広まり始める噂
七夕の夜以来、志縁との距離が変わってきた気がする。
というか、しばしば裁縫部屋に彼が立ち寄るようになったのはなんでだろう。
と、食堂で零したら一緒に食事をしていた娘達に呆れられてしまった。
「……そりゃ、あなたに興味があるからでしょうよ」
「だって」
こちらを見る春永の目が冷たい。
食事は、厨房の隣にある共同の食堂で食べるか、そこで分けてもらったものを自分の部屋まで持って帰って食べる。食器を戻すのは面倒だから、何もなければ食堂ですませるのがいつものことだ。
後宮に入ってからは、こうして集まって食べるのにもずいぶん慣れた。蒸かしたばかり、ほかほかの肉饅頭をかじりながら、春永が言った。
「あなただけじゃなくて、李家のこと、けっこう噂になってるわよ」
「噂って?」
実家が噂になるようなこと、何かあっただろうか。眉間に皺を寄せながら、翠珠も肉まんじゅうにかぶりつく。
「皇太后様の覚えがめでたくなって、都で羽振りをきかせてるって」
「そんなの、私にはわからないわよ」
そんな外の世界の噂話をされてもピンとこないのだ。中に豚肉の餡をつめた饅頭にかぶりつく。じわりと広がる豚のうまみがいい。
「だいたい、私の立場が変わったわけでもないし」
何か変化があるかと思ったら、特にない。
「そんなことないでしょう。衣を出す役目、翠珠に回されることが多くなったじゃない」
「……それだけでしょ?」
命じられた衣を、皇太后の侍女に届ける役目は、最近翠珠が指名されることが多くなった。
志縁と顔を合わせる回数がやけに増えたと思っていたが、それは、衣を届けた帰りに立ち話をすることが増えたからだ。
ついでに彼が翠珠を送ってくれて、裁縫部屋の前で別れる。
(……言われるまで、全然気づいてなかった)
以前は、衣を束ねる役目に毎度指名なんてされなかった。命令を伝えに来た侍女が、適当にその場にいた者の中から指名していたし、名前を憶えていないらしく、「そこのあなた」で呼ばれていたのだ。
それなのに、最近は翠珠が指名されることが格段に増えた。
「きっと、皇太后様は、海様のお気持ちに気づいてるのよ」
「そうそう、それで縁を取り持ってくださるおつもりなんじゃない?」
春永の言葉に、他の娘が同意する。
そんなことを言われても。
(……でも、大丈夫なのかな)
皇帝とは相変わらず出会ってないし、妃になる未来はつぶれた気がする。
――それなら。
(いや、ダメに決まってるでしょ)
うっかり、自分と志縁の間にある壁を忘れそうになっていた。危ない。
「物事は、そうはうまくいかないわよ」
と笑ってごまかす。
国が滅びないのなら、今の生活のままでいいのだ。
「ほら、噂をすれば」
不意に春永がこちらをつつく。
顔を上げたら、視線の先に志縁がいた。緊張してしまうから、こういうのはやめてほしい。
珍しく志縁と一緒にいるのは、馬医師だ。
自分が齧りかけの肉餡饅頭を持ったままでいるのに気付き、慌ててそれを皿の上に戻す。
いつもなら気にしないのに、二人にからかわれたあとだからか、かっと顔が熱くなった。
「や、やだ、どうしよう。私、おかしくない?」
馬医師に好意のある春永が慌て始める。おかしくないかと問われても、この場で化粧を直し始めるわけにもいかない。
翠珠も春永も固まってしまったまま見ていると、志縁は馬医師と一緒にこちらに近づいてきた。
「――やあ」
よく見たら、馬医師も遠目に見ていたよりずっと若い。まだ、二十代前半ではないだろうか。それで皇太后の侍医になるのだから、かなり優秀な医師なのだろう。
「馬医師は、どうしてこちらにいらしたのです?」
「皇太后様に呼ばれてね。まだ食事をしていなかったものだから」
「ああ、それで――何があるか見てきましょう。と言っても、肉饅頭と汁物くらいしかないと思いますけど」
翠珠は腰を浮かしかける。
どこで食事をしようがかまわないのだが、ここで出されているのは完全に庶民向けの料理だ。侍女達には、きちんと膳を整えた食事が運ばれる。
馬医師も志縁もどちらかと言えば、貴族側だから、ここでの食事が口に合うのか少し不安だ。
「ああ、いい。俺が行ってくる。ここは何度か使ったことがあるから。君は座ってて」
そう言って翠珠をとめた志縁が食事係の方へ行くのを待っていたように、馬医師は翠珠の方を向いた。
「君が、李翠珠?」
「はい、そうですけど……?」
「遊睡草はどこで入手した?」
馬医師が何を問いかけてくるのかと思ったら、皇太后のために入手した薬草をどこから持ってきたのかということらしい。隠すほどのことではないので、素直に口にする。
「父に頼んで取り寄せてもらいました。どこから持ってきたのかまでは……」
「そうか。もう少し欲しいんだけど、どうにかならないかな?」
切れ長の目が、翠珠を真正面からとらえる。
(……なんというか、ものすごい美形……!)
