再びの実家
街に行こうと文浩から誘いが来たのは、翠珠が薔薇宮に入ってから十日ほどが過ぎたあとのことだった。
「街に行こうって、そんなに気軽に行けるものなんです?」
「当たり前だろう。そのために志縁として行動しているんだからな。翠珠も一緒に行けるように手配した」
自信満々の笑みは、ちょっぴり憎らしい。翠珠達は後宮から外に出ることができないのに、文浩は好きなだけ出ることができるとは。
おまけに権力を有効活用して、翠珠も外に出られるようにしてくれたらしい。用意周到と言うべきか。
「普通は、外には出ないと思うんですけどねぇ……」
「自分の目で見てみないとわからないだろ? 特に、俺は貴族達には舐められているからな。翠珠も行くだろ?」
「そりゃ、外に連れて行ってもらえるなら嬉しいですけど」
ここでの暮らしは、贅沢だけれど慣れない。街に出て、違う空気を吸えば、もうちょっとここで頑張ることができるかもしれない。
ここに移ってからも処分していなかった昔の衣を取り出して着替える。翠珠はもともと庶民だから、こういった飾り気の少ない衣の方がほっとする。
「ねえ、大丈夫なの?」
「た、たぶん……? 陛下が一緒だし、大丈夫だと思う……けど」
「それなら、いいけど……気をつけてね。あ、あとお土産を買ってきてくれると嬉しい」
翠珠に土産をねだるあたり、春永もちゃっかりしてる。それは、友人のままでいてほしいという翠珠のわがままを春永が受け入れてくれている証拠でもあった。
以前、実家に戻った時のように上役の命令を受けて出かける宮女とその護衛を装って、裏門から出る。
(……いいなあ、陛下は。こうやって自由に出入りできるんだもの)
翠珠は薔薇宮で生活していて、本来はそこから出ることはできない。今日だって、文浩が連れ出してくれなければ、出かけられなかった。
こうやって、市場まで並んで歩いたのがずいぶん前のような気がした。あれからそんなに長い時間はたっていないのに、ずいぶん翠珠の立場は変わってしまった。
「ひとつ、いいですか?」
「どうした?」
「春永の家に寄りたいです。彼女は、私と違って自由に外に出られないから……今日は時間がなかったので、手紙を書いてもらうこともできなかったし」
春永の実家に寄って、宮中での様子を話したら彼女の両親も安心するだろう。それに、伝言を聞くこともできる。
「それも考え直さないとな。妃がふらふら出歩くのは困るだろうが、宮女は里帰りしてもいいと思うんだ」
「ここにふらふら出歩いている人もいますけどね」
と、つい言い返す。
妃になったとはいえまだ名前だけだ。文浩との距離が以前より近づいたのも本当のことだけれど、翠珠が薔薇宮に移動してから、彼がそこで夜を明かしたことはない。
食事の時間でさえも別々で、何のために翠珠を迎えたのかわからないくらいだ。その分、春永とおしゃべりする時間が増えたのは嬉しいけれど、正直なところ暇を持て余してしまう。
「新しい衣はいらないか?」
「いりませんよ。皇太后様からいただいた衣だけで、三年は着るものに困らないくらいありそうですよ」
身体は一つなのに、衣の数はやけに多い。
褒美として、皇太后から侍女に衣を与えることもある。皇太后から衣を賜るというのは栄誉であり、その衣は宮中での宴等の場で着用されている。
そのため、皇太后は若い女性向けの衣も仕立てさせていたのだが、大半が妃になった翠珠に与えられた。
「見栄を張るのも大事なんでしょうけど、皇宮の人達って無駄が好きですよね」
並んで歩きながら、ついそんな言葉が口をついて出た。口を滑らせたのは、彼との間に流れる空気が宮中でのものとはまったく異なっていたからかもしれない。
何も知らない頃。単なる武官と宮女として互いを知っていたあの頃の懐かしい空気。
「無駄?」
問い返されて気がついた。
皇帝の前で、なんてことを口走っているのだろう。だが、口走ってしまったものはしかたがない。
