私はあなたを愛しています
「それにしたって、何を考えているんですか! 昨日の手紙には、感染力は低そうだとたしかに書きましたけど、問題ないとは書いていませんよね?」
まず、この点だけは叱っておかなければ。
この国唯一の皇帝が、今、命を落とすようなことがあれば国は荒れる。
「病人に近づかなければ問題ないだろう。俺は病人には近づいていない。ここに来るまでの間も馬車を使った。ここから先には立ち入らないしな――直接話を聞きたかったんだ」
「……そんなことじゃないかとは思いましたけれど」
あいかわらず、彼は行動的過ぎる。
おそらく、塀の向こう側にには馬車が待っているのだろう。
(……というか、今、話をすればいいってことよね)
連絡を取りたいと思っていた相手が目の前に来たのだから、いい機会に恵まれたと言えば恵まれた。
「ひとつ、調べてもらいたいことがあるんです。ひょっとしたら。これは病じゃないかもしれません」
翠珠の言葉に、文浩は眉を上げる。言葉を発することなく、腕を組んだままの彼は視線で続きを促してきた。
「悪霊の仕業だろうと最初は思っていたのですが、病人の出ている地域が、偏っているんです……偏り過ぎです。悪霊の仕業なら、都中に蔓延していないとおかしいと思うんです。断言はできませんけど」
うがい、手洗い、消毒の徹底。できる限りは手を打ってきたが、それにしたって、看護にあたっている者達の中に感染者が出ていないというのは不自然だ。
彼が口を挟もうとしないから、かまうことなく翠珠は続けた。
「地図を見て、感染者が多数発生している地域と、そうではない地域の違いに気づきました。感染者が発生している地域では、井戸を多用しているんです」
「井戸?」
「はい。感染者が少ない地域は、川の水の方が利用しやすいので、そちらを使うでしょう。川の側に水くみ場も用意されています」
翠珠は自分の予測について語った。裕福な者は、使用人が川まで水くみに行くか、敷地内の井戸の水を利用する。
川の水を利用している地域に感染者はいない。
――となれば。
「井戸に何かがある、と?」
「井戸水が悪くなっている、というのも考えたのですが――それだと、敷地内の井戸にも影響が出る気がするんです」
人体には有害な毒となるものが、地下水に染み込んでいてそれを井戸水を通じて体内に取り込んでいるという可能性も否定はできない。
となれば、敷地内の井戸を利用している者達にも影響が出ないとおかしいと思うのだ。そうではないとなると、次の可能性を考えなければならなくなる。
「誰かが、故意に井戸に毒物を混入したという可能性もある、ということか」
「故意じゃなくても、何か井戸に落としてしまって、それが毒物性の強いものだったという可能性だって考えられます」
複数の個所で発生しているのだから、過ちという可能性は低い。
意図的に混入されたという方が自然だ。けれど、今この時点で断言はしたくなかった。
「わかった。すぐに調査させる。結果も報告させる――翠珠」
「……なんでしょう?」
今まで組んでいた彼の手が、こちらに向かって伸ばされる。つられるように翠珠も手を伸ばしたけれど、その手が触れ合うことはなかった。
「お前が元気そうでよかった」
「……あなたも」
互いに伸ばした手は、空中でとめられたまま。あともう少しなのに届かない。
先日までは逃げ出したいと思っていたはずなのに、今はこの距離がもどかしかった。
(……どうして)
まだ、危険がなくなったと断言できるわけではない。それなのに、触れ合えないのが寂しい。
皇帝自らここまで足を運んだのも誉められたことではないのに、それをとがめる気さえ失せている。
「翠珠一人をここに置いておきたくない。できることなら、俺も一緒にここにとどまりたいくらいだ。翠珠だけを危険にさらさしているのかと思うと」
「それを言ってはいけません。あなたは、この国の皇帝でしょう?」
――それでも。
これ以上はだめだ。
妃のかわりなら、いくらでもいる。だが、皇帝はかえのきかない存在だ。
ここに心は残してほしくないから、賢明に笑みを浮かべる。歪んでいないか心配だったけれど、それを確認する術はなかった。
「まだ、病の感染源が解明したわけじゃないんです。本当なら、こうして話をするのも危険だと思ってます」
翠珠の予想が正しければ、井戸水が原因だが、今の時点では断言できない。彼とは距離を開けているけれど、本当はこうして話をしているのも危険かもしれない。
「戻って、あなたのなすべきことをしてください。私は、ここで私のなすべきことをします」
患者達が、
「行ってください、早く」
「……わかった」
切なそうに、文浩は顔をくしゃりとさせた。なんだか目のあたりが急激に熱くなって、翠珠も慌てて瞬きをする。
(涙を見せていい場合じゃないでしょう。早く帰ってもらわないと)
名残惜しいと口にすることができたらどれだけいいだろう。
「俺は、もう行く。すぐに、井戸を調べさせる」
「行ってください、早く」
扮装をしているとはいえ、このままここにいたら誰かに気付かれてしまうかもしれない。窓をしめようとしたら、文浩は静かに翠珠の名を呼んだ。
「……愛してる。だから無事に戻ってこい」
それだけ告げたかと思ったら、次の瞬間、彼の姿は塀の上から消えていた。地面に降り立つ音がして、続く足音はすぐに遠くなっていく。
窓を閉めることもできず、翠珠は頬に手を当てた。自分でも信じられないほどに頬が熱い。
(愛してる……愛してるって)
たしかに今、彼はそう口にした。翠珠の知っている歴史では「妃はいたけど愛した女性はヒロインだけ」だったはずなのに。
「……私も、あなたを愛しています」
静かに、そうつぶやいてみる。
彼と、いつまでもこうしていられるはずはないと思っていたけれど、認めてしまえば、簡単なことだった。
認めてしまったけれど、これから先、彼の妃はまだ増えるはずだ。そうなった時、貴族の後ろ盾を持たない翠珠はどうなるのだろう。
(……それは、今考えてもしかたないわよね)
騙し打ちのようにして宮に入れられた時は、彼に対して怒りの気持ちも覚えた。物事が思ったように進まない現実に焦りを覚えたこともあった。
今は、自分の無力さに打ちひしがれそうになったばかり。もっと前世で知識を得ていれば、この結論にたどり着くのにここまで時間はかからなかったはずだ。
それを今悔いたところで、事態が好転するはずないのはよくわかっている。
「――そんなことより、今やらないといけないのは」
パンと手を打ち合わせて自分に気合を入れる。
遠い未来のことを考えたってしかたなに。今、目の前に横たわる困難をどう乗り切るかを考える方が先だ。
「回復してきた患者には栄養をとらせたいから、卵が欲しいわよね。実家から送ってもらえるかしら」
わざわざ声に出してみる。そうすることで、気持ちを切り替えられるような気がした。