過去の記憶を整理しよう
針子としての仕事が終わったあとは、数時間の自由時間が与えられる。
いつもは、同僚達と茶や菓子をつまみながらおしゃべりをしたり、庭園を散歩したりして過ごすのだが、翠珠は頭が痛いから部屋で過ごしたいといって、下がらせてもらった。
針子は、宮女の中でも高い地位とされている。皇族が身に着ける品を縫うからだ。
翠珠は四人で一室を使っているが、寝台一つと、部屋で食事をしたり作業をしたりするのに使う卓をひとつ。衣装箱と小さな鏡を個人の持ち物として与えられている。
それから、寝台の脇に置かれている小さな整理棚も個人の持ち物だ。整理棚に置かれている裁縫道具の入った箱をにらみつけながら考える。
(……今は、たしか天元三年……崔国が滅亡したのは、いつだったかな)
天元というのは、崔国で使われている共通の暦だ。元号が変わるきっかけは、皇帝が代替わりした時だ。
ゲームが始まったのは、天元十年。ゲーム内の時間は一年間だ。国が滅亡したあとの年号もわかっているのは、文浩を攻略対象者としたルートもクリア済みだから。
国を取り戻したあと、崔国復興のため、暦は天元十一年と続けられていた――ような気がする。
国が滅んでから、ゲームが開始するまでの五年間の文浩は、国を取り戻すための仲間を集めたり、庶民を苦しめる盗賊退治を行ったりしていたらしい。
それはともかく、今は記憶を整理する方が先だ。手早く墨をすり、新しい紙を取り出す。
(……たしか、飢饉があって)
飢饉の年については、ゲーム本編では語られていなかった。
(国中で疫病が流行ったという話もあったっけ……?)
飢饉があり、十分に食べられなくて体力が落ちたところに疫病の流行があった。さらに、隣国遼国から攻め込まれたとゲーム内で文浩が言っていた気がする。
そんな風に過去の記憶を整理する。紙を広げ、墨はすったけれど、まだ筆を走らせてはいない。
戦争というのがどのくらい続くのかわからないけれど、国一つ滅ぼすのなら、一年か二年かかるんじゃないだろうか。
となると、早ければ今から二年後、天元五年には戦争が始まると考えておいた方がいい――ということは、飢饉となるのは今年じゃないだろうか。
(無理無理無理無理、こんなの絶対無理……!)
国全体を救うのは無理でも、家族と一緒に逃げ出したいと思った。だが、父にそんなことを言ったところで、鼻で笑われてしまうだろう。
(落ち着いて。どうにかして後宮を出てお父様を説得する方法を考えないと)
筆を握っていた手が止まる。
なにせ、前世ではできることが非常に限られていた。
ゲームが始まってからのことなら、記憶にあるけれど、始まる前の時代のことなんて、ゲーム内で語られていたことしかわからない。
年表が公開されていたわけでもないし……。
(うん、私が知っている歴史を書いてみよう)
現在の皇帝が即位したのは、三年前。それと同時に元号が、『天元』と改められた。即位の祝いの時、父ががっぽり儲けたのはまた別の話だ。
隣国太国とは、非常に良好な仲。
崔国が滅びた時、姿を変えて身を隠した文浩を受け入れてくれたのは、太国の王太子だ。そう言えば、彼も攻略対象キャラの一人だった。
(林愛謝って、それを考えたらずいぶんモテモテ……というかヒロインなんだから当然か)
ゲームヒロインには林愛謝というデフォルト名が与えられていた。翠珠はそのままプレイしていたから、翠珠の知っているヒロインは愛謝という名前だ。
亡国の皇帝に協力して国を再興したり、一国の王太子と恋に落ちたり――他の国の皇后を目指すというルートもあった。
その国で後宮入りした場合には、他の妃達とのどろどろの寵愛合戦を繰り広げることになる。
(……今はそれどころじゃなかったか)
今、自分がやるべきことをしっかりやらなければ。
とにかく、整理してみてわかったのはとにかく時間が足りないということ。国全体を救うより、自分と家族が逃げる方を第一目標とした方が絶対にいい。
(……あ、海様だ)
ふっと窓の外に目をやれば、侍医馬医師と歩いているのは、皇太后の護衛である海志縁だ。異国の血が入っているそうで、髪の色は他の人と比べると明るい。
腰に帯びた大剣、堂々とした体躯。護衛らしく目は鋭く、宮女達の間では「顔は整っているけれど怖い」という理由で遠巻きにされているのを翠珠は知っていた。
(今日は、海様こっちに来てたんだ)
頭では、過去の記憶を整理しなければいけないとわかっているのに、耳は志縁と馬医師の会話を拾ってしまう。
「皇太后様の頭痛は、もうひと月も続いている。どうにかならないのか」
「そんなことを言われてもな……」
志縁に強い口調で言われ、馬医師は困っているようだ。
異国の血が混ざっていると差別されやすいが、皇太后はそんなことは気にせず志縁を重用している。そんなわけで、志縁は皇太后にものすごい感謝の念を抱いているようだ。
志縁は毎日牡丹宮に参内しているというわけではなく、他の部署と兼任だ。どことの兼任なのか翠珠は知らないが、そういう武官は他にもいるので、翠珠もその点についてはさほど気にしていなかった。
馬医師に向かう志縁の口調から、皇太后の体調をとても心配しているのが、翠珠にも伝わってくる。
翠珠が部屋にいるのを知らない二人は、歩きながら話し続ける。
「ひと月も頭痛が続くだなんて、普通ではないだろう。お痩せになってしまって、俺は非常に心配なのだ」
「我々だって手を尽くしている」
「馬医師が、全力を尽くしてくれているのは知っている。だが――」
「薬が手に入らないのだから、しかたないだろう!」
馬医師が、少しとがった声を上げた。それに対して、志縁がわびの言葉を口にしたようだ。彼が頭を下げているのが、翠珠の目にとまる。
「薬草が手に入らないのだ。遊睡草が手に入らなければ、根本的な治療はできん」
皇太后がこのところ体調を崩しているというのは、翠珠も話に聞いていた。ひと月も頭痛に苦しめられるとは。
遊睡草というのは、雪山の奥深いところでのみ採取される薬草だと聞いている。
非常に薬効が高く、人の手による栽培が幾度となく試みられているが、今のところ成功したことはないのだとか。
皇宮でも、なかなか手に入らないそれだけ貴重な品なのだ。
(……お父様にお願いしたら、届けてもらえないかなぁ)
なんて思ったけれど、翠珠が二人の話に加わるわけにもいかない。
李家は、あちこちに交易上のつながりがある。ひょっとしたら、遊睡草も手に入るかもしれない。
(……なんて、考えてもしかたないんだけど)
馬医師も志縁も、翠珠からしたらはるか目上の人だ。こちらから話しかけるなんてできるわけない――皇太后は翠珠達にもよくしてくれるから、心配なのは翠珠も同じだが。
それより、今は覚えている限りのことを書き出しておくべきだ。いつまで、記憶が残っているのかもわからないのだから。
覚えている限りのことを素早く記し、書き終えた紙は小さくたたむ。裁縫箱の中身を全部取り出し、底の布を剥がす。その中に紙を滑り込ませると、元のように布をかぶせ、中身を戻した。
(ここまでする必要があるかどうかわからないけれど)
もし、この紙を他の誰かに見られたら問題になる。裁縫箱は、仕事中は常に側に置いている。ここに隠すのが一番安心だろう。