求婚
食事が終わったあと、なぜだか四人そろって庭に出ることになってしまった。
「ねぇねぇ、わかってるでしょ!」
「……あ、ええ……、え、ちょっと待って!」
意味ありげにそうささやいた春永は、馬医師を連れてさっさと行ってしまう。
異性と二人きりでいるところを見られるとあまりよろしくないのだが、庭園内の散歩道を外れない限りは、上からもお目こぼししてもらえる。宮中で恋人を見つけた者は、そうやって愛を育むのだ。
二人が先に行ってしまったので、自然、残された二人が並んで歩くことになった。
「李家は、今回も手柄だな」
「――そうだといいんですけど。一番大切なのは、食力不足をどうにかすることなので。父は、お力になれたんでしょうか?」
「近いうちに、皇太后様から、沙汰があると思う」
「そう、ですか……」
翠珠は黙り込んでしまった。
父が手柄を立てれば、皇太后と目通りが許される。今度こそ、後宮を出たいと告げることはできるだろうか。
(……話の持って行き方が難しくはあるのよね)
一度、皇太后が刺繍の腕を誉めてくれ、このままとどまるようにと言ったのだ。翠珠が、またもや実家に帰ることを願えば、皇太后の顔に泥を塗ることにもなりかねない。
(……どうしよう)
なんて考えていたら、不意に志縁が足を止める。
「――翠珠」
「はい……? あの、何か?」
立ち止まった志縁は、翠珠の方に真面目な目を向けた。あまりにも距離が近くて、思わず一歩、後退する。
「――俺と結婚してほしい」
「……え? 何、馬鹿なことおっしゃってるんですか」
思わず裏返った声が出た。志縁から、求婚されるなんて思っていなかった。
「……そこまで否定されると、若干傷つく」
笑いを交えてごまかそうとする。志縁と、こんな風になりたいわけじゃ――。
(本当に、そう思ってる?)
心の奥の方から聞こえてくる声。
それには全力で耳をふさぐ。
聞こえていない。何も聞こえてはいないのだ。
身分も、容姿も、志縁と翠珠では釣り合わない。
けれど、自分が皇帝に見初められるという未来がありえることもまた翠珠は知っている。
そうなった時、志縁に迷惑がかかるのも怖かった。
たまたま口をきく機会があったから、少し親しくなったから、それで彼のことが気になっているだけ。
そう言い聞かせようとしているのに、言葉は勝手に口をついて出てしまう。
「縁談あるんですよね。何言ってるんですか」
「ああ――。あれは、断った」
「断っちゃったんですか?」
「気が進まないって前に話しだろう」
以前、志縁の相談に乗ったというか――父がどのように商売敵を追いやってきたのかを、話した。まさか、それを実践したというのだろうか。
「相手に、好きになった男がいたそうだ。そんなことで無理やり結婚しても気の毒とは思わないか?」
「……そうですね」
政略結婚ではなく、恋愛結婚を選んだということか。それが許されるのなら、きっと彼女の恋人は、志縁と同じくらいかそれよりも身分や財力がある相手なのだろう。
「意外とお優しいところもあるんですね。そんな理由で縁談を断るなんて」
「意外って、そんな言い方をしなくても」
またもや、志縁が困ったように笑う。意地の悪いことを言ったつもりはなかったので、そんな顔をされて困惑した。
(……嫌だな、こういうの)
嫌だ、というのは彼のことが嫌だからじゃない。
出会ってさほど長い時間が過ぎたというわけでもないのに、彼のことをもっと知りたいと思い始めている。
ぐるりと庭園を見回すと、向こうの方に春永が見える。馬医師とひそひそやりながらこちらを見ているのは、こちらの様子が気になっているのだろうか。
春永に見られていると思ったとたん、耳が熱くなった。
「どうだろう。俺の求婚を受けてはもらえないか。他の縁談もすべて断った――俺にだって、想い人がいる。その人以外は嫌だと言った。俺には君が必要だ」
「――でも、身分が違いますよ」
