死亡エンドを回避せよ
――百花真愛。
それは、前世の翠珠が、病室のベッドの上で繰り返しプレイしたゲームだった。
ゲームはとある大陸にある五つの国のうちのどこを選ぶかで攻略対象者が変わってくる。そして、ゲームが開始した時点でこの国は滅びていた。
元崔国を選んだ段階で、攻略対象者となるのが皇帝の――ゲーム開始時には元皇帝である――の董文浩だ。
ゲームのヒロインと愛し合うようになった彼は、無事に国を取り戻す。幾多のライバルキャラを蹴散らしたヒロインは、復興した国の皇后となる。それでハッピーエンドなわけだ。
他の国を選んだ時も、後宮内の争いを勝ち抜かなければならなかったり、海賊と一緒に生活したりとなかなか波乱万丈だった記憶がある。
(……思い返せば思い出すほど腹が立ってくるんですけど……?)
なんて考えていることは表情には出さず、翠珠はひたすらに針を動かす。
現在翠珠は、牡丹宮で皇太后の針子として仕えている。
崔国の後宮には、花の名を与えられた宮が九つ存在する。本来ならば、その宮に妃が存在していなければならないが、現在使われているのは皇太后が居住している牡丹宮だけ。
それ以外の宮――蓮花宮、桃花宮、菊花宮、芙蓉宮、芍薬宮、梅花宮、桔梗宮、薔薇宮――は、主がいなくて無人のままだ。
「気を抜くことなく、細かな刺繍ね。すばらしいわ」
「ありがとうございます、易様」
声をかけてきた易夫人は、長年の間皇太后に仕えてきた女性だ。侍女やその他の宮女を束ねる立場にある。
日頃は皇太后の側に控えているのだが、時々こうやって裁縫部屋を視察に来る。彼女に叱られると、裁縫部屋の長にも叱られるので、毎回ぴりぴりした空気が漂う。
にっこりとして翠珠は頭を下げる。
商家出身の翠珠は、本来なら下働きから始めるところなのだが、刺繍の腕を買われての抜擢だ。他にも何人か、同じように貴族ではない娘が働いている。
翠珠の刺繍を誉めた易夫人は、次の針子のところに行き、仕上げを確認している。
(まずは、この後宮からどうやって逃げるかを考えないと)
基本的に一度後宮に入った者は、抜け出すことは許されていない。
翠珠が、父によって後宮に送り込まれたのは三年前のこと。現在の皇帝は、翠珠より三歳年長だから年の頃が合うというのも理由だった。
けれど、それ以上に父が望んだのは、皇帝の寵愛を得た妃の父として国の中枢に食い込むこと。外戚となることまでは期待していないようだが、ただの商人にしては、過ぎた野望ではないだろうか。
(まあ、うちのお父様は俗物だもんねぇ……)
刺繍針を動かしながら、翠珠は器用に遠い目になった。
当時の翠珠は、妃というものがどんな立場なのか理解していなかった。
『妃になれば、美しい衣を着て、座って微笑んでいればいいんだよ。お菓子も食べ放題だ』
という父の甘い言葉にまんまと乗せられたのが後宮入りを決めた理由だ。
そんな理由でほいほい乗ってしまった翠珠も翠珠だ。もう少し早く記憶が戻っていたら、父の言葉になんて乗せられなかったのに。
(ここがゲームの世界だって話したところで、そもそも「ゲームって何」って話になってしまうもんね……)
どうやってここから逃げ出そうか、頭が痛い。
膝の上に置いた絹地は、皇太后が皇帝と面会する時の衣だ。
数年前の流行り病により、皇宮で暮らす人の数はずいぶん減ってしまった。
前皇帝も流行り病で亡くなった一人だ。現在の皇帝文浩の弟達は、後宮を出て自分の賜った領地で「王」として暮らしている。
今のところ、ここで暮らしているのは、皇帝、皇太后、妃候補の娘達に、使用人達。およそ三千人ほどが働いていると聞いているが、翠珠にとっては主とその祖母以外存在しない世界だ。
今はすべての王は自分の領地にいるし、皇帝の恋人というか愛人というかそういった類の女性もいない。
(それにしても、どうやって”私”は皇帝の妃に潜り込んだのかな……?)
