それはまるで恋のようで
父は、商人としての目から、国内外の情勢について語る。文浩もあちこちの国にスパイ――間諜というらしい――を送って情報収集はさせているのだが、父のような商人の持つ情報網というのも馬鹿にはできないらしい。
「米については、来年以降も輸入することとしました。呂家と協力して、新しい酒を造ろうとしているところでして」
「上質の酒ができたら、献上してくれ。母上の口に合うようなら、まとめて買い上げよう」
「ありがたき幸せ」
それから母も呼ばれ、久しぶりに母と会話をする時間を持つことができた。翠珠が妃になって以来、母を茶会に招きたがる家が増えたそうだ。
「今までは、私のことを馬鹿にしていたのにね……商人に嫁ぐとは、と言われたもの」
「お母様が貴族の出身だって、私すっかり忘れてたわよ」
どういう理由で両親が結婚したのかは知らないが、仲良く過ごしているし、外ではともかく、家庭内では父が母の尻に敷かれているように見えることが多い。
長年、肩身の狭い思いをしてきた母が、のびのびできるようになったというのなら――薔薇宮に移ってよかったのかもしれない。
(……まだ、受け入れたわけじゃないんだけど……)
皇帝に請われて妃の地位を与えられたのに、まだ真の夫婦とはなっていない。どうしたらいいのか、どうしたいのか――自分でもよくわからない。
翠珠のしていることは、悪あがきではないだろうか。
母が用意してくれた茶を飲みながら、そう思う。
だからと言って、今すぐ受け入れられるというわけでもないけれど。
父との会談を終え、外に出ると文浩は大きく伸びをした。
「李家と繋がりを持つことができたのは幸いだったな。おかげで、率直な話を聞くことができた――元璋はなかなか面白いな」
「そうですか? 父はとっても欲張りなだけだと思ってましたけど」
「欲深い方かそうではないかと言ったら、欲深い方だろうな。だが、姑息な手を使って、他人を蹴落とそうという気はないと思ったぞ」
李家は、急激に勢力を伸ばした。だが、父はそこまであくどいことはしていないというのは翠珠も予想できた。
翠珠を後宮に入れるのにごり押しはしたけれど、他の誰かに害を与えて、その座を奪い取ったわけではない。惜しみなく金銭をばらまくことでどうにかしたはずだ。
帰り道を再び彼と並んで歩く。前にも同じようなことはあったけれど、あの時とはすっかり立場が変わってしまった。
(……考えても、しかたないんだろうな)
隣にいるのが、董文浩ではなく、海志縁だったらなんて、考えたところで、何も変わらない。
まだ、彼を支えていきたいとまで、翠珠の気持ちが固まったわけでもない。
翠珠にできるのは、これから先の未来を、できる限り悲惨なものから遠ざけることだけ。
顔を上げたら、ちょうど市場を通りがかったところだった。
「何か欲しいものはないか?」
店先に並んでいる品を視線で示しながら、文浩が問う。
「別にありませんよ。だって、後宮にいたら、なんでも手に入るじゃないですか」
以前ならなかなか手に入らなかった甘いお菓子も、今では厨房に頼むだけですぐに届けられる。
春永とだけ食べるのは申し訳がないから、春永に頼んで、時々前の同僚のところにも届けてもらっている。
「虐められることも考えていたんですけど、皇太后様は私のことを大切に扱ってくださいますし……使用人も、親切にしてくれる人に全員入れ替わったし……」
翠珠が妃になったら、いろいろと嫌な思いをさせられるのだろうと思っていた。だが、翠珠の側についている侍女は春永一人。その他にも侍女はいるけれど、皆、翠珠より年上の者に変更された。
「今のところは、すごく快適なんですよ。こうして、外にも連れ出してもらえたし」
父の顔を見ることもできたし、少しだけ母を話をする時間も持てた。翠珠からしてみれば、今は生活という面では満たされている。
