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差し出した手を掴むのは

 水を吸った衣が重くて、思うように動けない。


(もう、だめ――)


 そう思った瞬間、心の中が妙に静かになった。

 なんだ、知っている歴史の通りになっているじゃないか。李翠珠は国が亡びる前に命を落としていた。

 それなら、このままでいいんじゃないの? 心の中のどこかから、そうささやきかけてくる声が聞こえる。

 国が滅びた時翠珠が妃だったというのは、推測でしかない。翠珠がいなくなった後、二人の妃を迎えたのだとしたら。


「三人の妃を娶ったが、愛したのはヒロインだけ」という彼の台詞がきちんと成立する。

 できる限りの手は尽くした。春永が間者だなんて気づいていなかった自分が悪い。

 諦めようとした時、ひとつだけ、未練が残っているのに気付く。

 ――でも、できることなら。許されるなら。

 あの人に、きちんと別れを告げたかった。

 皇帝のくせに偉ぶってなくて、翠珠の言葉にちゃんと耳を傾けてくれて。

 初めての恋だった。最後の恋になればいいと願った。

 もし、もう一度記憶を残したまま生まれ変わることができたなら――その時は、ちゃんと自分の気持ちを告げよう。

 意識を手放そうとしたその時――誰かの手に翠珠の腕が強く引かれる。それと同時に、もう一本の腕が腰に巻き付けられた。


「お前、何沈んでるんだよ! 上がれ!」


 耳になじんだ声がして、水中から押し上げてくれる人がいる。水面から顔が出て、思わずむせる。


「……つ、冷たいですよ! 早く上がってください!」

「お前がそれを言うか!」


 文浩が、翠珠の身体を押し上げている。この冷たい水の中、皇帝自ら飛び込むなんてどうかしている。


「――早く上がれって言ってるだろ!」


 水から上がっても、冷たい風が体温を奪っていくのはかわりがない。歯の根が合わずにがちがちと鳴らしてしまう。

 水の中にいたのは、さほど長い時間ではなかった。だが、冷え切った身体はいうことを聞いてくれなくて、立ち上がることはできない。そのまま、地面に座り込んでしまった。

 そうしながら、視線をうろうろとさせれば、少し離れたところに春永が倒れている。


(……春永? どうして)


 生きているのか、死んでいるのか、ここからではわからない。

 騒ぎがあったからか、あれほどいた白鳥達も皆飛び去ってしまったようだ。池の側にいるのは、三人だけ――いや、もう一人。


「最後の最後で失敗するとは」


 ため息まじりにあらわれたのは、馬医師だった。

 いつもの人当たりのよさはどこにやってしまったのか、腰に剣を帯びた剣呑な雰囲気だ。


「春永は失敗したか……だが、水に落ちて冷えた身体。濡れて重くなった衣――この状況なら、いけるか?」


 馬医師が、そうつぶやく。彼の表情に、背筋が冷えるような気がした。


(……春永は、誰かに頼まれて私を殺そうとしてたってこと……?)


 親友である春永だけをともない、白鳥を見物に訪れた。

 その時、翠珠は誤って池に転落した。春永には翠珠を引き上げることはできないから、助けを呼んで戻った時には翠珠は水に沈んでいた。

 そう告げれば、誰も春永を疑わない。翠珠と春永が親友であったことは皆知っている。


(なんで、どうして)


 頭の中はその言葉でいっぱいだ。座り込んだまま立ち上がれない翠珠を引きずるようにして、庭石の陰に放り込んだ。


「お前は下がってろ。俺が相手をする」


 いつの間にか、寒さも気にならなくなっていた。今、目の前で起こっていることが事実だなんて信じられない。


「……来い」


 剣を構えた文浩が、ぎゅっと唇を引き結ぶ。


「まずは、知恵者の妃から消す予定だったが。春永が失敗したのならあとはない。このまま、二人とも死んでもらうのが一番早そうだな」


 唇の片端を吊り上げた馬医師が振り下ろす剣を、文浩は受け止める。だが、その動きは翠珠の目から見ても緩慢で、受け止めるだけでやっとのように見える。

 以前も、彼が襲ってきた相手と剣を打ち合わせるのを見たことがある。だが、その時の動きとはまったく異なっていた。


(冷えた身体、濡れて重くなった衣――)