ゲームの中では、翠珠の他にも三人の妃がいたとか言っていたような覚えがあるが、今の翠珠にとって皇帝は雲の上の人。本当にどこでどうやって皇帝と出会ったんだろう。
皇太后に仕える宮女の一人ではあるが、特に目立った存在でもないはずだ。
「ねえ、翠珠。ちょっと手を貸してもらえる? ここの細工が難しくて……」
「いいわよ。ちょっと待ってて」
翠珠に話しかけてきた春永は、翠珠と同じように、貴族ではない平民出身だ。実家はたしか、酒造だと聞いている。
春永の手にしていた衣を受け取る。裾のところに、金糸で作った飾り物をぐるりと縫い付けるのだが、飾りの扱いに苦労しているようだ。
「こことここに待ち針を打って……これでやりやすくなったと思う」
「ありがとう!」
ぱっと顔を輝かせた春永は、翠珠が待ち針を打った衣を受け取り、一心に縫いはじめる。
この部屋には、十数名が働いているが、いずれも美貌の持ち主だ。
皇帝の手がつくことを期待して、どの家も美貌の娘を送り込んでいるのだから当然と言えば当然なのだけれど。
(……私も、比較的容姿に恵まれている方だもんねぇ……)
日本人としての記憶を取り戻した今、翠珠はしみじみと心の中でつぶやいた。
美の基準としてもっとも大事な艶やかな黒髪。大きくくてくっきりとした瞳にすっと通った鼻筋。口は小さく、黙っていれば人形にも見えるだろう。
今朝、鏡を見つめてしみじみと自分の顔を観察してしまった。白く滑らかな頬、細く長い首。どちらかと言えば、華奢なタイプでもある。
前世と違うのは、翠珠は完全な健康体というところか。
今、翠珠は襦裙と言われる衣を身に着けている。肘にかけるひらひらとした布は、裁縫の邪魔なので、外して後ろに放り出していた。
皇太后の身に着けるどっしりとしたえんじ色の衣に、金糸と銀糸をふんだんに使って刺繍を施していくのだが、模様が細かいので気を遣う。
(どうして、陛下はこんなに美人ばかりなのに誰にも手を出していないんだろう)
なんて、ちょっと下世話な想像もしてしまう。
彼の即位の折に、翠珠のように後宮に送り込まれた娘はたくさんいるけれど、誰にも手を出さないまま三年だ。
(……いつ、私は妃になるんだろう。国の滅亡までそんなに時間ないよね……?)
今のところ、皇太后のところでこうしてちくちくと針を動かすしかしていない。
皇帝が祖母に会いに来た時、茶を出したり酒肴を運んだりするのは皇太后の身近に仕える侍女達だ。
彼女達も当然、皇帝の妃候補として皇太后の側にいるわけで、好みの美女がいれば、指名すればすむ話だ。
けれど、翠珠の身分では皇帝と顔を合わせる機会なんてあるはずもない。
ゲームの中で、亡国の妃として名前だけは出ていたけれど、針子からどうやって妃になるのかははなはだ疑問だ。
(いや、別に妃になりたいわけでもないんだけど! そんなことになったら逃げだせないし!)
今はとにかく、後宮を出ることを考えなければ。
実家に帰ることさえできたら、もっと自由に動くことができる。
まずは自分と家族が生き残ることを考える。国が滅びるのが気にならないと言えば嘘になるが、そもそも国全体のことを考えるのは翠珠の役目じゃない。
「皇太后様にお願いしても、無理よねぇ……」
「何か言った?」
「ううん、なんでもないの」
心の中の声が思わず漏れていた。不思議そうに問いかけてきた春永に慌てて首を横に振る。
国が滅亡するまでは、たぶんまだ少し時間がある。
休憩時間になったら、覚えている限りのことを書き出しておこう。翠珠はそう決めた。