これはお渡りとは言えないけれど
こうして翠珠の生活は大きく変わった。
今、後宮にいる妃は翠珠だけ。皇太后は牡丹宮で暮らし、侍女達も大半がそちらに行ってしまっている。
貴族の令嬢が翠珠に仕えるのは無理と判断されたのか、春永以外は若い侍女はいない。
春永は、皇帝の頼みで翠珠付に回ってくれたそうだ。
馬医師との仲を取り持ってもらうという約束をしたらしく、友人が主に変化したこともさほど気にしていないというのは彼女のおおらかなところだろう。
その他後宮でのしきたりや行儀作法、身につけておくべき教養を教えてくれる教師も兼ねた年配の侍女がつけられた。
こうして新しい生活が始まったと言えば始まった――のだ、けれど。
(……私に会いには来るけど、お渡りとは言えないわね)
皇帝は、しばしば翠珠のところを訪れるが、今のところそういった関係に発展してはいない。 皇帝との関係は、友人から一歩後退して、顔を合わせれば話をする知人程度というのが正解だ。今のところは、それでいいような気もする。
(……自分でも自分の気持ちがどうなのかよくわからないのだから、しかたないわよね)
翠珠は、春永にも外に出てもらって、一人考え込む。
少ししたら気持ちの整理がつくのかと思っていたけれど、そんなこともなさそうだ。他にあった縁談を断ってしまったというし――あと二人、本当に後宮に入るのだろうか。
薔薇宮に移動して十日ほどが過ぎたところで、今後の方針を練り直さなければと考えを改める。妃になってしまったのだから――今度は、この立場からどう動くのかを考えなければ。
裁縫箱の一番奥から、以前書いた紙を取り出した。
(この疫病が何かっていうのがわかれば、もうちょっと対応も取りやすいんだろうけど……)
いずれ、隣国である遼国が攻め込んでくるはずだ。以前から、この国の豊かな財を狙っていると聞いている。
(朱明祥は、なんて言ってたかなぁ……)
朱明祥とは、プレイヤーが遼国を選んだ時に攻略対象となるキャラの一人だ。ゲームが開始した時にはこの国は滅んでしまっている。
この国で滅ぼすための諜報活動を行っていたらしく、その過程でなにやら非常に不幸な目にあったそうで、ヒロインと出会った時にはどんよりした暗い人間となっていた。
諜報組織を抜けようとして殺されかけたり、ヒロインを守ろうとして大怪我を負ったり、何かと忙しい人物でもあったが、それは今は横に置いておく。
ゲームが始まってからのことならば、流れを思い出すだけですむ面もあるのだろうが、今はまだゲームは始まっていない。
今現在のことについては、詳細は明らかにされていないので、ゲーム本編が始まってからのそれぞれの攻略対象の言葉から推測するしかないのだ。
(どんな活動をしてたのか、それさえわかれば……)
さらに考えこもうとした時、扉の外から春永の声がする。皇帝がこの部屋を訪れたようだ。
手にしていた紙を、慌てて裁縫箱の中に放り込む。いつもの隠し場所に隠すことはできなかったが、この部屋に入るのは翠珠と春永くらいだし皇帝が戻るまでの時間くらいなら大丈夫だろう。
「元気にしていたか」
「はい、陛下」
彼と顔を合わせるのは、もう何度目になるのだろう。以前より空いた距離に、彼が顔をしかめたのもわかったけれど、こちらとしても彼にどう対応したらいいのかわからないのだ。
顔を上げることができずに、もじもじとしてしまう。
「……俺のせいだな」
「それは……そんなことは……」
今さら、そんなことを言われても困る。たしかに、志縁に恋心――今となってはそうだったのだろうと思う。恋心を抱いたのは間違いない。
「――俺は、嬉しかったけどな」
「何がですか?」
「好きになったのは、皇帝じゃなくて志縁だと言っただろう」
「――そ、それはですねっ!」
かっと耳が熱くなった。たしかに、そう口走ったような記憶がある。
記憶はあるが、今すぐ全消去したい。
