ひと時の休息
人の心というものは、本当に変わりやすいものだということを翠珠はしみじみと実感していた。
薔薇宮に移った当初は、翠珠のことを平民上がりと馬鹿にする者も多かった。
父のことも成り上がりと馬鹿にしていたのに、今では父や翠珠に近づこうとする者があまりにも多い。
薔薇宮に戻って十日ほどが過ぎた。文浩との想いも改めて伝えあい、これからは、穏やかに暮らしていけるものだと安心していたのだが。
あまりにも翠珠は甘かったようだ。今現在唯一の妃。皇帝の寵愛を一身に受ける者。その立場が意味することをまったく考えていなかった。
(薔薇宮って、もっと静かな場所だと思っていたんだけど……!)
翠珠が辟易してしまうのも当然で、面会を求める者がひっきりなしにやってくる。
当然本人がいきなり訪れるわけもなく使者がやってくるのだが、その対応だけで面倒だ。
薔薇宮に入った当時、侍女達でさえここにいるのを嫌がっていた頃とは雲泥の差だ。しかも皆、単なる使いだというのに毎回何かしら贈り物を持ってくる。
薔薇宮に帰還した時、部屋に積み上げられていた箱の中身もそうだったのだが、キラキラと――というよりギラギラと輝く黄金に貴重な宝石をあしらった装身具が大半だ。
大商人の娘ではあっても、今まで自分が身に付けるためにそんな品を手にしたことがあるはずもない。
送り主には侍女に令状をしたためてもらい、適当な返礼の品を選んでもらって送り返すだけで大騒ぎだった。
「お前と親しくなっておけば、今後の出世にもかかわってくると思っているのだろうな」
「それって、あなたがここにいるからだと思いますよ?」
翠珠が後宮に戻って以来、文浩は毎日のようにこうして薔薇宮を訪れる。
今日は、急ぎの用はないと、夕食よりだいぶ前にやってきた。当たり前のように翠珠が手紙を書いている部屋に入ってきて、床にだらりと寝そべっている。ここでは完全にくつろぐことにしているようだ。
土産物だと春永に菓子を渡すあたり、文浩も心得ている。
春永は侍女頭であるのと同時に、友人でもある。おそらく、皇太后にとっての易夫人のような存在になるのを期待しているのだろう。
翠珠も、彼が来てくれるのは嫌ではないから、彼の好物を厨房に注文して、いつ来てもいいように備えている。やっぱり、すっかり変わってしまったんだろう。
現在一人しかいない妃ところにせっせと皇帝が通っていれば、皆いろいろと期待するのも当然だ。
もっとも、文浩はここに来ても話をするだけ。一緒の寝台を使ってはいても、今のところ本当の意味での夫婦ではない。
翠珠の準備ができるのを待ってくれてはいるのだろうが、それでいいのかとこのところ悩み始めているのも本当のことだった。
「俺は、他の妃は必要ないと思っている。翠珠がいてくれればそれでいい」
「……それは、どうかと思うのですが」
彼をとがめているくせに声が小さいのは、翠珠もそうあってほしいと願ってしまっているから。
いずれ、翠珠の他に二人の妃を迎えることになっていると知っているのに、そうならなければいいと願ってしまう。
(ここまで歴史が変わったのだから……そう思うのは間違ってる? この人の唯一でいたいって、そう思ってしまうのは)
翠珠が行動したことによって、歴史とは大きく変化している。ここまで変わったのだから、少しばかり期待してしまってもいいだろうか。
自分だけが、彼の側にいてもいいのだ、と。
そう思っているくせに、口からは正反対の言葉が出てくる。本当に、何をやっているのだろう。面白くなさそうに、文浩はむくれた顔になった。
「他に妃がいた方がいいか?」
「だから、それは私の口からは言えませんってば……!」
もう少しだけ、このまま二人でいたいと口にするのは立場上許されない。だから、今みたいに少しずれた回答を返す。
それでも、彼は翠珠の気持ちをちゃんとくみ取ってくれる。
(私は、ずるいんだわ……)
自分の心の弱さが嫌になる。そこから目を背けるように翠珠は話題を変えた。
「後始末は、もう終わったんですか?」
「……箱そのものに特色があるわけではない。底に重い金属を仕込むのだって、簡単なことだ。毒物が、どこの国のものなのかわかればいいんだが、わかるはずもない。そんなわけで、終わりは見えていないな」
「ですよねぇ……」
「慧国が一番怪しいとはいえ、犯人を捕らえたわけではない。証拠がなければ動きようもないしな」
「では、違う面から攻めるしかないですね……急がないと」
翠珠の知る歴史では、春になったらまず慧国がこの国に攻め込んでくる。
ゲームの中の世界とは違い、民が飢えているわけでもないし、病の蔓延によって人心が皇帝から離れているわけでもない。
今、この国に攻め込んだところで、簡単に都を落とすことはできないだろう。戦を思いとどまるという可能性も否定はできない。
「もう井戸に毒物を投げ入れるという手も使えないからな。万が一、毒物が入ったとしても、前とは違って治療ができる」
経口補水液の作り方は、医師達の間に広まっている。"悪霊"を体内に入れないようにするための手段も。
各都市の兵士達に、井戸の見回りを重点的にさせているということもあり、あれ以来、都での病と同じような病は報告されていない。
万が一、同じようなことがあれば、経口補水液で体内の塩分や水分が失われるのを防ぎつつ、医師達の手によって適切な治療が行われることになるだろう。
「……そううまくいけばいいんですけど」
「翠珠は心配性だな」
「だって、何が起こるかわかりませんからね」
ここまで大きく歴史が変わってしまったのだ。翠珠に予想できる範囲を大いに超えている。
「心配するな。俺だって、ちゃんと手は打っている」
「……それなら、いいんですけど」
妃ではあるが、翠珠の実家は貴族ではない。貴族出身の娘なら、こういう時もっと具体的な助言ができるのだろうけれどそれは翠珠の手には負えない。
手に負えないことには最初から関わらない方がいいと思うので、そこで話を打ち切る。
こちらに戻ってきてから毎晩そうしているように、文浩は翠珠に手を伸ばす。
すっぽりと彼の腕の中に包まれていると、こういった心配が無駄なように思えてくるから不思議なものだ。
「……非常に申し訳ないのですが」
この部屋の穏やかな空気を破るのが申し訳なく、恐る恐るといった様子で、扉の外から春永が声をかけてくる。
「何か問題が発生したようで、大臣達が集まっています。陛下もお戻りください」
「わかった。すぐに行く」
今の今までにこにことしていたのが嘘のように、表情を切り替えた文浩が立ち上がる。翠珠も慌てて後を追い、彼を見送った。
二人きりになったとたん、春永は遠慮のない口調になる。これもまたいつものことだ。
「もうちょっと、気をつけた方がいい。あなたの影響力は大きすぎる」
「……そう?」
「陛下が翠珠をご寵愛するのも、翠珠のやったことや口にしたことがいい方に向いているからでしょう。今後も続くようなら、翠珠を追い落とそうとする者が増えてもおかしくはない」
「それは、大丈夫でしょう。だって、私の知ってることは全部お話をしてしまったから……うん、政にこれ以上影響することはないと思う」
「それならいいんだけど」
たしかにこれ以上出しゃばったら、後宮の中で事件が発生することになるかもしれない。できる限りのことはしたのだし、翠珠の知らない新たな事件が起こっても困る。
今後はおとなしくしておこう。そう決めた。