戻るまであと少し
翠珠の顔を見、直接話をした文浩の動きは素早かった。翠珠の表情を見たことで、事態が切迫しているとより確実に理解したのかもしれない。
「だから、どうして自らここにいらっしゃるんですか! しかも、なんで中まで入り込んでいるんですか!」
屋敷の前庭で、翠珠は叫んだ。翠珠は腰に両手を当てているが、目の前にいる相手はけろりとしたものだ。
先日は翠珠の部屋の外から声をかけるだけで気がすんだのに、今日はずかずかと中庭にまで入り込んでいる。
誰も止めようとは思わなかったのだろうか。切実に止めてほしかった。
今日は、皇帝としての衣に身を包んだ文浩は、供の者を二人連れている。
患者を多数収用している屋敷への訪問とあって、供の方はびくびくとしている。彼らの反応の方が正常だ。
だが、供を背後に従えた文浩の方は涼しい顔。ここが、皇宮の自室と思っているような落ち着きぶりだ。
「毒物を見つけた」
いや、落ち着いているというよりは――勝利を収めたと言いたいのだろうか。翠珠に向かって、得意げに口の端を片方だけ上げてみせた。
「悪霊の仕業じゃないなら、うつる心配もないだろう。だから、ここに来た」
「……本当、に……?」
うつる心配が皆無というわけではないのだが――だが、このあたりが限界なのかもしれない。翠珠はため息をついた。
彼がこうすると決めたなら、とめることはできない。何しろ、彼はこの国の皇帝だ。
「俺よりよほど密接に患者に関わっている医師が大丈夫なのだから、問題はない」
問題はそこではないのだが。だが、今この場でそれを理解させるのは無理そうだ。半ば諦めの気持ちで、翠珠は池の端にある四阿を指さした。
屋敷の中に入れるわけにもいかないが、あそこなら椅子も用意されている。
「――あちらに、いらっしゃいませんか。どなたかお医者様に同席してもらいましょう。これからの治療方針を決めるのに役立つでしょうし」
「では、私が」
馬医師が、こちらに歩み寄ってくる。それをきっかけにしたかのように、皆、自分の仕事へと戻っていた。
四阿に入るなり、文浩は椅子を引いて座った。座るよう合図され、向かい側に腰を下ろした翠珠の後ろに馬医師が立つ。文浩は馬医師にも座るように命じ、彼がそうするのを待ってから懐に手をやった。
「井戸から、こんなものが出てきた」
「無造作にそんなところから出さないでくださいよ!」
翠珠は目をむいた。
証拠を見せてくれるとは思っていたが、まさか懐から出てくるとは思わなかった。肌に触れたりして問題はないのだろうか。
「落としたら困るだろ? 同じものが、あちこちから発見されたぞ」
懐から取り出した布包みを開けば、中に入っていたのは小さな木箱だった。箱には、小さな穴が開けられている。
「持っても大丈夫ですか?」
「綺麗に洗浄してあるから問題ない」
洗浄してあるのならば大丈夫だろうけれど、素手で触れるのはちょっと怖い。手巾を取り出し、それを使って取り上げる。
「……重いですね」
「そこの部分に鉛が張られていた。水中に沈めるためだろう。箱の中に、毒物が入っていた。穴から少しずつ、毒物が溶け出していたのだろうな」
箱の蓋を開いて中を見てみれば空だった。文浩が合図すると、青白い顔のままの供が、卓上に箱を置く。
その中から布包みを取り上げれば、中には同じような箱があった。その箱の中には、半分とけた塩のような物体が残されている。
「これが毒物だな――元は、この箱一杯の大きさがあったのではないかというのが調査にあたったものの推測だ」
その説明を聞きながら、翠珠は箱を観察する。
木箱に穴をあけ、そこから少しずつ溶け出すようにすれば、長期間にわたって水を汚染することができる。
「なんてこと……」
翠珠だって、井戸水が意図的に汚染されたなんて、まったく考えていなかった。
もし、箱が発見されなかったら、もっと長期にわたって毒物が井戸水を汚染し続けることになっただろう。
それは病として民に受け入れられ、解決できない皇帝に対して怒りの念が向けられたかもしれない。それを思えば、恐ろしくなる。
「……賢いですね。もし、井戸掃除の時にこの箱が発見されたとしても、誰かの落し物だろうで終わってしまうと思います。箱の中に、何が入っていたのかなんて、誰も気にしないでしょうから」
翠珠の次に箱を手に取り、じっと見つめていた馬医師がそう口にした。
「それに、この箱はどこにでもあるありふれた品だ。値段の高いものでもない。あちこちの井戸から同じものが発見されたとしても、この箱と毒物を結び付けるのは難しいだろう」 井戸から落し物が出てくるのはよくある話だ。中身が空だったところで、不思議には思われないだろう。
底に鉛が入っていることに疑問を覚える者もいるかもしれないが、空の箱に価値などない。同じような箱がいくつも投げ込まれていたことなどきっと誰も気づかない。
病の流行として、人々には記憶されたはずだ。
「悪霊の仕業ではなかったということですよね。毒物であったということならば、患者達も回復するでしょう――翠珠様、あなたのおかげです」
馬医師は、翠珠に向かって深々と頭を下げる。翠珠に促されるまで、彼は頭を上げようとはしなかった。
「い、いえ……私も、たまたま、気づいただけ、ので」
慌てた翠珠は、手を横に振った。
直接病人に接するのは禁止されていたから――今の翠珠の身分を考えればそれも当然だ――他にできることはたいしてなかった。
井戸から水を運んだり、厨房に入って経口補水液を作ったり、病人の使った布類を焼却処分する火の番をしたり。
「お妃様の仕事ではない」と、この屋敷にいる者達からは止められたけれど、何もしないでいるのは落ち着かなかった。
「俺からも礼を言う――看護にあたった医師や看護人にも。宮に戻ったら、褒美を取らせよう」
「皆も、きっと喜ぶと思います」
皇帝から褒美が出されたとなれば、末代までの誉れとなる。
今回、毒物が混入されていたという原因が判明したのだから、事態は収束に向かっていくはずだ。
事態が長引けば、文浩の治世にも影響が出かねない。早めに原因を解明することができてよかった。
誰が、井戸に毒物を混入したのか。それを見つけ出すという仕事は残っているけれど。
「翠珠、いつ後宮に戻ってくる?」
「もう少し、患者の様子が落ち着いたら戻ります。まだ、病人に変化があるかもしれないので」
実のところ、ここに翠珠が残っていてもできることはさほど多くはない。
だが、毒物ではないという可能性が少しでも残っている以上、すぐには後宮に戻るわけにもいかない。
事態が落ち着いて、翠珠が他の人に触れても問題ないと確信が持てるまではだめだ。
「……じゃあ、俺がここに会いに来る」
「陛下は、皇宮にいてください。ふらふら抜け出すなんて、普通じゃありえないですよ。まだ、安全が確認できたわけじゃないんですからね」
ずけずけと言う翠珠の様子に、馬医師は目を丸くしている。
「た、大変失礼ながら――翠珠様は、そのような口をきいて問題ないのですか?」
「言っておかないと、またここに来てしまいそうなので」
皇帝相手の口調ではないなと、翠珠自身も思う。けれど、きつく言わなければ彼はまたここに来てしまうだろう。
(……大丈夫だとは思うけど)
彼は皇帝なのだ。念には念を入れておきたい。