私は、亡国の妃にはならない
「――悪かった。すまない――許してほしい」
ぽたりと落ちた翠珠の涙に、皇帝は動揺したようだ。
彼が目の前に膝をついたのもわかったけれど、顔を上げることができなかった。
「それに、君だって俺のことは嫌いではなかっただろうに。むしろ、好いていただろう? こんな手巾を贈るほどには」
「それは、友情の印です……陛下」
けれど、誰に対しての友情だったんだろう。
時々気の弱そうに笑う、海志縁は、実在の人物ではなかった。何があっても俺が守ると言ってくれた彼は、手の届くはずのない人だった。
今目の前にいる皇帝が、自分の行動の自由を守るために作り出した存在。
「でも、それはもう捨ててください。私が友人だと思っていたのは、志縁様です」
「同じ人間だろうに」
「いいえ、違います。髪の色が変わったからじゃない。陛下と海志縁は違います。私が好きになったのは、海志縁であって、皇帝陛下ではありません」
――そして、恋をしたのも。
ほら、やっぱり。彼のことを好きになるんじゃなかった。
頭の中で、同じ言葉を繰り返す。
手の届かない人を好きになったりするから、余計な苦労を背負ってしまうのだ。
とんでもないことになってしまった。これでは、首を斬られても文句は言えない。
(……ごめんなさい、お父様)
心の中で父に詫びる。
けれど、皇帝は、翠珠をとがめたりしなかった。手巾を握りしめたまま、つらそうな表情になっただけ。
「――わかった」
そう言い残すなり、彼は出て行ってしまった。
ぱたりと部屋の扉が閉じられて、翠珠は一人残される。どうするのが正解だったのだろう。
皇帝と志縁が同一人物とは気づかなくても、ゲームの元皇帝と志縁が同一人物だと気づいてもよかったのではないだろうか。
(……なんで、気がつかなかったのよ……!)
そう自分で自分を責めるけれど、気づくはずもなかった。
なにしろ、ゲーム開始時点の彼は二十三歳の成人男性。それに、国が滅亡してから自分を鍛え上げたらしく、今の二倍くらいは大きく見えた。
それに彼の苦労は、翠珠には想像もつかないようなものだったのだろう。二十三歳という年齢より十歳近く年上に見えたし、表情も違っていた。
今の彼は、武官として通用するほどには鍛えているけれど、翠珠の知っている”彼”ほどではない。
(……完全に別人だものね)
と、ここで気づく。
(……待って。私……自分で、自分の首を絞めているんじゃないの?)
文浩が愛謝に語った過去はさほど多くない。
何人か妃はいたけれど、誰のところにも通ったことはなかった。
初めて恋をしたのも愛したのも愛謝で、だからゲームをプレイした時には、妃がいた過去についてはあまり深く考えなかったのだ。
それに気づいてしまえば、むくむくと恐怖心が沸き起こってくる。
今の翠珠の対応を見て、今後、彼が翠珠のもとに来ることはあるのだろうか。
今の今まで、「初めて恋をしたのも愛したのも愛謝」という言葉を、そのまま「誰にも一度も渡らなかった」と解釈していた。
けれど、今の翠珠の対応が、皇帝の心を遠ざけたのだとしたら――。
(私、自分から亡国の妃に向けて全力疾走してるんじゃない……?)
なぜ話してくれなかったのだと彼を問い詰めてしまったけれど、彼は翠珠と話をしようとしてくれたのではないだろうか。
あの時、まだもうひとつ話をしようとしていた。時間がなくなってしまって、翠珠は春永と共に慌てて仕事に戻ったけれど――。
(……馬鹿みたい)
自分の行動が、愚かだったのだと、落ち着いてみればそう思えてくる。
志縁に、友人がいないように見えていたのも、こうなって見れば納得だ。なるべく他の人と関わらないようにしていたのだろう。
(私、いろいろとひどいことを言ってしまったし……)
あの手巾を贈ったのだって、友人がいないからだ、と真面目に思い込んでいた。
年若い皇帝として、やるべきことをやろうとしていただけなのに、翠珠に彼を糾弾する資格なんてあるはずない。
(謝りに行かなくちゃ)
妃としての立場とか、どうでもいい。今はまず、彼に謝罪をする方が先だと思った。
「……誰かいませんか?」
声をかけてみるけれど、薔薇宮の中はしんと静まり返っている。
(……変なの)
少なくとも、使用人が一人や二人はいてもよさそうなものなのに。
宮の中を一通り見て回るが、侍女などの翠珠の身の回りの世話をしてくれる者はいないようだ。
入り口近くの部屋まで来て、ようやく侍女が二人いるのに気付く。皇太后のところで働いていた侍女だ。先ほど、皇太后に目通りする前に支度をしてくれた侍女達の中に二人もいた。
「――皇帝陛下にお目通りを願いたいのですが、どうしたらいいですか?」
翠珠が来たのに気付いたらしい侍女達は、こちらを見た。くすりと意地の悪い笑いが漏れる。
「お妃様の方から、お目通りを願うことはできませんわ」
「それが、この宮での決まりです」
顔を見合わせている彼女達の表情は、どう贔屓目に見ても翠珠のことを馬鹿にしていた。むっとしたけれど、それがこの宮での決まりだと言われればそれまでだ。
「――そう。わかりました」
翠珠は負けまいと、侍女達を見る。
「何度も声をかけたのですが、聞こえなかったようですね。それなら、いいです」
彼女達がいなければ、身支度をできないと思われているのだろう。だが、こちらは侍女がいなければ何もできないという生活をしてきたわけではない。
翠珠の言葉が虚勢ではないということを悟ったのか、二人とも不満げな顔になった。
「易夫人にお願いしてみます」
言うなり、くるりと踵を返して自分の部屋へと戻る。侍女達が翠珠を呼び止めようとするのは聞こえなかったふりをした。
易夫人に言いつけられたくなかったら、返事くらいしてくれればよかったのだ。地位が上がったからと言って、威張り散らすつもりはなかった。
(……まったく、こんなわかりやすい意地悪をするなんて!)
侍女達の対応に腹を立てたせいか、自分が望んでいない立場に置かれたことも頭から消し飛んだ。
妃の位を賜り、薔薇宮に入っただけで自分自身が偉くなったと思うのは傲慢だろうが、序列すら守ることのできない侍女は無能だ。
今までは彼女達に逆らうことがなかったから、あのやり取りで翠珠が
(そうよ、私は健康だし、自分の足で歩いて行ける。だったら、遠慮することはないわよね)
先ほど着せ付けられた豪奢な衣をばさばさと脱ぎ捨てる。ずっしりと刺繍の入った衣は重かったので、肩からその重みが消えたらほっとした。
(……明日、易夫人のところに行って聞いてみよう)
いきなり薔薇宮に入れられたものだから、心の準備だけではなく、身につけなければならないこともできていない。
これから先、与えられた立場にふさわしく行動しなければならないのなら、学ぶべきことはたくさんあるだろう。
考えてみれば、以前の立場より、動きやすくなったと言えばなったのかもしれない。これからは、皇帝と言葉を直接かわす機会もあるわけだ。
薔薇宮に持ってきた裁縫箱の中から、覚えている限りのことを書き出した紙を取り出す。
戦のことなんて翠珠にはわからないけれど――。
国力が衰退するにいたった事件は、これから先もうひとつ控えている。
(流行り病……ああ、それからもうひとつ)
流行り病のあと、この国に攻め込んでくる隣国、遼国。この国の動向にも気を配っておかなければならないだろう。