病の真実
屋敷を徴収した以上、翠珠も逃げるつもりはない。
患者の側にいたわけではないから問題はないだろうが、病原体を持っているか否かの判断をすることができない以上、戻るわけにはいかなかった。
さすがに、直接患者に接するのはやめてほしいと医師達に懇願され、翠珠が担当することになったのは、使用した衣類の焼却処分や、器具類の煮沸消毒であった。
それから、両親や薔薇宮に出入りしていた商人達に使者を出し、食料の寄付や寝具の寄付を求めるのも翠珠に任されることになった。
文浩に「こういう事情で戻れなくなった」と手紙を書いたら、後宮中の針子達総出で蔵に積まれていた布を寝衣に仕立てるよう手配したそうで、出来上がったものから順に運ばれてくる。貴重品である砂糖も、提供してもらえることになった。
最低限の対処はできるようになったものの運ばれてくる患者の数は、増える一方だ。
屋敷を徴収して三日。井戸から自ら水をくみ上げ、厨房で塩と砂糖を混ぜて、経口補水液を作っている翠珠のもとを訪れた馬医師は嘆息した。
「まさか、お妃様がこんなことまでなさるなんて」
「この状況見て、何もしないでいたらその方が驚きでしょう。私は元気なのだから遊んでいる場合じゃないわ。貴族の出身じゃないから、多少は力仕事もできるし」
馬医師が、翠珠を気遣ってくれるのはありがたいのだが、部屋に引きこもっているだけでは翠珠の方が落ち着かない。
「馬医師も気を付けてくださいね。春永に泣かれては私が困るから」
「ご厚意に感謝いたします。では、こちらをいただいていきますね」
壺一杯に作った経口補水液を取り上げ、馬医師は厨房を出ていく。彼こそ、ここに足を運んで水を運ぶ必要はないだろうに。
それにしても、と残りの経口補水液を作業台に並べながら考える。
(……運ばれてくる患者が、妙に偏っている気がする。話を聞く限りでは偏っているのよね)
症状が軽く、口をきく余裕のある者には住まいがどこにあるのかを確認している。近隣に病が発生している可能性もあるからだ。
都の警備兵がその住まいを確認し、病人がいればこの屋敷まで運んでくる。それ以外にも、都の中を巡回してもらい、発見した病人はすみやかにここに運ばれるよう手配済みだ。
実家とは文のやりとりをして、必要な品を届けてもらっている。その時、使いに立った者に確認しているが、実家には影響は出ていない。
父の取引先の中にも感染者は出ていないと聞くから、病が流行している範囲は、非常に限られているようだ。
(……地図を、手配しよう)
都すべてを記した地図を届けてもらおう。それを見れば、何かわかるかもしれない。
◇ ◇ ◇
さらに三日が過ぎた。この間に何人か、北側から運ばれていった。
だが、朗報もあった。回復し、自力で動けるようになった者も出始めたのだ。ある程度動けるようになった者は、部屋を移ってもらう。
それから、手伝いたいと申し出てくれた者には、手を貸してもらうことにした。人手はいくらあっても足りないのだ。
人手が増えたことによって、翠珠が直接手を動かす必要はなくなった。経口補水液の作り方を教えた後は、実家に状況を知らせる手紙を書く作業に取りかかる。
紙を広げたところで、翠珠の目が壁に貼られた地図に向かう。患者が発生した地域には、赤い印がつけられていた。
(これを見る限り、同じ空気を吸ったら感染するってものではなさそう。体液に触れても、問題はなさそうよね)
空気で感染するものならば、この屋敷で治療にあたっている者がまったく感染していないというのはおかしい。
布で口を覆っているから、飛沫による感染はある程度防ぐことができているし、手洗い消毒も徹底している。
患者が身に付けていた品はすべて焼き払ったりしているけれど、それだけでは完璧に防げないはずだ。なのに、この屋敷に来てから感染した者はいない。
外から感染者は日々運ばれてくるのに。
この屋敷に来てからまだ六日。潜伏期間のことを考えれば翠珠が発症していないのはまだわかるのだが、それより以前から治療にあたっている医師達もまったく感染していない。
(となると、他の感染源ってことになるんだけど……食べ物はないわよね、きっと)
これだけ広範囲で大人数が発症しているとなると、食中毒ではないだろう。主食として口にされる穀物が病にかかったものだったということも考えられるが、それならば、逆に感染者の出る範囲が狭すぎる。
――あと考えられるとすれば。
(水、かなぁ……飲み水が汚染されている、とか?)
患者が多いのは、ごちゃごちゃとした長屋や掘立小屋が並んでいるあたりだ。
皇宮に近い、身分の高い者や、資産を持っている者が住まうあたりの患者は今のところ確認されていない。
父が一代で財をなしたため、それらのいわゆる高級住宅街から少し離れたところにある翠珠の実家の近辺でも感染者は出ていないそうだ。
これらの地域の違いと言えば。
(飲み水をどこからとっているか……かなぁ……)
この都の様子を完全に知り尽くしているとは言えないから、翠珠の予測が間違っている可能性は大いにある。
だが患者の少ない地域は、川の近く。飲用水として川の水を利用しやすい地域であり、患者が多く発生している地域は、井戸を利用しているようだ。
(……地下の水に異変があった……とか? でも、それなら、自前の井戸を持っている家でも発生しないとおかしい気がするのよねぇ……)
翠珠の実家やこの屋敷の中には自前の井戸が設けられている。患者が出ている地域では、町内で共同の井戸を使っている。
地図には井戸の位置は書かれていないけれど、そのはずだ。
(――ちょっと待って! ……もしかして、もしかしたら、だけど。誰かが井戸に毒物を仕込んでいる……とか?)
屋敷の敷地内にある井戸には、近づきにくい。
だが、共通の井戸は、皆が使いやすい場所にある。監視がついているわけではないから、水の中に何かを投下するのはたやすいはずだ。
となれば、患者の発生している場所が限定されているのも納得できる――気がする。
だが、そうなると誰が、という問題が発生してくる。
いや、今はこんなことを考えている場合ではなかった。
(……急がないと!)
すぐに井戸を調べるよう、文浩に手紙を書こう。いや、この屋敷の周囲を警戒している兵士に頼んだ方がはやいだろうか。
ここに自主隔離している翠珠が自分で見に行くわけにもいかないから、誰かに調査を頼まなければ。
どうしようかと考え始めた時だった。
「――翠珠」
窓の外から、翠珠の名を呼ぶ声がする。聞き覚えのある声――そして、ここでは聞こえてはいけないはずの声。
翠珠はばっと窓を開けた。
「あ、あああ、あなたこんなところで何やってるんですか!」
塀の上からこちらに手を振っているのは、久しぶりに"海"の変装をした文浩の姿だった。来るなと言っていたのに、まさかこんなところまで来てしまうとは。
「何って、翠珠と話をしようと思って」
塀の上に座った彼は、のんびりと足を組んでいる。話をしようと思ってだなんて、笑顔で口にしていい時ではない。
たしかに、昨日、治療にあたっている医師達に被害は出ていないから、感染力は低いのではないかと手紙に書いたばかりではあるが。
(……本当に、この人は)
たぶん、翠珠の口から直接報告を聞こうと思ってきたのだろう。ここから塀までは互いが手を伸ばしても届かないほどの距離があるから、手短に話をする分には大丈夫だろうか。