「毎日毎日新しい衣を仕立てているし、誰も使わない宮を毎日みっちり掃除してる。気がついてました? 埃もないから、掃くふりをしているだけの人もいるんですよ」
たしかに、いつ妃を迎えるのかわからないのだから、花の名がついている宮を手入れする必要はあるだろう。だが、毎日毎日使ってもいない建物を掃いて回る理由が、翠珠にはわからない。
「使ってない宮の掃除は、三日に一度に減らせば、使用人の数も減りますよね。そうなったら、お給金や、支給品も節約できるし――って、こういう考え方は後宮じゃしませんよね。言い過ぎました」
うっかり、生家の基準で物事を語ってしまった。
こんなの、皇帝には何の役にも立たない情報だ。ひょっとして、後宮で働かせることによって、仕事を供給しているのかもしれないし。
「いや、言われれみればそうかもしれないな。あまりにも人数が多いとは俺も思っていたんだ」
翠珠の考えを、意外にも彼は肯定してくれた。そうなってくると、翠珠の方もなんだか嬉しくなってくる。
「……でも、仕事がなくなったら困る人もいますもんね」
「必要なところに回せる分は回した方がいいんだろうな」
春永の実家である酒蔵に顔を出すと、そこではちょうど春永の父である主が困った顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「ああ、翠珠殿。長男の縁談がだめになってしまったんだよ。都は年頃の娘が少ないからねぇ……また、一から相手を探すのは大変だ。海様、どなたか心当たりはありませんか?」
それを海志縁に聞くのか。彼だってまだ妻帯していないというのに。
「特にないな――あれば、俺がとっくに妻帯してるはずだ」
海志縁は、名に縁とついているにもかかわらず、なかなか縁談に恵まれなかった。つい先日持ちあがった縁談も、彼の方から断ってしまった――というのが、世間に知られている事実だろう。
(そう言えば、あの時、誰との縁談が持ち上がったんだろう……)
今になって、不意に気になってしまった。翠珠が悩みを打ち明けろと迫ったあの時。相手の親の弱みを握れだの、違う縁を結べばいいだのと好き放題言ってしまった。
あの発言を許すのだから、やはり彼は心が広いのかもしれない。そうでなかったら、翠珠を薔薇宮に移動させたりしないだろう。
「さようですか。まったく、そうですよね……」
はぁとため息をついた主は、それでも仕事のことは忘れていないらしい。てきぱきと葡萄酒を壺に注ぎ、ついでだからと翠珠には春永への差し入れを差し出した。
「娘に渡してもらえると助かるのだが」
「いいわよ。おじさんにはお世話になっているし、春永は元気だから安心して」
差し入れは、自家製の焼き菓子のようだ。翠珠が妃になったとは知らないらしく、彼の態度は以前とまったく変わらない。
その彼の態度が、やはり翠珠をほっとさせてくれた。
呂家を出て、次に向かうのは翠珠の実家だ。先ぶれは出していないから、父は何も知らずに二人を出迎えた。
「これはこれは、海様。翠珠、まさかお前お暇を出されたんじゃないだろうね?」
妃になったとたん実家に帰ったものだから、いらぬ誤解を招いたようだ。父に向って、文浩は笑いながら言った。
「いや、陛下のお心遣いだ。翠珠なら、町中を歩いてもうかつな行動をとることはないだろうから、実家に顔を出してこいと。堂々と里帰りさせられないから、出入りは宮女の服装でということになるが」
(自分のことを陛下っていうのは、もやもやしないのかしら)
なんて思ったけれど、文浩の方は平然としている。海志縁として、皇太后のところに出仕しているように振る舞っていた期間もかなり長いから、一人二役も板についているんだろう。
「それで、今日は何をお求めに?」
皇帝を相手にしても、父は以前ほど動揺はしていない。落ち着き払って、文浩に向き合っている。ただの強欲な商人ではなかった。
「噂話を」
「かしこまりました」
父は、商売人の顔になると、二人を奥へといざなった。