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この屋敷はもらい受けた

 母が、倒れた。

 その知らせがもたらされたのは、病が流行り始めたと聞いてから十日ほどが過ぎたあとのことだった。

 病はおさまる気配を見せず、街中では皇帝に対する不満がくすぶり始めているという。そんな話を、春永が他の宮で働く侍女達から聞いてきた。

 医師達は懸命の治療を続けているそうだが、なかなか効果は上がっていないらしい。


「――馬医師も、下町での治療にあたっているそうなので……」


 と、春永は眉を下げた。馬医師に想いを寄せる彼女が不安な気持ちになるのはよくわかる。

 彼女の不安に対し、何もできない自分が歯がゆかった。文浩の話を聞くことしかできないのも。

 そんな中もたらされた母が倒れたという知らせは、ますます翠珠を不安にさせた。


「行ってくるか?」

「……でも」


 翠珠の部屋を訪れた文浩は、なんでもないことのように言うけれど――こんな状況で母の見舞いに行ってもいいのだろうか。

 まだ、あの時、襲撃してきた者達の目的が何だったのかもわからないというのに。


「――まあ、本来後宮から出る必要はないからなぁ……」


 わざとらしく、顎に手をやって天井を見上げる。妃として後宮に入ったら、外出の許可なんてめったに下りない。

 身内が死亡した時に、葬儀に出るのだって許されないことが多いのだ。幸い命に別状はないという状況で見舞いが許されるなんて普通ではありえない。


「……わかってます」


 気がついた時には後宮入りしたあとだから文句も言えない。もし、後宮入り前に前世の記憶がよみがえったら、絶対に父の口車に乗ったりしなかった。


「……行ってこい。会えるうちに、顔は見ておいた方がいい」


 ぽん、と頭に手を置かれる。これだから、かなわないのだ。翠珠が何を望んでいるのか、彼はよくわかっている。

 望まない翠珠を薔薇宮の妃にしたのは、彼の独断。そして、彼はそれが許される立場だ。

 彼が死ねと言うのなら、何の罪がなかったとしても、笑って毒を飲まねばならない。

 翠珠に気を使う必要なんてないのだ、本来なら。


「いいんですか?」

「ああ。行って、顔を見せてやれ」

「ありがとうございます!」


 相手によっては、肉親の葬儀の時でさえも後宮から出ることを許されないこともある。文浩が、翠珠にどれだけ譲歩しているかこれだけでもよくわかる。

 すぐに支度をして、実家へと向かう。最低限の護衛だけ連れていくこととした。

 久しぶりに戻った実家では、たいそう歓迎されたけれど、父は留守にしていた。床に横たわる母の側に座り、後宮での生活について語る。


「わざわざ、お見舞いの許可を出してくださるなんて……本当、お前は大事にされているのね。陛下に感謝しなくては」

「……そうね」


 翠珠は視線を落とした。大切にされているのは、なんとなく理解している。理解はしているのだが――。

 けれど、これ以上実情を母の前でさらけ出すのも気が引けた。


(……また、ちゃんとしたお妃になっていないなんて話をしたらまた倒れちゃうかもだし)


 かかりつけの医師に見せたところ、疲れがたまっただけでたいしたことはないらしい。滋養強壮にいいという薬草を煎じたものを数日飲み、食事に気をつければいいという話だった。

 安心して帰宅しようとしたところで、母は翠珠の袖を引いた。


「陛下のお力になれるように、しっかりやるのよ。お前にはろくな後ろ盾もない。陛下のお心だけが頼りなんだから――今、陛下のお気持ちをいただいているといっても、慢心してはだめ」

「……わかってる」


 後ろ盾のない妃が、悲惨な末路を迎えるというのは珍しい話ではない。翠珠の場合、もともとは平民出身であるというのも、母の不安を煽る要因なのだろう。

 皇帝の寵愛だけが頼みの後宮で、その寵愛を失うことになったら?


