皇帝と知っての襲撃?
「……翠珠、無事か」
「私は……大丈夫です。陛……志縁様は?」
「俺も怪我はない――しかたない、警護を頼んで戻るか」
騒ぎに気付いたらしく、都の警備隊が駆けつけてくる。文浩は海志縁であると名乗り、
「皇太后の依頼で、買い物に出た宮女の護衛をしていたところ襲われた」と告げた。
「街中で盗賊が出るとは……申し訳ございません」
「宮女が怯えているので、後宮まで護衛を頼みたい。それと――そいつらは皇宮で尋問する。一人自害されてしまったから、残りは厳重に注意してくれ」
「かしこまりました」
警備兵達はうやうやしく文浩に頭を下げた。海志縁というのも、なかなかの有名人なのだ――実在しない人物だけれど。
「先に戻っていてくれ。あとで、薔薇宮の方に行く」
「……わかりました」
素早くささやかれたのに、翠珠はうなずいた。
相手はこちらが何者なのかわかって襲撃してきたのだと思う。意識が残っていた一人が、かなわないと知るなり自害したのは、命令した人物の名を口にするのを避けたため。
翠珠のために馬車が用意され、そのまま薔薇宮へと送り届けられることとなった。
(……あれ?)
中に入ったけれど、薔薇宮はしんと静まりかえっていた。留守を任せた春永がいない。
どこかに出かけていて、まだ戻ってこないのだろうか。
先ほどは腰が抜けて立てなくなったかと思ったけれど、馬車で休ませてもらった間にだいぶ回復したようだ。
(……衣が汚れてる)
身に付けて出た衣は、先ほどの襲撃の際に汚れてしまった。
幸い着替えは一人でできるから、手持ちの衣装の中から地味目のものを選んで身なりを改めた。
「……それにしても、陛下があんなに強いと思ってなかった」
たしかにあれなら護衛としても一流なのだろう。男達がどれほどの剣の腕の持ち主なのか、翠珠にはよくわからない。それでも彼が強いだろうことはよく理解できた。
(……ちゃんと、私のことを守ってくださった)
胸に手を当ててみる。そこは規則正しい鼓動を刻んでいて、
間違いなく、翠珠は負担になっていたはずだ。誰かを守りながら戦うのが大変だということは、戦う術は持ち合わせていなくてもわかる。
それでも、翠珠は怪我一つなく戻ってくることができた。
街中に連れ出してくれたのは、望みもしない地位を押しつけられた翠珠に配慮してくれたからだろう。
(……嫌ってわけではないのよね……)
寝台にごろりとうつぶせになって寝そべり、組んだ両腕の間に顔を埋める。
勝手に妃の座を押しつけられたことに反発する気持ちもあるけれど、彼という人間自身は嫌ではないから――困る。
「ご……ごめんなさい! 牡丹宮の手伝いに行ってて、気づかなくて……」
「ううん。予定よりだいぶ早く戻ってきてしまったから……ちょっと、いろいろあってね」
男達に襲われた一件がなかったら、暗くなるまで外にいる予定だった。評判の茶店で、食事をさせてくれると言っていたのだ。
顔ほどの大きさがある肉饅頭を食べさせてくれるそうで、ちょっと楽しみにしていたのも本当だ。だから、牡丹宮の手伝いに行っていた春永が、戻りまでまだ時間があると思っていてもおかしくはない。
春永に実家から預かってきた土産物を渡す。どうやら、甘い菓子のようだ。包みを開いて、春永は顔をほころばせた。
「焼き菓子だ! お茶いれてくるから一緒に食べましょう」
「そうね。あ、待って……じゃあ、こちらの干棗も一緒に」
春永は、以前と変わらず接してくれる。この場所に来てから、それがどれほど安堵させてくれたことか。
(私も、このまま変わらないでいたい……)
もし、妃としての身分をかさに来て、春永に威張り散らすようになったら――それはきっと、翠珠の中の前世が消えてしまった時だ。
もちろん、前世は前世。必要以上に前世にとらわれる必要もないと思っている。ただ、翠珠が前世の自分を失いたくない――それだけの話ではあるのだ。
