薔薇宮の妃
薔薇宮に入る、ということは翠珠が妃――に選ばれたということだ。
たしかに、この後宮で生活している以上、どの女性も妃候補と言えなくもない。
(――だから、貴族になった?)
父が貴族に叙せられたのも、翠珠を妃にというのならわかる。
――だって。
貴族でなければ、妃にはなれない。
逆を言えば、娘が妃に選ばれれば、貴族となることができる。
だからこそ、出世したいという者は、後宮入りの機会があれば娘を差し出すのだ。侍女になれなくても、どこかで皇帝の目にとまることを期待して。
「い、いや、間違いでしょう……」
呆然として、そんな言葉が口をついて出る。
間違いだ。
こんなの間違いに決まっている。
今まで、口にしたことはなかったのに。こんな時になって、その人の顔が頭に浮かぶ。
(志縁様……!)
だが、ここに来た以上、その名を口にすることは許されない。そんなことをしたら、彼にも迷惑をかけることになってしまう。
(……きっと、どこかで油断してたんだわ)
食糧不足を回避したことで、歴史を変えたつもりになっていた。歴史さえ回避してしまえば、問題ないと思っていたのだ。
自分の認識の甘さに頭が痛くなってくる。
(……これから、どうしたらいいものか)
床にぺたりと座り込み、室内をぐるりと見回す。
人の住んでいない宮であっても、手入れは完璧に行われていた。
(……お妃様の住まいだけあって立派よね)
と、現実逃避してしまうのは自分がここにいていいとは思えなかったからだろう。
真っ白に塗られた壁には、絹で織られた飾り布が張られ、室内の空気を柔らかなものに変化させている。
置かれている調度品も紫檀、螺鈿細工と高価なものばかり。惜しみなく金や銀もあしらわれていて、触れるのもためらわれるほどに美しい。
(……でも、なんで?)
そんな疑問が頭に浮かぶ。
皇帝と顔を合わせたことはなかった。
皇太后に気に入られたというが、それはあくまでも針子としてのこと。いくらなんでも皇帝の妃になんて話が飛び過ぎだ。
落ち着かない。部屋の中にいるのに落ち着かない。
自分の部屋にあった荷物を持ってくることだけは許されたから、前世の記憶を記した紙もなんとか持ち出すことができたけれど、これから先どうしたものか頭を抱え込みたくなる。
(私、どこで間違えた?)
妃になるつもりはなかった。後宮から出る許可をもらえればそれでよかった。
最初に、皇太后に会った時に、後宮から出る許可をもぎ取れなかったのが敗因なんだろうか。
頭痛を覚えて、思わず小さくうめく。
(本当に、なんでこんなことに……)
不意に扉の開く音がして、室内に誰か入ってくる。
立ち上がった翠珠は、相手の顔を見て硬直した。どうして、彼がここにいるのだ。
「――志縁様!」
だめだ。彼がここにいるのは非常にまずい。
慌てて追い出そうとしたら、彼はゆっくりと片手を上げた。
「志縁様、その――」
そう声をかけたけれど、その先を続けることはできなかった。彼の身に着けている衣が、普段見ているのとまるで違うものだと気づいてしまったから。
紺に金糸で刺繍の施された豪華な衣――それは、武官ごときが身に着けることなどできるはずのない品だった。
「……どういうことですか?」
「今まで、黙っていて悪かった」
そう志縁が言う。
翠珠は一歩、後退した。
(聞きたくない――聞いてしまったら、間違いなく引き返せなくなる)
頭ではわかっているのだ。聞こうが聞くまいが、すでに引き返せないことなど。それなのに、往生際悪く現実逃避しようとしてしまう。
「俺の名は、董文浩」
「ち、違う――違う、そんな、の」
けれど、今聞いた彼の声は、今まで聞いていた声とまるで違う。服装を変えるのと同時に、中の人間まで変わってしまったかのようだ。
「嘘です、そんなの」
