工作にかかわる間者を育てる家だったそうだ。
馬医師は医師として皇帝一族と顔を会わせることのできる地位を得て、春永は、後宮の下働きとしていずれ妃となる人間に仕えるべく地位を固めている最中だった。
「最初は、少しずつ毒を盛って皇太后から殺すつもりだった。あとふた月もすれば、病死に見せかけられたでしょうね。」
治療に当たっている医師が毒物を盛っているのだから、難しい話ではなかった。翠珠が、遊眠草を届けさせなければきっと彼らの計画は成功していた。
「遊眠草は入手が難しいのに、見つけ出してくる人間がいるなんて、想像もしていなかったわよね。しかも、私達が警戒していた薬師ではなく商人だもの。李家と聞いて、納得もしたけれど」
まだ、焦る必要はないと一度計画は中断された。
体制を立て直している間に起こったのが、食糧不足だ。翠珠が妃に迎えられたのは、春永達にとっては、都合がよかった。
それまで皇太后の主治医ではあっても、皇帝とは近づく機会のなかった馬医師が、皇帝と海志縁が同一人物であるということに気付いたのだから。