下を向いた翠珠はぼそぼそと言った。志縁は間違いなく貴族で、翠珠は商人の娘。最初から釣り合いなんて取れていない。
必要だと言ってもらえたのは嬉しかったけれど。
「そんなの、俺は気にしない。翠珠も気にしなければいい――」
「そういうわけにもいかないでしょう」
貴族の家に嫁ぐというのはどういうことか、後宮で暮らすようになってから知った。望まれて嫁いで行っても、幸せな未来を迎えられなかった者もいる。
翠珠はそれが怖かった。
「――俺が守ると言っても?」
頼むから、そんな風に真摯な表情でこちらを見るのはやめてほしい。
それなのに。
「……本当に守ってくださいます?」
まるで彼の提案を受け入れているような言葉を吐き出してしまう。
「あ、でもその前にひとつ、話しておかないといけないことがある。返事は、それを聞いてからにしてくれ」
「なんでしょう?」
「翠珠は、後宮を出たいと言っていただろう。だが、俺と結婚したら、それは不可能になる」
志縁の言葉に、翠珠は目を瞬かせた。彼と結婚したら、後宮から出られなくなるとはどういうことか。
「ええとだな、生活の基盤はここになる。外に出る時には、許可が必要だ。今までよりも取りやすくはなると思うが――」
今は外出許可は、裁縫部屋担当者に頼むことになっているが、許可が下りることはまずない。翠珠が皇太后の命令で、街に出たのは例外中の例外だ。
だが、既婚の侍女などは、皇太后の許しがあれば外に出ることができる。易夫人などは夫とは別居で皇太后に仕えているため、時々は自宅に戻るのだとか。
これは、後宮にいる未婚の女性はすべて皇帝の妃候補――実際には、翠珠達のような下働きの者ではなく、侍女が選ばれるとしても――という理由によるものだ。外で逢引きされては困るということらしい。
既婚の侍女は、皇帝の妃になれるはずがないので、対象外ということのようだ。妃も外出を許されるが、多数の護衛を連れてものものしい外出となる。
「ひょっとして、志縁様って、皇族の血をひいてらっしゃるんですか?」
後宮で暮らしている人の可能性について、もうひとつ思い当ることがあって、その問いを口にする。
何人か、後宮内の花の名がついていない建物――殿と呼ばれる――に居住している者がいるそうだ。
たとえば、先帝の従兄弟だとか、正式には子供として認められていない皇族の庶子など。
彼らは、皇宮内でなんらかの役目につき、その役目のために前宮と後宮の境目あたりの殿で暮らしているという噂を聞いたことがある。
その噂が本当かどうかは別として、警護も仕事に含まれるのだという。となれば、志縁が皇太后の警護についているのもわかるような気がした。
他の部署との兼任だったとしても、皇宮内に住んでいるのであれば、皇太后としても呼び出しやすいだろう。
「皇族の血をひいている、というか――」
気まずそうになった志縁は、そっと視線をそらした。
「翠珠、やはり先に、言っておかなければ不公平だと思う」
「まだ、何か?」
志縁はさらに言葉を重ねようとしたけれど、その時馬医師と春永がこちらに戻ってきた。春永はいささか慌てているようだ。
「大変、休憩時間が終わっちゃう! 遅れたら、怒られるわよ!」
「もうそんな時間?」
「鐘が鳴ったでしょ、鐘が!」
志縁の話にあまりにも動揺していたからか、鐘の音がまったく聞こえていなかった。遅れたら大目玉だ。
「ごめんなさい、私達もう行かないと――あの、先ほどの話は、父に聞いてみてください。私一人ではなんとも言えないので」
志縁が縁談を申し込んでくれたのは嬉しい。
この気持ちを、認めないようにしていたくせに――。父に聞いてくれというのは、受け入れたも同じことだ。
けれど、許可を得さえすれば、後宮から出られるというのなら、翠珠のやろうとしていることには問題がない。
身分の問題も、きっと乗り越えられるだろう。俺が守る、なんて言われたらついていくしかないではないか。