わかっているのに、否定したいという気持ちの方が強すぎて――手で顔を多い、現実から目をそむけようとする。
「……これでも?」
それなのに、彼――志縁と言えばいいのか、文浩と言えばいいのか――の言葉に操られるみたいにして、顔を上げてしまう。
頭に手をやった彼が、そっと手を動かす。そうすると、彼の髪がするりと落ちた。
(……鬘をかぶっていたのね)
異国の血が混ざっていると聞いていた。だから、髪の色が他の者達と比べると明るいのだと。
それなのに、鬘をとったあとは他のものと変わらぬ黒髪。髪の色が変わっただけで、顔立ちまで大きく変化したように見える。
「――どうして」
志縁のことは嫌いじゃなかった。いや、彼のことが好きだった。だからこそ求婚を受け入れた。
いつか運命に引き裂かれるかもしれない。そうじゃなかったとしても、身分違いだ。父が貴族に叙せられて少しだけ、釣り合うのではないかと期待した。
懸命に押さえつけようとしていた気持ちが、踏みにじられたような気がした。
「なぜ、他の人物になりすまして、後宮内にいたのです……?」
つい、そんな言葉が口をついて出る。
別人の名を名乗り、鬘をかぶって、姿を変えてまで。翠珠は、皇帝の顔をきちんと見たことがなかった。
針子の部屋は、皇太后の部屋とは離れている。皇帝が皇太后のところを訪れる際、姿を見かけることはあったけれど、それも遠くから。
もしくは、皇帝が通り過ぎるまで頭を下げていなければいないから、顔を見ることなんてできるはずもなかった。
「最初のうちは、母上に政治上の助言を求めてのことだった」
彼が即位したのは、十五歳の時。政治についての経験は浅く、年長者の助言が必要だった。だが、母親にしばしば助言を求めるのでは、家臣達に示しがつかない。
それで、亡くなった遠い親戚の名になりすまし、密かに助言を求めに来るようになったのが始まりだったそうだ。
今は、母親の助言は必要ない。だが、それでも彼は海志縁と名乗るのをやめなかった。
「この姿でいれば、街にも出やすい。様々なことを見聞きしてきた。皇帝のままでは知らなかったことを知ることができるからな」
それでと納得した。
国が征服されたあと、なぜ、彼が生き延びることができたのか。
きっと、ゲームの世界でもこうやって街中の様子を見ていたのだろう。市井の状況に詳しかったから、民の中に紛れることができたのだ。
(……そうよね、ゲームの中でも悪い皇帝ではなかった……と思う)
食糧不足を招いたのも、この世界では天候の不順は予測できないため。疫病が流行ったのだって、間が悪かっただけ。
食糧不足で皆体力が落ちていたから、病気に対抗しきれなかった。そこに攻め込まれれば、戦に負けてしまうのもありえなくはない。
けれど、彼は、なんとか生き延びた。生き延びて、ヒロインと会って。
そして、国の再興を誓った――そこに、翠珠の姿はなくとも彼は幸せだったのだ。
(……だけど、私はこんなの望んでた?)
「私は、後宮を出たいって――何度も言ったじゃないですか」
「だめだ」
弱々しく抗議するけれど、その抗議は一蹴された。彼は翠珠を見て続ける。
「李翠珠の名は、もうあちこちに知られている。だからこそ、外に出すわけにはいかないんだ」
「そんなの、勝手だわ――!」
尖った声が出た。
正体を隠されていたのも。
翠珠の気持ちを無視してここに連れてきたのも。
何度かその類の話はしたけれど、いつだって、自分は皇宮の外に出たいのだと主張してきたはずだ。
それなのに、彼は翠珠を裏切った。
頭の中はぐちゃぐちゃで。心はずたずたで。
「勝手だ」と彼をなじったあとは、言葉が続かない。
(……馬鹿みたい。こんなことになって初めて気づくなんて)
なぜ、後宮一番乗りの妃として、翠珠を薔薇宮に入れたのだろう。
うつむき、唇をかみしめたら、床の上にぽたりと涙が落ちた。