悪霊の仕業として
馬医師は、翠珠を見るなり頭を下げた。彼の瞳はせわしなく揺れている。まだ、信じられないのだろう。
「翠珠様、本当にこのお屋敷を使わせていただいてよろしいのですか……?」
「かまいません。窮屈ではありますが、地面に転がしておくよりはましでしょう。屋敷の北側には一番の重症者者を。それから、西には中程度の者を。東は軽症の人と患者を分けてください」
患者によって、手をかけねばならない度合いが違う。重症者はまとめておいた方がいいだろう。
(……それに、北は裏口にも近い)
もし、亡くなる人を運び出す時は、できるだけ目立たない方がいい。重症者を北に寝かせることにしたのには、そんな理由もあった。
「屋敷の者は、全員本邸の方に行かせました。ここに残っているのは、病人の看護を志願してくれた者だけです」
子供とその親は最優先で本邸の方に行かせた。それから、親や弟妹等、養わねばならない家族がいる者も。
さらに、病を恐れる者にも戻ってもらった。ここにいても足手まといになると判断したからだ。
「それから、お医者様達に伝えねばならないことがあります。治療を始める前に、南の広間に来てください。しばらく間、病人の世話は、李家の使用人がしますから」
屋敷に残った使用人は、口元を布で覆い、翠珠の指示を受けて散っていく。なぜ口を覆っているのかと怪訝そうな表情で見送った医師達は、それでも翠珠に逆らってもしかたないと思ったのだろう。
おとなしく南の広間に集合する。そこには、翠珠が集めるように命じた品が並べられていた。
「これは、あくまでも私が、我が家に出入りしていた商人から聞いた話ですが」
前置きをしてから、翠珠は話し始めた。
「悪霊によって、生じる病があるそうなんです。お医者様達にも、病の理由がわからないのですよね? だとしたら、悪霊の可能性も考えた方がいいと思うんです。当然、病に対する治療も並行して行います」
もちろん、翠珠は悪霊なんて信じていない。だが、この国の人達は意外と信心深く、翠珠の発言も突飛なものではないと思ってくれるはずだ。
悪霊と言う言葉を選んだのは、細菌やウィルスといった存在を説明するのに、それが一番早いと思ってのこと。
「患者をこの屋敷に集めたのは、悪霊をこれ以上広めないようにするためです」
「隔離する理由は?」
「悪霊が、どうやって感染するかわからないからですよ。まだ、病状が出ていない人と出ている人を分けるのが大事です」
隔離することで、これ以上の被害の拡大は防ぐことができるはずだ。それに、病人を一か所にまとめることで、治療も行いやすくなる。
「それから、鼻と口を布で覆ってください。布は用意しました」
「なぜ?」
抗菌マスクの用意なんてできるはずもないが、マスクの代わりに鼻と口を覆うことである程度は防げるはずだ。屋敷の使用人達にも、同じように命じてある。
「悪霊は、弱った人からは抜け出して、次にとりつく相手を狙うそうなんです。悪霊を吸い込まないための措置です」
「なるほど……」
医師としては、悪霊なんて信じられないのだろう。顎に手を当て、翠珠の言葉を聞いている様子は半信半疑というところか。
「患者に触れる時には手を洗い、酒で清めてください――悪霊は酒を嫌うそうです。患者に触れた後も同じです。治療器具は茹でて、徹底的に悪霊を追い出しましょう。使う前に、酒で清めた方がいいと思います」
アルコール消毒に煮沸消毒。この世界ではこれが限界か。
(私が、ちゃんとしたお医者さんだったらよかったのに)
そうすれば、屋敷に集められた患者達に、どんな治療をすればいいのか、すぐにわかっただろう。これから翠珠がやろうとしているような気休めの治療ではなく。
「――では、そちらに置かれている塩と蜜は?」
「患者達は汗をかいたり、嘔吐したりしていますから、体内から塩が奪われますよね。悪霊を追い出すためには、体内にある程度塩があった方がいいです。ただの塩水だと飲みにくいので、蜜で甘さを足します」
ほとんどずっと病院にいた翠珠は使う機会なんてなかったから、経口補水液の正しいレシピまでは覚えていない。夏になると、テレビの情報番組で経口補水液の作り方を放送していたのは何度か見た覚えがある。
「……どこまで効果があるかはわかりませんけど」
一息に口にして、逃げのようにそう付け足してしまった。
たしかに、自分でもどこまでできるのかわからないのだ。もし、これが役に立たなかったらと思うと、怖いとも思う。
(……でも、できることをやるしかないんだもの)
どうして転生する時に、もっと知恵を身につけた状態で来なかったのだろう。そもそも、自分がこの世界に生まれ変わった理由だってわからない。
だが、今それを考えていたって何も始まらない。できることを粛々と進めるだけだ。
「いえ、できるだけの手は尽くしましょう。悪霊を追い出せば、治療が効果を発揮すると思います」
「患者の衣服や敷布は、一度使用したら燃やしてください。布に悪霊がいる可能性があります。焼却して、完全に消滅させましょう」
翠珠の言葉を半信半疑で聞いていた医師達も、少しだけ信じる気持ちの方が強くなったようだ。
「他に、ご命令は?」
「馬医師も、他のお医者様も気を付けて治療にあたってください。馬医師に万一のことがあれば、春永が泣きます」
「春永が?」
馬医師は、一瞬怪訝そうに目を見開いたけれど、すぐに目元を柔らかくした。彼も、春永のことを憎からず思っているようだ。
「お願いします――あと、私もしばらくこの屋敷に滞在します」
翠珠の発言に、馬医師は驚いたように目を見張った。
「翠珠様は、後宮に戻った方がよろしいのでは?」
「――私も、悪霊に取りつかれているかもしれません。ここで、先生達のお手伝いをします」
口元に笑みを浮かべ、翠珠は首を横に振った。
――診療所の様子を見に行くと言った時には、ここまでひどいとは思っていなかった。
病人に触れてしまったし、同じ空気を吸ってしまった。長時間病人の側で過ごしたわけではないから大丈夫だと思うが、万が一ということもある。
「――陛下に悪霊が取りついたら大変でしょう?」
翠珠の言葉に、馬医師は申し訳なさそうに顔を歪ませ、無言で深々と頭を下げる。
それから、翠珠は次から次へと命令した。
患者を運び込む時以外、屋敷への出入りは禁止。食べ物や薬は箱に入れて持ってきてもらい、門の前に置いてもらう。
近くに人がいなくなったところで箱を取りに行くのは、健康に問題のない者だけ。
(……これで、どこまで防げるかわからないけれど……)
患者の数はあまりにも多く、李家の屋敷だけでは足りなくなるかもしれない。
そうなった時のことも考えなくてはならない。
それにしても――と翠珠は考え込んだ。
(病気の広がり方が、不自然な気がする)
空気で感染するのなら、もっと広範囲に広がっていてもよさそうなものだ。だが、患者が出ているのは、今のところ特定の区画に住まう者が大半だ。
(空気感染ではないとなると――患者の身近に接している人……かなぁ……)
家族で感染している者も多い。これは、狭い家で顔を付き合わせて生活していたからではないだろうか。
この屋敷には離れもある。病人の搬送に当たった者には、そちらで待機してもらう。もし、症状が出たならば、すぐに治療できるように。
ここにとどまる以上、やれるだけのことはやっておこう。
(お父様に、もっと寝衣や敷布を送ってほしいと手紙を書こう。それから、薬と食料と……)
屋敷にかなりの人数を収容したから、食料も薬もすぐに足りなくなりそうだ。父に援助を頼むことにしよう。