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残暑の病

 暑い夏もそろそろ終わりに近づこうとしていた。


(……暑い)


 真夏は過ぎ去ったとはいえ、まだまだ残暑は厳しい。襲撃の件があってから、お忍びで街に出かけることもなくなってしまった。

 庭に出る気にもなれなくて、一番涼しい場所を選んで床の上にばたりと倒れる。ここは、床が石造りでひんやりとしているのが気持ちいい。


「何やってるんだ」

「……暑いんです」


 上から降って来た声に、見上げれば呆れた顔で文浩がこちらを見下ろしていた。

 石造りの床は心地よいのだが、やがて体温を移してぬるくなってくる。そうするとまた場所を移動して、涼を求める。先ほどからずっとこの繰り返しだ。

 たしかにずりずりと床の上を這って回っているのは、妃らしからぬ行為だが、ここには翠珠しかいなかったのだから多めに見てほしい。


「そんなに暑いなら、氷を持ってこさせればいい。蜜もかけて」

「いりませんよ、そんなの。贅沢じゃないですか」


 氷室の氷は、冬に切り出した氷を地下で保存しているものだ。

 後宮内には、何か所も氷室があり、たくさんの氷が保存されているのは知っているが、自分のためにその氷を消費するというのは贅沢な気がしてならない。


「少しくらい贅沢してもいいだろ。というか、妃なんだから氷くらい好きなように食べろ」

「元が庶民なんですよ、この方が楽です」


 文浩の前で取りつくろってもしかたないと最近になって気づいてしまった。

 訪れも告げずに乱入してきたのは文浩の方だし、暑いのは我慢できないし、氷を出してもらうのは気が引けるので、黙って見逃してほしい。


「……何をやってるんだか」


 そう言う彼の方は、涼やかな青い色の袍を着用しているが、崩すことなくきっちりと着こんでいる。

 床に転がっている翠珠の横に座ったかと思ったら、頭をぐしゃぐしゃとかき回された。


「――お疲れですね」


 頭をかき回されたのは、あえて言葉にせず、翠珠は身を起こす。文浩と向かいあう位置に、ぺたりと座り込んだ。


(……これでも、とがめられないんだもの。調子が狂うというかなんというか)


 相手が皇帝なのに、これでいいんだろうか――よくはないのだろうけれど、今さらという気がしてならない。


「――そうだな。少し――疲れた」


 そう言った彼の顔には、隠すことのできない疲労の色が浮かんでいる。


「氷をもらいましょう。それも脱いだらどうです?」


 色は青で涼しげだが、そんなにしっかり着こんでいるのは暑苦しいだろう。手を差し出すと、彼は脱いだそれを翠珠の手に預けた。

 立ち上がってきちんと畳んだ袍を、翠珠の衫の隣に置く。


「何があったんですか? この間の襲撃者……」


 両親に会いたいとも思うけれど、そもそも後宮入りした時に実家には戻れないと決まっている。一度覚えた贅沢は、なかなか抜けないものらしい。


「……いや。何も。責めさせてはいるが、誰も口を割ろうとはしない」


 さらりと「責めさせている」なんて言葉が出的で思わずぞっとする。翠珠とてわかってはいる。

 この国の法制度は日本のものとはまったく異なっている。犯罪者の人権なんて概念はない。白状しないのならば、白状するまで拷問でもなんでもすればいい――そういうことがまかり通る世界なのだ。


