新たな未来をここから
翌朝。翠珠のところに、朝食が運ばれてくることはなかった。
(……昨日、警告はしたはずなんだけど)
朝食すら出してもらえないとは、兵糧攻めにするつもりか。馬鹿馬鹿しいので、さっさと自分で着替える。妃としての豪奢な衣服ではなく、牡丹宮で働いていた時の衣だ。
そのまま厨房へ行くと、朝食の用意がされていた。
「おはようございます、食事はここでもらえますか?」
「どうした、食べそびれたか」
「昨日、ここに異動になったものだから勝手がわからなくて」
翠珠の言葉に、厨房にいた調理係が笑う。小麦粉を練って焼いた『餅』と、魚の汁物が出された。
「本当は、食事の時間は終わりだからな。明日からは遅れるなよ」
「はぁい」
いい返事をしておいて、魚の汁物にちぎった餅を浸し、汁を吸わせて食べる。餅はおいしい。
(……とにかく、易夫人に会うのが先決よね)
このままここにいても、今度も食事が運ばれてくるとは思えない。侍女達は完全に翠珠のことを馬鹿にしているし、それなら他の場所で働いてもらった方がいい。
思い返してみれば、自由に出歩くことも許されなかった前世とは違い、二本の足で行くことを許される範囲であればどこまでも行けるのだ。
食事をもらってから、するりと薔薇宮を抜け出す。妃としての装束を身につけていればとめられるのだろうけれど、針子の服装なので誰も翠珠をとめようとはしなかった。
働き始めてからずっと過ごしていた牡丹宮の中に入り、そのまま易夫人の部屋まで行く。
「易夫人、今、よろしいですか?」
皇太后のところに出かける支度をしていた易夫人は、扉の外から声をかけた翠珠の方を見てぎょっとした顔になる。
昨日、薔薇宮に移ったはずの翠珠が、美しい衣ではなく、今までと同じ動きやすい服装で現れたのだから、ぎょっとしても当然だ。
「李妃様、どうしてあなたがここに?」
「薔薇宮には、誰もいないみたいなので。どうしたらいいのか聞きに来ました」
「薔薇宮には、侍女を二人派遣したはずですが……?」
「私が平民出身なので、嫌なようです。それはしかたないと思うので、侍女を変えてください。私の下につくのは気の毒です。それと、多分、私は学ばなければならないことが多いでしょう。教えてくださる方を探していただけませんか」
そこまで言って、翠珠は思案した。この先は、易夫人に話してもいいだろうか。
「……それと。陛下に謝罪の機会を頂きたいです。昨日、あまりにも突然のことだったので混乱して、上手にお話することができませんでした。なじってしまいましたし」
「あなた、何を考えているの。陛下をなじるなんて!」
易夫人が、けたたましい声を上げる。それには完全に同意だったので、翠珠は首をすくめた。
「……だから、反対だったのですよ。せめて、行儀を学ばせてからにしなさいと。ええ、お作法やなにやらを教えてくれる教師はもう見つけてあります。あなたは、薔薇宮にお戻りなさい」
「……はい」
侍女達には、翠珠の方から皇帝に面会を求めるなんて無理だと言われたが、易夫人は皇帝に話を通してくれるようだ。
易夫人にあとのことを何度も頼み、来た道を通って薔薇宮に戻る。翠珠の部屋は、出て行った時のままだった。ひょっとして、誰も翠珠が出て行ったのに気づいていないのだろうか。
(……お針係から、妃って出世しすぎじゃない……?)