自分の希望とはまったく違う立場に置かれているという点にはまだ困惑しているが、焦ってもすぐには立場を変えることができないであろうこともわかっている。
「あと、あるとすれば……そうですねぇ……うん、やっぱりないかも」
顎に手をあてて考えてみるけれど、欲しいものなど思いつかない。
「翠珠は、欲がないんだな。後宮に入るくらいだから、てっきり欲深いのかと思ってた」
「そんなの。単にお妃様に憧れたからですよ。後宮に入ったのは父に騙され――騙されたというと語弊がありますけど、お妃様になったら綺麗な衣を着ることができて、おいしいお菓子が食べられるって言われたからですもん」
いざ妃になってみたら、美しい衣も、豪華な宝飾品も、意外と心を揺さぶらない。
ひょっとしたら、皇太后の衣を縫っている間に見飽きたのかもしれないと思えば、とても贅沢な話ではあるのだが。
「そうか。翠珠らしいな」
「私が何も考えてないみたいないい方、やめてくださいよ。私だって、それなりに考えてることはあるんですー」
彼が"志縁"だった頃のような、こんなやり取りが楽しい。
きっと、引かれてしまうだろう。隣にいるのが、皇帝じゃなければよかったのに、なんて、考えを知られたら。
「……それなら、今、何を考えているのかを教えてくれ」
立ち止まった文浩が、正面から翠珠の目を覗き込んでくる。彼の瞳に自分の顔が映っているのを見て、翠珠は動揺した。
――これでは、まるで。
恋に落ちているみたいだ。
相手は志縁ではないのに。いや、志縁と文浩は同一人物なのだから、翠珠が細かいことを考えてもしかたないのかもしれない。
「……今、ですか? 今は、楽しいってことしか考えていませんよ」
先に目をそらしたのは翠珠だった。正面から向き合うのはまだ怖い。
それなのに、唇は勝手にそんな言葉を吐き出してしまう。
自分でも、どうしてそう思うのか説明はつかない。
(……私は、妃に選ばれたけれど……永遠に続くわけじゃないから)
翠珠とて、自分の立場くらいよく心得ている。
薔薇宮にいる妃は今一人。けれど、いずれすべての宮に妃が入ることになる。その妃の中で、庶民育ちなのはきっと翠珠だけだ。
そして、さほど遠くない未来。翠珠は後宮を去ることになる。どんな形で去るのかはわからないけれど、ゲームが始まった時には、重要なシーンに翠珠の出番はなかった。
今、こうして二人でいる時間が愛おしければ愛おしいほど、その先のことが気になる。
(あー、もう! 前世の感覚持ち込んだってしかたないのもわかってるのに!)
前世なら。一夫一妻。付き合うのも一人だけ。
もし、二人交際相手がいたら、それは二股として、周囲から白い目で見られた。
けれど、この世界では違う。文浩は、いずれたくさんの妃を迎えることになる。
それが嫌だ――なんて、言ってはいけないのもわかっている。
(そもそも、私自身の立場があいまいってところを忘れちゃだめよね……まだ、飢饉を乗り切っただけだし……)
なぜ、翠珠の中に違う世界の記憶がよみがえったのか。
後宮から自分が逃げたいという理由で動き始めたことが、思っていた以上に大ごとになってしまっている。
(妃にはなりたくなかったのに……)
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
勇気を振り絞って問いかけたら、足を止めた文浩はこちらを振り返る。
「もし……もし、私と父の献策が役に立たなかったら。あなたは、私を迎えようと思いましたか?」
「それは――」
それは、禁断の言葉だったかもしれない。
口にしたことによって、彼との関係が大きく変わることになるかもしれない、禁断の言葉。
けれど、彼が何を言おうとしたのか――翠珠は聞くことができなかった。
「もし、そうだったとしても――危ないっ!」
不意に腕を掴んで引き寄せられる。翠珠は上がりかけた悲鳴を飲み込んだ。