白鳥のいる湖にて
窓から外を見上げて、翠珠はぶるりと身を震わせる。側にいる春永は、火鉢で沸かした湯でお茶の用意をしていた。
「だいぶ雪が積もったわねぇ」
「この雪は、当分とけないんじゃないかしら。でも、散歩用の道は雪かきしてあるって。散歩に出る?」
「やあよ、寒いじゃない」
室内は火鉢をいくつも置いてぽかぽかとさせているが、外の空気は冷たい。こんな中、散歩に出るなんて、考えられない。
火鉢の側に張り付いて、翠珠は背中を丸めてお茶を飲む。年よりじみた仕草ではあるけれど、寒さには勝てないのだからしかたない。
「残念。南の池に、白鳥の大群が来ているのに」
しっかり自分の分もお茶を用意した春永は、翠珠と向かい合う位置に座る。窓の向こうは、一面の雪景色だ。気になるのか、春永はちらちらとそちらに目を向ける。
「白鳥? 白鳥が来ているの?」
「庭師達が餌をやっているから、ずいぶん懐いているのですって」
白鳥と聞いて、ちょっとだけ心が揺れる。
動物園に行く機会などなかったから、前世でも大群の白鳥は見たことがなかった。餌をもらって懐いているというのなら、見に行ってもいいかもしれない。
「でも、誰から聞いたの? 春永も、外には行っていないでしょう」
うふふ、と意味ありげに春永は微笑む。その笑みだけでわかってしまった。
(……なるほどね)
以前から想いを寄せていた馬医師と春永の仲は良好のようで、春永の口から彼について出てくることが増えた。
基本的に後宮には男性の立ち入りは禁止だが、医師と護衛はその例外だ。一番奥まった場所までは入ることはできないが、立ち入りが許されている場所もある。
頭痛がするとでも言って、薬をもらいに行くという口実で会いに行くことは可能だ。
本来ならとがめなければならないのだろうけれど、まあいいかですませてしまうのは翠珠の甘さだ。春永もそれをわかってやっている。
「……なるほどね」
にやにやしてみせたら、恥ずかしかったようで春永は顔を覆ってしまった。耳まで赤くなっている。
「……陛下はご存じなのかしら」
「どうかしら。ご存じないかも」
「あとで誘ってみようかなぁ」
「下見した方がいいんじゃない? 思っていたよりしょぼいかもってちょっと心配ではあるのよね」
皇宮の庭なのに、しょぼいという言い方でいいのだろうか。首を傾げたけれど、"皇宮としてはしょぼい"という可能性もあるかなとすぐに考え直す。
「それに、私が見たいの!」
重ねてそう説得され、最終的に折れたのは翠珠の方だった。
温めた石に布を巻いたものを懐炉代わりに懐に入れ、毛皮で縁取りをした外套を羽織って、庭に出る。散歩用の小道は綺麗に雪かきがされていた。
「こういう景色って……すごい新鮮ね……」
いつもは緑や色とりどりの花が咲いている庭園は、今は白一色に塗りつぶされている。雪の上を歩く者もいないから、足跡さえない。
出てくるまではしぶしぶだったのに、歩き始めてみると意外と楽しくなってくる。
(……ちょっと足跡をつけたい誘惑にかられるかも)
誰も足を踏み入れていない場所に、そっと足を置いてみる。柔らかな雪はさくっと沈んで、あっという間にくるぶしの半ばまで雪に埋もれた。
「わ、冷たい! 冷たい!」
まさかそこまで一気に沈み込むとは思っていなかった。慌てて足を引き抜けば、春永がしらっとした目でこちらを見ている。
先ほどまで外に出るのは嫌だとごねていたのに――と、彼女の顔に書かれていた。
(出てみたら意外と楽しかったんだから、いいじゃない)
気づいていないふりで、足を抜く。衣の裾が濡れていた。
今朝までは雪が降り続いていたが、今は雲も晴れて青い空が見えている。こうやって出てきてよかったかもしれない。次はいつ出かけられるかわからないし。