「……でも、何かお考えになっていることはあるんですよね?」

「考え、か……」


 文浩は思案の表情になる。

 それを横目で見ながら、翠珠は部屋の入り口のところまで行って春永を呼んだ。氷を削り、蜜をかけたものを持ってくるよう頼む。


「私のとこに来るのって、そういうことですよね。私に話すことによって、自分の考えをまとめようとしてるでしょう」


 妃として、何の役にも立っていないと思っていたが、ここに来て、吐き出すだけ吐き出したあとの彼はいくぶんすっきりとした顔になっているのに最近気がついた。

 それならば、翠珠は聞き手になればいい。それが、今できる唯一のことだから。


「そうかもしれないな。翠珠は余計なことを言わないから、静かに考えることができる」

「――余計なこと、ですか」


 翠珠にさしたる後ろ盾はない。それをいいことに、文浩のもとに他の女性を妃として入れようとする貴族達の動きは止まらない。

 前世が日本人の翠珠にとっては、あまり嬉しいこととは言えないけれど――いずれ、他の妃が彼のもとに入るのは既定路線だ。

 ゲームの中でも、妃は何人かいたようなことを言っていたし。


(――それにしたって、残された時間は少ない気がするんだけど)


 ゲームの年表を、完全に覚えていないのが悔やまれる。国が滅亡する前、大陸の国々がどんな動きをしていたのか。

 それを思い出すことができれば、もう少し彼の役に立つことができるのに。

 二人、壁際に並び、壁に背中を預けて座っているという状況は、はたから見ていたらおかしな状況なのではないだろうか。

 そんな風に考え込んでいたら、こちらの様子をうかがっていた文浩がくすりと笑う。


「……そんな顔をするな」

「どんな顔ですか?」

「心細そうな顔だ」

「そんな顔、していませんよ」


 考え込んでいる顔を見られていたのは気恥ずかしい。すっと顔をそらすのと時を合わせるようにして、扉の外から春永の声が響いた。


「氷をお持ちしました」

「ありがとう、入って」


 春永の方は、文浩にはまだ慣れていないようだ。朱塗りの盆にのせた氷の器が、小さくカタカタと震えている。

 まっすぐに部屋の中央に置かれている卓に寄った彼女は、零さないように慎重に器を卓上に置いた。銀製の匙がそえられている。

 器が三つあるのは、翠珠が春永の分も持ってくるよう言ったからだ。三つ目の器を持って春永が下がっていく。


「食べないって言ってたくせに」

「陛下が暑そうだったからですよ。それに、春永も暑そうだったし」


 翠珠は薄着になって、石造りの床に倒れこんでいてもいいが春永はそんなわけには――建前上は、そんなわけにはいかない。

 宮の主として本来よくないというのはわかっていても、春永に主としての顔を見せるのは難しかった。

 今だって、涼しい場所で涼んでもらっている。翠珠にできるのは、この程度のことでしかないから。

 薄く削った氷を匙ですくって口に運ぶ。薄く削られた氷は、口の中でほろりととけて消えた。


「ここ十日ほど、城下町で病がはやり始めていると報告があった。翠珠、気をつけろよ」

「病ですか?」


 この世界の医療は、さほど進んでいるわけではない。日本なら、数日薬を飲めば治るような病でも、死に至る病として恐れられているほどだ。


「高熱、嘔吐、下痢――症状としてはそんな珍しくないらしいが、このままいくと、弱っている者の中から、死者が出る可能性もある」

「そう、ですか……」


 その言葉に、ひんやりとしたものを覚える。


(どんな病かまでは、聞いていなかったけれど……これが、国を滅亡に近づけた病の発症なのだとしたら)


 時期的にも合っているはずだ。ここで国力が弱まった後、他国からの侵攻があったとしたら――戦に負けてもおかしくはない。


「どうした?」

「いえ――少し、考えていただけです。これ以上病が広がらないようにするためには、どうしたらいいのかなって」 


「医師達を城下町に派遣して、治療にあたらせる。あとは――そうだな。炊き出しも行うか。食事にまで手が回らない者もいるだろう」

「薬が足りないようなら、李家に命じてください。父なら、なんとかすると思います」


 父の俗物っぷりは、ひと月やふた月で変わるようなものではない。翠珠が妃となった今、自分の勢力を伸ばすためなら何でもやるだろう。

 皇帝に薬を買い付けるよう命じられれば、喜んでやるはずだ。

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