 馬医師が言っていたことが、ようやく理解できた。文浩は、いつもと同じ動きはできない。体中に重りをつけているのと同じこと。


(……神様、お願い)


 自然と両手を組み合わせ、祈る姿勢になっていた。

 何に祈っているのか、翠珠自身にもわからない。目を見開き、勝敗の行方を見逃さないようにしながら、ただひたすらに祈り続ける。


「大丈夫だ、俺に任せろ」


 上段から勢いよくたたきつけられた剣を防いでおいて、文浩はそう言う。まるで翠珠の心の声が聞こえているように。


「――何が任せろ、だ! 立っているのもやっとのくせに!」


 馬医師が血相を変えた。

 これが最後と言わんばかりに、繰り出す攻撃が鋭さを増す。任せろと言ったくせに、文浩は撃ち込まれる剣を受け止めるのがやっとのようだ。

 大きく払われた剣の力に負けたのか、彼は大きくよろめいた。


「――そこか!」


 馬医師が、強く踏み込む。その先に待ち受けているであろう光景を想像し、翠珠はぎゅっと目を閉じた。

 今の今まで、防戦一方に見えていた――なのに、勝負がつくのは一瞬。

 鋭い音がして、目を見開くと、馬医師の剣が宙を舞うところだった。


「予備はいつも持っているんだよ。こういう風にも使える」


 どこに隠していたのか、文浩の左手には短い剣があった。

 その剣が、深々と馬医師の脇腹を切り裂いている。信じられないように目を丸くした馬医師は、ひとつ息を吐いた。

 それから膝をつき、どっと地面に倒れこむ。

 そのひとつひとつが、妙にゆっくりと見えた。踏み荒らされた雪の上に、赤い染みが広がっていく。言葉もなく、翠珠はその光景を見つめていた。


「陛下! ご無事ですか!」


 この時になって、わらわらと兵士達が駆けつけてくる。

 この時になってやっと、だ。彼らは、目の前の光景が信じられない様子で、一瞬動きを止める。


「――捕縛しろ」


 血に濡れた刃を拭いながら、文浩が命じる。倒れた二人が連行されていくのを、翠珠は茫然と見ていた。


「お前達、遅いぞ。あとで訓練のやり直しだ」

「――はっ」


 文浩が命じるのに、申し訳なさそうに兵士達は一礼する。


「話はあとだ。湯殿の用意をさせているから、お前はさっさと温まれ。このままだと風邪をひくぞ」


 宮中一の名医が、いなくなった今、風邪ひとつでも大ごとになる。まさか、馬医師が、翠珠や文浩を殺しにかかるとは思わなかった。


「……来てくださって、ありがとうございました」


 翠珠の手を引く文浩の手も冷たくなっている。

 水に飛び込み、翠珠を助けてくれたその直後の戦闘だ。彼が、大怪我を負わなくてよかった。


「お前が宮から出たら、すぐに報告するように命じてあったからな。嫌な予感がしたんだ――間者が、宮中にいることも想定していたから」


 その想定は正しかった。正しかったからこそ、翠珠はこうして無事でいられる。


「まさか、あの二人が間者だとは思ってもいませんでしたけどね」

「それは、俺も同じだ――俺もまだまだだ、ということだな」


 話さなければならないことはたくさんあるのだろうけれど、今は、命が助かったことを喜びたい。


(……これからのことは、また落ち着いてから考えよう)


 そう思ったら、急に寒さが増したような気がする。身体に張り付いている濡れた衣を早く脱ぎたい。


「あとで、薔薇宮まで来てくださいます?」

「着替えたらすぐに行く」


 翠珠と同じように濡れているはずなのに、彼はどうしてなんともないのだろう。ひょっとしたら、鍛え方が違うのかもしれない。

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