雪のせいで衣が濡れてしまったのも、むしろ楽しいくらいだ。冷たい風が頬を刺すのも、気持ちいい。
「やっぱり冷えて来たかも」
「池の側に、お茶の用意をしてあるわ。寒さに耐えられないようなら、ここから引き返してもいいけど。白鳥の餌も置いてもらってあるわよ」
さすが春永。お茶の用意がしてあるということは、お菓子の用意もしてあるということだ。白鳥に餌をやりながら、甘いお菓子を食べるのもきっと楽しい。
引き返す代わりに、足を速める。
「……すごい!」
池の側に到着して、翠珠は声を上げた。数えきれないほどの白鳥が池にいる。白鳥達の鳴き声がして、餌をねだるように長い首を揺らしていた。
「誰もいないのね」
「皆、仕事が終わって休憩中。それに、邪魔をしないようにって人払いもしてあるし」
このところ、多数の人に囲まれてうんざりしていたのを春永はしっかり見抜いていたらしい。なんでも春永に任せきりなのはあまりよくないけれど、側にいてくれて助かっているのも事実だった。
「餌やりたい! ねえ、春永。餌もあるって言ったなかった?」
「お願いはしたけれど、どこかしら」
四阿には火鉢が用意され、白鳥を見ながら暖を取ることができるようになっている。その側の卓には、お菓子やお茶の用意がされていた。
卓上に置かれていた箱を取り上げた春永は、それを持って戻ってくる。
「餌、あったわよ――ねえ、どうして不作になるってわかったの?」
「皆の噂からなんとなく……?」
そんな前のことを、なぜ今になって口にするのだろう。疑問を覚えながらも、素直に返した。
「病が毒物だって、なんでわかったの?」
「それは……地図を見ていたから。病気の発生した地域が限られているのがおかしいと思ったのよね」
「……へえ」
春永の差し出した箱から、翠珠は白鳥の餌を取り上げる。それを池に向かって大きく放った。
鳴き声を上げながら、白鳥が集まってきて翠珠の放り投げた餌に食らいつく。もう一度、餌を投げようと箱に手を入れた時だった。
「それだけで気づいたのだとしたら、あなたは優れた洞察力の持ち主ね。妃に選ばれたのも、皇帝があなたを頼りにするのも納得だわ」
春永の声が、急に低くなる。翠珠は、背中が冷えるような気がした。
春永が、急に別人になったようだ。
「でも、あなたのせいで私達の計画は全部つぶされてしまったの……あなたがこのままここにいたら、次の計画も邪魔されるかもしれない。これ以上の失敗は、許されないのよね」
「――え?」
春永が、何を言っているのかわからない。聞き返そうとした時、餌の箱がぐいと手元に押し付けられた。
その箱を受け取ろうかどうしようかと迷い――次の瞬間、どんと強い力で思いきり押される。
何が起きているのか理解できないうちに、身体が水の中に沈み込んだ。
冷たい水が肌を刺す。胸が痛くて、呼吸ができない。
伸ばした手が岩を掴むけれど、力が入らなくてつるりと滑った。
必死に翠珠はあがき、水の上にようやく頭を出すことができた。
「……しぶといわね」
こちらを見下ろす春永の目は冷たい。あっという間に身体が冷えてきて、歯の根が合わなくなった。
体中が痛い。どんどん体温が奪われていく。
「……し、し、しぶとい、って」
「とりあえず、今私がやらないといけないのは、あなたを始末すること。だから、早く死んでちょうだい」
必死に岩にしがみつくけれど、身体はどんどん冷えてくる。岸から翠珠を見下ろしている春永は、脚を上げて翠珠の頭を蹴りつけた。
その蹴りにたいした力が入っているわけではなかったけれど、手が岩から離れる。また、頭が水の中に沈み込んだ。