穏やかな雰囲気の志縁とはまた違う魅力の持ち主だ。
涼やかな切れ長の目元、すっと通った鼻筋。唇が薄いのはいくぶん酷薄そうにも見えるけれど、その分多少のことでは動じないようにもとらえることができる。
ほっそりとしているのは、医師であり、武人ではないからだろう。長い髪を首の後ろで一つに束ねていて、淡い色の袍を身に着けている。
「どうにかって言われても……」
すっと目を細められて、翠珠はどぎまぎとした。隣にいる春永が、卓の下で腿をつねってくるのが地味に痛い。
「あの、父の店に言ってもらえれば、たぶん。ただ、入手が難しいと聞いてるので、時間はかかるかも……い、今の時期だと乾燥したものしかないと思います。たしか、雪の深い時期に雪山で採れるそうですから」
慌ててそう返すと、翠珠をにらんでいた目元がすっと柔らかくなる。ぴりっと張りつめていた空気が和らいだようで、はっと息をついた。
「……そうか。どこにあるのかを知っていたわけではないのか」
「知るはずないですよ! 何言ってるんですか!」
このところ、志縁と話すことが多かったのが災いしたのか、馬医師の前だというのにうっかり地が出た。
(い、いたああああああいっ!)
すかさず隣の春永に腿をつねられる。
「いや、君は麦の不作も予想していたと言うから。何か、すべてを見透かす力を持っているのではないかと」
そんなことを言われて背筋が冷えた。
(……前世の記憶があるだけだし……)
しかも、その前世の記憶だって、正確なものとは言えない。父が動いている以上、食糧不足は無事に解決する可能性だってある。
「……それは宮中の噂話を聞いて推測しただけですよ。っていうか、私のことそんな風に噂になってるんですか?」
「そうだよ。ねぇ志縁」
二人分の料理を持って戻ってきた志縁の方に、馬医師はにっこりとして見せた。
「ああ……」
まったく、そんな噂になっているとは知らなかった。
早めに後宮を出られるよう地味に生きていきたかったのに、どうしてそうなった。
「海様は、翠珠のことをどう思ってるんですか?」
こういう時、空気を読まないのは困る。春永がぐいっと身を乗り出した。ひょっとして、馬医師の興味を翠珠から引き離したかったのかもしれない。
「ど、どうって……」
問われた志縁の方も困惑しているようだ。
そんなことをいきなりふられても、彼だって困るだろう。卓の下で、春永の脚を蹴り飛ばしてやる。
「いたいっ!」
不意に声を上げた春永に、二人とも怪訝な目を向ける。
「な、なんでもないです……」
首をすくめた春永に向かって、志縁は微笑んだ。
「そうだな、とても大切な人――かな」
かぁぁっと頬が熱くなる。
どうして、そんなことを、今この場で言うんだろう。一緒にいる同僚達が心の中で悲鳴を上げたのが聞こえたような気がした。