今の空気を壊したくない
春永にも部屋に戻ってもらって一人になる。夕食までの時間は、少し休むつもりだった。
寝台にごろんと横になって天井を見上げたら、急にあたりの静けさが気になり始める。
(私は、たいしたことはしてないつもりだったんだけど……世間の人の見方は全然違うんだ)
今まで翠珠がしてきたことは、すべて前世の知識を応用したものだ。
病に関しては、結局毒物だったのだからうがい手洗いの徹底や、消毒なんかはあまり役に立たなかったかもしれない。
医師達の中には、今でも口元を覆ったり酒を消毒に使ったりしている者もいるらしい。この国の医術の水準が、これからは変わっていくかもしれない。
――そこに、翠珠が力を貸すことはできないけれど。
いや、父に頼んで、珍しい薬草の入手くらいなら手伝えるだろうか。父の商売も以前よりだいぶ手広くなっているようだし。
「――まさか、私がお妃様だなんてね」
寝衣には着替えていないのに、行儀悪く布団を手元に引き寄せた。顔をうめると、ふわりといい香りが鼻をくすぐる。どうやら、香を焚き締めてくれたようだ。
翠珠が手を出したことにより、歴史は変わってしまった。
この国の滅亡は、防げたのだろうか。今となっては、自分一人逃げ出すなんてできそうもない。これから先、翠珠には何ができるのだろう。
「着替えもせずに寝台に転がるとは、ずいぶん行儀悪いんじゃないか?」
「わわ、来るなら来るで先ぶれくらい出してくださいよ! そうしたら……」
そうしたら――の次は何を言いたかったのだろう。自分でもわからず、翠珠の言葉は不自然に途切れた。
政務の場から、そのままここに来たのだろうか。文浩は、堅苦しい身なりのまま、寝室の入り口のところに立っている。
「先ぶれを出したところで、たいして変わらないだろ」
「そんなことはありません!」
慌てて身を起こし、乱れた服装ではないかとあちこち引っ張ってみる。
翠珠の様子がおかしかったのか、入り口のところにもたれるようにして立ったままの文浩は小さく笑った。
「久しぶりに来てみればこれだからな。緊張感がないというかなんと言うか。翠珠らしい」
「緊張って、ここに戻って来たんだから……」
そこまで言って、あれ? と首をかしげる。
思えば、李家の別邸にいた時の方が緊張していたようだ。
たくさんの人に囲まれていて、みっともないところを見せてはいけないと思っていたからかもしれない。後宮に入る前、幾度となくあの屋敷を訪れたはずなのに、自分の家のようには思えなかった。
(……ここの方が落ち着くだなんて、変な話)
寝台から下り、立ち上がろうとしたら文浩はそれを手で制した。そうしておいて、ゆったりとこちらに歩み寄ってくる。
「――近いですよ!」
寝台に並んで腰を下ろされて、翠珠は思わず声を上げた。
思えば、彼と顔を合わせたのは、毒物が井戸から発見されたと知らせに来てくれたあの日が最後。あれから文のやり取りはしていたけれど、翠珠の言葉に従って別邸を訪れることはなかった。
(前から、こんなに近かった……?)
座っている距離がとても近い。相手の体温を感じ取ることができるほどだ。
塀の上と窓辺。届かないとわかっていても手を差し出さずにはいられなかったあの日のことを思い出す。
じわりじわりと耳が熱くなってきて、そっと胸に手を当てる。そこはいつもよりせわしない鼓動を刻んでいた。
あれから、何度も愛してるの言葉が耳の奥によみがえって、その度に胸をドキドキさせていた。ひと月近くそんな上体だったものだから、いざ、本人を目の前にしたら何を言えばいいのかわからない。
二人の距離が以前より格段に縮まっているのだけは、確実に理解した。それが嫌ではないことも。
「やっと戻って来た」
翠珠の肩に手がかかって、文浩の方に引き寄せられる。
この人の手はこんなに大きかっただろうかと、改めて感じる。ぴたりと密着をしたせいか、ますます体温が身近に感じられた。
彼の肩に頭を預けてみると、肩にかかる手にますます力がこめられた。
「犯人は見つかったんですか?」
「口を開いたかと思えば、真っ先にそれか。残念ながら、まだ見つかってはいない」
頭を彼の肩に乗せたまま問うと、上から渋い声が降ってきた。
たしかにひと月ぶりの再会なのに、ずいぶん色気のない話題を持ち出してしまったかもしれない。
「調査は進めているけどな。あれだけ広範囲の井戸に毒物を投下していたとなると、大掛かりな組織が動いていたんだろう。国でも驚かないな」
自分にできることはないかと口を開こうとしたら、人差し指でそれを封じられた。
「……翠珠は、何もしなくていい。下手に動けば、身に危険が及ぶ。今回の件、お前の名前が思っていた以上に広まっているんだ」
「なんで? 私、そんなにたいしたことしてないのに」
「いくら豪商とはいえ、宮に入って妃になった。それだけである程度は知られている――翠珠の名までは知られていなくとも、父親の名前はよく知られているぞ」
平民として宮に入り、破格の出世をした。
そして今、妃と呼ばれるの存在は翠珠だけ。その翠珠が実家の別邸に患者を集め、皇宮医師達が治療にあたったという話が、李家の屋敷で治療を受けた者どんどん広まったらしい。
それだけではなく、いつの間にか毒物の存在を察知したのも翠珠だという噂が広まっているのだそうだ。
「翠珠に近づきたいという貴族がずいぶん増えただろう。俺の寵愛を一身に受けている、となればいろいろと利用しやすいと思う人間も出てくるはずだ」
「それで侍女が増えたんですね」
「侍女としての役も果たしてもらうが、彼女達は護衛だ。信頼できる者達だから、その点については安心していい」
今までも、この宮の警護はされていたけれど、さすがに男性の兵士は室内までは入ってこられない。そのため、皇太后の警護にあたっていた侍女から何人かこちらに回してきたそうだ。
以前なら外からの警護だけで十分だったのが、これからは内部からも警護しなければならないということか。
「慧国は、関係していますか?」
「なんで、慧国が出てくる?」
「なんとなく、ですけど。勘というか」
「勘ってそんな情報では動けないぞ」
翠珠の髪をなでながら彼は言う。
ゲームの中では、慧国はこの国に間者を送り込んでいたけれど、たしかにそれを裏付ける証拠はない。今回、毒物を混入したのが彼らだという証拠もないのだ。
「それより、こうして戻って来たんだ。もっと他に話すことがあるんじゃないか?」
もう片方の手が回されて、ぎゅっと強く抱きしめられる。
互いの鼓動がまざりあって、別邸での疲れがすっととけていくようだ。ぎこちなく翠珠の方からも腕を回し返す。
届かないとわかっていて、手を伸ばしたあの日とは違う。翠珠が望めば、彼との距離をもっと詰めることだってできる
「何が聞きたいですか?」
「何から話そうか?」
二人同時に口を開いて、至近距離で見つめ合う。二人の間にある空気が、今、この瞬間確実に変化した。
顎に手がかけられ、顔が固定される。どきん、と鼓動がまた跳ねる。
今は、この空気を壊したくない。
そっと触れ合わされる唇を、翠珠は目を閉じて受け入れた。