けれど、それでその場の空気が柔らかくなったような気がした。
「よく誰も気づかなかったものだと思いました。私は陛下にお会いすることもなかったので、気づかないと思いますけど。その……皇太后様の侍女達とかは会ったことがあるでしょう」
「この髪の色のせいだろうな。この国の人間は、他国の人間を嫌う傾向にある。髪の色だけ見て、俺の顔までは見ない」
「あぁ……それで、ですね」
ようやく気がついた。
志縁ほどの身分なれば、いくらでも縁談はあるだろうと思っていたが、”海志縁”には縁談を持ちかける者はいなかった。志縁の髪の色で嫌われているのだとすれば、それも納得だ。
「お前がさけない方が驚きだったぞ」
「たぶん、商家の出身だからでしょう。父のところには、真っ赤な髪をした人も出入りしていますから」
そう言ったけれど、おそらく、それだけではない。
志縁と密接にかかわりあうようになったのは、記憶が戻ってからのことだった。
髪の色が赤いなんて前世の記憶が戻ってしまえば、さほど大きな問題ではない。
「髪の色をこうしろと言ったのは、おばあ様だ。おかげで、文浩と志縁、一人二役をうまくやることができている」
「志縁様は、毎日お勤めではないですもんね」
くすりと翠珠は笑う。
なんだか、あの日のことがずいぶん遠いように思えてくる。
今になって考えれば志縁に手巾を押し付けるなんて、何をやっていたのだろう。もてなそうだからという一言だって、失礼だ。
(……皇帝陛下、か……)
卓上で組み合わせた自分の手に視線を落とした。けれど、意識の隅では、皇帝の視線がこちらに向けられているのも理解している。
「――私を、妃にする必要はありました?」
長い沈黙ののち、顔を上げてようやくそれだけを問いただした。翠珠が必要だったと彼は言うけれど、本当に?
「俺には、お前が必要だ」
きっぱりと言い渡され、それ以上の言葉を失ってしまう。
皇帝に必要とされるほど優れた人間だなんて思えない。それなのに、彼は翠珠が必要なのだと言い切った。
(……それなら、私はどうすべき?)
考えようによっては、この国を破滅から救うことができるかもしれない。
この国の方針を決めるうえで、一番重要な役目を負っている人間と、直接言葉を交わす機会を得ているのだから。
「なぜ、私が必要なんです? 父が、私を売り込んだのを真に受けてるわけじゃないですよね」
「食糧危機に関しては、こちらでも対策を行っていた。だが、貴族の一部が、命令通りにしていなかったんだ。李家の援助がなければ、被害は大きくなっていただろう」
「皇帝の命令を聞かない人がいるのですか?」
「俺はまだ若い。だから、自分の思い通りにできると思っている人間も多いんだ」
そう言った皇帝の目には、焦りの色が浮かんでいるように思えた。
(たしか、まだ十八……よね……)
早くに父が亡くなって、十代半ばでこの国を背負わなければならなかった。彼の肩に載せられた重圧がどれほどのものなのか、翠珠は推測するしかできないけれど。
――でも。
(……そんな顔をされたら、なんでもしたくなっちゃうじゃない)
今の自分には、力なんてないのもわかっている。
けれど、彼の手助けになるのなら、全力を尽くしたいと、そう思ってしまうのはいけないことだろうか。
「――私を勝手に妃にしたのは、もう怒ってないです」
たぶん、と心の中で付け足した。
だって、考えようによっては、皇帝に直接ものを言える立場なのだ。すぐには実現しなくても、自由を手に入れたと思えばいい。
「だから、私に何を望んでいるのかを教えてください。できる限り、努力します」
しかたないな、と頭のどこかからささやく声も聞こえてくる。
だが、環境は変えられないのだから、自分がそれに適応するしかないではないか。
翠珠の言葉に、彼はぱっと顔を明るくする。その表情には、たしかに”志縁”が重なって見えた。