誰もいないのをいいことに、行儀悪く寝台にひっくり返る。
うつぶせになって、折り曲げた膝をぶらぶらとさせてみた。本来なら、侍女がつくところだろうに、今、薔薇宮にいるのは翠珠だけ。
(いや、皇太后様のところにいる侍女達の中から誰かまた回されても困るんだけど……)
はぁとため息をつく。とりあえず、この部屋の掃除でも始めようか。教師が決まったら、自分の自由には動けないだろう。
「お食事の支度が整いました」
「その声は、春永!」
履物に足をひっかけただけで、急いで寝台から飛び降り、ばたばたと駆け寄る。扉を開いた向こうにいたのは、春永だった。
翠珠の顔を見るなり、彼女は深々と頭を下げる。完璧に目上の人に対する対応だ。
「お願い、やめて。私もわけがわからないうちにここに入れられたんだもん。春永にまでそんな態度をとられたら、どうしたらいいのかわからなくなる」
顔を上げた春永は、困ったように笑った。
それから、ひとつ、息をつく。
「わかった。でも、二人の時だけね。皇太后様や他の人がいる時には無理。易夫人とか」
「それでもいいわ」
春永が持ってきた籠の中には、甘い焼き菓子が山のように入っている。湯を沸かし、のんびりと甘い菓子をつまんでいたら、再び扉の外から声がかけられた。
「話があると聞いてきたのだが」
「――陛下!」
昨日の今日で、彼が来るとは思っていなかった。
今日は早く政務が終わったのだろうか。春永は立ったり座ったり、勝手がわからないようで非常にうろたえているのがありありとわかる。
「春永、外してもらっていい?」
「わ、わかったわ――じゃなかった、かしこまりました!」
春永も侍女として働いていたわけではないし、翠珠とは昨日まで友人だった。いつもの通りの口調で返事をしかけ、半泣きになって退室する。
「――どうぞ」
「……その衣は、今まで着ていたものだろう」
「皇太后様につけていただいた侍女が、平民の下では働けないそうなので――不満のあるところで働くのは気の毒ですから、元の配置に戻ってもらいました」
「侍女がいなくて不便じゃないか?」
「……たぶん、これから先不便になるかもしれません。でも、私の出自がどうであれ、陛下が私を妃にすると決めました。崇め奉れとは言いませんが、侍女としての仕事をしないというのは――あまり賢くはありませんよね。自分の仕事をする気のない侍女は不要です」
翠珠はきっぱり言い切った。今まで、翠珠は自分に与えられてきた仕事は、きっちりやってきたつもりだ。
「皇太后様のご命令で私の下についたのに、皇太后様のご命令を守れないというのは、皇太后様を馬鹿にしているも同じです」
「……そうか」
「春永が来てくれたので大丈夫です……その、昨日は申し訳ありませんでした」
彼の前で、素直に頭を下げる。自分の過ちは認めなくては。
「急な話で驚きました。気持ちがついてきませんでした――でも、あんなことを言うべきではありませんでした……陛下」
どうしてだろう、胸が痛い。翠珠が「陛下」と呼ぶたびに、彼も切なげな表情になるだろうから。
「……いい妃になるとお約束します。ですが……一つだけ、お願いを聞いてはいただけませんか」
「翠珠の頼みなら、なんでも聞く」
そんな風に、簡単に断言してしまっていいのだろうか。けれど、彼がそう言ってくれたことに勇気づけられる。
「もし、この先、この国が戦に巻きこまれて、皇宮が攻められるようなことがあったら――後宮の門を開放してください。下働きの人達は、誰も守ってくれないから」
「なぜ、急にそのようなことを言い出すんだ」
「今は、まだ話せません。でも、その時が来たら、お話します」
「わかった。約束する――翠珠」
そう誓ってくれた言葉は力強かった。翠珠の側にやってきた彼に手を取られ、耳まで熱くなる。
「騙したみたいになって悪かった。俺も――俺も、ただの『海志縁』として出会えていたら、よかったと思う。七夕節の日に、そう思った」
彼の口から出てきたのは、窓の外側と内側で、一つの菓子を分け合った夜のこと。
「そうですね、あの日はとても……楽しかった、です」
翠珠は、自分の手を取った彼の手にもう片方の手を重ねた。運命から逃げようとして、しっかりとからめとられてしまった。
けれど、少なくとも「一度もお渡りのなかった妃」ではない。こうして、会話することはできている。
(もしかしたら、新しい未来を作ることができるかもしれない、この人と)
重ね合わせた手に力をこめる。その手の温かさに安堵した。