薔薇宮の変化
季節が冬に移ろうとしている頃、ようやく翠珠は薔薇宮に戻ることとなった。
ここまで時間がかかったのは、毒物の影響を受けた者達の治療を完全に終え、屋敷を父に返すまではきちんと見届けたかったからである。
全ての井戸の底をさらい、綺麗にしたあとは新しい患者の発生は確認されなかった。ようやく一安心である。
薔薇宮に戻ると、真っ先に出迎えたのは、ここにとどまっていた春永だった。両手を合わせ、頭を垂れる。
「――お帰りなさいませ、翠珠様」
「ただいま――って、ずいぶん変わってない?」
薔薇宮はすっかり様変わりしていた。春永の後ろに多数の侍女が控えている。
彼女達は、おそらく貴族の娘だろう。春永と同じお仕着せの衣を身に付けていても、着こなしがまるで違う。
(……なんで、こんなにたくさんの人がいるのよ)
多数の人に囲まれるのには慣れていない。頭を下げている彼女達を見ながら、小さく嘆息した。
戻ってきたら、春永と二人のんびりと過ごすつもりだった。なんで、こんなに人が増えているのかまったく理解できない。
「戻って来たばかりで疲れているの。春永以外は、下がって――呼ぶまでは自由にしていいわ」
「かしこまりました」
一糸乱れぬ動きでもう一度美しいお辞儀を披露し、侍女達はするすると下がっていく。
(……調度品もずいぶん変わっている気がする)
妃の住まいである以上、以前から上質な品々が置かれていた。長年使われてきた家具はそのままだが、壁掛けや窓にかけられる日よけ布などは真新しいものに変えられている。いずれも精緻な刺繍が施されていたり、複雑な文様が織り込まれていたりと手のかかった品だった。
(まさか、部屋まで変えられているんじゃないでしょうね……!)
自室は、翠珠の持ち込んだ品が多数置かれている。それまで勝手に変えられていてはたまったものではない。
小走りに自室に戻れば、そこに置かれている家具は、出発した時と何一つ変わっていなかった。だが、多数の箱が積み上げられている。
「ねえ、何があったの? ……あの人達に給仕してもらうとか、着替えを手伝ってもらうとか、私緊張でお腹痛くなりそうなんだけど!」
他に人の目がないのをいいことに、翠珠は春永に泣きついた。
春永は庶民の出である翠珠のことをよく理解していて、余計な手出しはせず、着替えなど自分でやりたいと思うことは翠珠の好きにさせてくれた。
だが、春永の後ろにずらりと並んでいた彼女達は違うだろう。皇太后のところで、皇帝の妃候補としてお仕えしていてもおかしくはないような美貌の持ち主ばかりだった。
頭を下げ、立ち去るというその仕草だけで、非常に高い教育を受けてきたのだと知らしめる。
彼女達が侍女としてここに来ている以上、今までとは同じように振る舞えないのではないだろうか。
「……それは、翠珠に近づきたいって人が増えたからよ」
二人きりなのをいいことに、春永もまた翠珠に対する対応を侍女から友へと変化させる。その変化が、翠珠にはありがたかった。ここでは、信頼できる人の数は非常に少ないから。
「私に近づきたいって……?」
「皇太后様の頭痛をとめたのはあなたでしょ。飢饉への備えも、あなたが手配したものだった。米を寄付したのはお父様だったけれど、あなたがそうするように言ったのよね。私に、米を買い取れるかって聞いてきたんだもの」
「……それは、そうだけど」
米を隣国から輸入しようと思いついた時、もし、飢饉が起こらなかったらどうすればよいだろうと考えた。米をそのまま売るのでは、この国の人達の消費を促すことはできない。
そこで、酒を作っている春永の実家に買い取ってもらえないかと聞いたことがある。それは受け入れてはもらえず、李家からの依頼で材料を預かっての酒造りならやってもいいという返事をもらったのだった。
「そして、今回の事件――毒物の発見につながったのは、あなたの発言だって皆知ってる。屋敷を解放して、病人達の治療にあたったのも献身的だって。さすが皇帝の選んだ妃だって、あなたの評判急上昇しているのよ」
「それは……放っておけなかったから、で」
もごもごとつぶやいたのは、自分の行動がそう受け止められるとはまったく思っていなかったからだ。
少し、早まった行動ではないかと、翠珠としては反省していたところだったのだ。
「……でも、貴族達もあなたに感謝しているのよ。だって、あのまま原因が解明されなかったら、暴動が起こっていた可能性だってあるわけだし……」
翠珠が屋敷を解放し、早めに病人を受け入れたことで、民の不満はある程度解消された。
そして、原因が解明されたところでその不満は犯人へと向けられることになったのである。国内が乱れる原因の一つを、翠珠が解消したことになる。
「それで、あなたと接近しておいた方がいいって判断した人達が、ここに移ってきたというわけ」
「……変なの」
翠珠は以前からなに一つ変わっていない。たまたま翠珠のとった行動が、たまたまいい方向に回っただけで。
きっと、彼女達は翠珠が何か失態を犯せばすぐに引き上げていくのだろう。
「……変なの」
行儀悪く寝台に倒れこんだ翠珠にはかまわらず、春永はてきぱきと室内を動き回る。お茶のいい香りが室内に漂い始めた。
「……そんなことより、お菓子食べましょうよ、お菓子。さっき厨房からいただいてきたの」
「春永が、全然変わらないのがありがたいわ……!」
いそいそと卓に座りなおして、翠珠は嘆息した。
同じ後宮の針子仲間だったのに、翠珠だけ妃になってしまった。普通なら、翠珠への接し方が変わりそうなものなのに、春永はなに一つ変わらない。
今もちゃっかり自分の分もお茶をいれ、翠珠より先に焼き菓子を口に放り込んでいる。
本来なら誉められたことではないのだろうけれど、自室でくらいは気を抜きたいのだ。春永の前だけでは、自分が妃になったことを忘れられる。
「外に出た時とか、他の人が一緒にいる時はちゃんと改めた方がいいと思うんだけど。今だって翠珠が人払いしてなかったら、こんな風にお菓子ばりばり食べていないと思う」
春永はもう一つ焼き菓子を取り上げ、それもまた、あっという間に口内に消えた。こくんと呑み込んでから満面の笑みになる。
「でも、おかげで私も大出世。侍女頭よ、侍女頭」
「本当に?」
「ええ、だって、他の侍女は翠珠のことよく知らないものね。そうするようにって陛下が命じてくださったの」
ふむ、と翠珠は考え込んだ。
翠珠に近づこうとする者が増えた今、悪意を持って春永に接する者も出てくるかもしれない。筆頭侍女という立場に据えたのは、彼女を守るための措置だ。
「ここまで来たら、次は縁談よね、縁談。今ならいけそうな気がするのよ……!」
春永はぐっと拳を握りしめる。
以前だったら、身分違いと一蹴されたかもしれない。
平民出身である翠珠の侍女頭とはいえ、侍女頭となれば破格の出世だ。以前から馬医師に想いを寄せていた春永も、その想いを叶えることができるかもしれない。
「私にできることがあったら、なんでも言って」
「明日、侍医の診察を受けることになっているでしょう。馬医師を指名してくれる?」
「そのくらいなら、お安い御用よ」
馬医師とは、李家の屋敷で共に病と闘った相手でもある。彼が診察してくれるのなら、他の医師に任せるより翠珠も気が楽だ。