お茶をいれて戻って来た春永は、顔色が悪かった。
「ねえ、襲撃されたって聞いたんだけど……大丈夫? 怪我はしていない?」
「どこで聞いてきたの、そんなこと」
「護衛が増やされたのよ。薔薇宮の周囲を厳重に警戒してるって……厨房の人達が言ってた」
厨房に湯をもらいに行ったら、ちょうどそんな話になっていたそうだ。翠珠は普通にしていたから、単に帰宅予定が早まっただけだと思っていたらしい。
「たしかに襲撃はされたけれど……あとは、陛下にお任せしたから、私はよく知らないの」
「……そう」
土産を受け取った時見せた弾けるような笑顔は、完全に姿を消してしまっていた。余計な気を使わせてしまっただろうか。
それでも慣れた手つきで春永はお茶をいれ、二つの器に注ぎ入れる。漆塗りの皿の上に、菓子を乗せ、窓際の卓に置いた。
「……心配させたくなかったから……ごめんなさい」
「あなたに何もないなら、いいわよ。実家にも寄ってくれたしね」
好物の焼き菓子を前に、春永の機嫌はあっさりよくなったようだ。実家での話をしている間に、翠珠の方も落ち着きを取り戻してきた。
「翠珠。今、いいか?」
「は――はい!」
扉の外からかけられた声に、先に立ち上がったのは春永だった。慌てて扉に駆け寄り、内側から開く。
入ってきた文浩は、武官としての服装ではなく、皇帝としての衣に身を包んでいた。
髪の色が変わるだけで、やはりずいぶん印象が変わる。
「今日は悪かったな――今まで外歩きをして、襲撃されたことはなかったんだ」
「ちょっと驚いたけど、でも……こうしてここに帰ってこられたから、大丈夫です」
軽い調子を崩さないようにして返した。
あの時のことを思い返すと、正直なところ少しばかり怖い。目の前で血が飛び散るのを見るのは初めての経験だった。
あんな形で、命が失われるのを見るのも。
「――見せるつもりはなかったんだけどな」
皇帝の訪れに、部屋の主と向かい合わせで茶を飲んでいた春永はあわあわとしてしまっていた。自分の使っていた茶道具をぱっと見えないところに隠したかと思ったら、ばたばたと部屋から出て行こうとする。
「春永。君もここにいてくれ。薔薇宮の警護を増やしたから――」
「あ、はい。厨房に行った時に聞きました!」
見ているこちらが気の毒になってしまうほどに春永は緊張していた。
「あいつら、俺が皇帝だと知っていた。知っていて、襲いかかってきた――武官相手にかかってくるからには、単なる盗賊ではないだろうと思っていたが。生き残ったやつを尋問したら、そう吐いた。首謀者の名までは明かさなかったが」
文浩の言葉に、ぴしりと部屋の空気が凍り付く。
(……だって、今日の外出は急に決まったものなのに)
翠珠自身、今日、宮の外に出かけることになるなんて、文浩が誘いに来るまで想像もしていなかった。今日もいつも通りの一日になると思っていた。
皇帝と薔薇宮の主が後宮の外に出かけている。それを知ることのできる者はそう多くない。
薔薇宮に関して言えば、知っているのは春永だけ。彼女は秘密を守ってくれるし、信頼していい相手だ。
(……やっぱり、思っていたよりずっと敵が多いんだ)
年若いからと侮られている皇帝。たいした身分もないくせに、薔薇宮の主におさまった商家の娘。手柄を立てたために父は貴族に叙せられたけれど、後宮唯一の妃になるのは分不相応だ。
(……怖い)
みるみる自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。こんなことになるなんて、想像もしていなかった。
「狙われたのが俺か翠珠かわからん。春永、しばらくの間、十分翠珠の身の回りに気を配ってやってくれ」
「わ、わかりましたぁっ!」
そう返す春永の声は、完全に裏返ってしまっている。
「翠珠も、用心してくれ」
真剣な声で言われ、黙ってうなずくしかできなかった。