(もともと寵愛されてるってわけでもなさそうなんだけど……)


 なんて、口が裂けても言えるはずがない。

 彼が翠珠に向ける気持ちを、どう受け止めたらいいものか。次から次へと押し付けられる妃候補の中で、"志縁"と向き合ったのが翠珠だけだというのもあるのだろう。

 違う立場で出会ったなら――と、宮を与えられてから何度も繰り返し考えたことをついまた考えてしまう。


「診療所に、回ってもらえるかしら」


 帰りに予定と違う行動を取ったのは、母の言葉が、頭のどこかに残っていたからかもしれなかった。


(今、私の手の届く範囲で――一番役に立てそうな場所といったら診療所だもんね)


 どんな治療をしているのか、どんな薬が必要か。場合によっては、実家に薬草の入手を頼むことにしよう。父の勢力が格段に増大したことによって、他国からの購入も以前よりはたやすくなったはずだ。

 馬医師が診療所にいるはずだから、彼に相談してみよう。そう決めて診療所に向かったけれど、そこで翠珠は絶句してしまった。


(……ここまでひどいとは思っていなかった)


 診療所はさほど大きくない。患者が、建物に入りきることができず道端にも並んでいた。だが、座っている者はほとんどいない。皆、地面に敷物も敷かず横になり、身体を折り曲げて苦しんでいる。


(……もっと早く、話を聞きに来ればよかった)


 前世の水準での治療が無理なのはわかっている。だが、地面に直接横たえておくのではあんまりだ。


「――馬医師! 少しだけお時間をください!」


 とめようとした人を振り切って、翠珠は奥へと駆け込んだ。患者の治療に当たっている医師達も、疲れた様子を隠すことはできないようだ。皆、顔色が悪い。


「――翠珠様、なぜ、ここに?」

「なぜって――患者が、地面に寝ていますよね。どうして手を打たないんですか?」

「上に話はしたのですが――、そこまで手が回せない、と」


 うっかり馬医師を詰問してしまったけれど、彼の表情を見れば、彼は尽くせるだけの手を尽くしたのだと知れた。


(――誰かが、意図的に止めたんだ。医師達は、懸命に治療にあたっているのに)


 翠珠は唇を噛んだ。どうすればいい?


 頭を目まぐるしく回転させる。この場所は、都の中心からは離れたところにある。比較的貧しい者達が暮らしている地域だ。治安もあまりよくはなく、翠珠がここに来るのに、御者はいい顔をしなかった。


「我が家の別邸が、少し離れたところにあります。今は誰も使っていません。そこを解放しましょう」


 都の中にわざわざ別邸を設けたのは、特に身分の高い人物を招いて、接待するための場所である――と聞いている。

 こことは違い、高級住宅街――という言い方をしていいのだろうか――都の中心から離れているのはこの診療所と同じなのだが、あちらは、広い庭を美しく整え、季節の移り変わりを楽しめるようにしている家が多い。


(敷地が広いから、静かに治療できる)


「順番に、馬車に乗せて、我が家の別邸まで運んでください。私は、先に行って準備をしておきます。あちらからも馬車を出すので、迅速にお願いしますね」


 地図に別邸の場所を書きこみ、馬医師に押しつける。そして翠珠は馬車に戻ると、今度は別邸に向かうようにと命じた。


「――この別邸は、私がもらい受けました。宴会の予定があるのなら、本邸の方で行うよう父に話をしてください」


 屋敷の管理人は、翠珠の顔をもちろん知っている。翠珠が、以前よりはるかに高価な品々を身に付けて訪れたのにびっくりしたような顔を見せたけれど、すぐに翠珠の命令を遂行すべく、使用人達を動かし始めた。


「――できるだけ多くの敷物を集めて。病人を寝かせます。馬車……いえ、寝かせるなら荷車の方がいいしら、方法は任せるから、患者を全員運んで。ええと……あとは、寝衣をたくさん。ありったけ出して。足りない分は、本邸の使用人に頼んで縫ってもらって」


 湯を沸かすための薪に大鍋、薬の調合に必要な品々は医師に持ってきてもらう。蔵からありったけの布を出し、塩、蜜も集めてもらう。

 そうしている間に、最初の患者と共に馬医師が到着したのだった。

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