この気持ちだけは育ててはいけない
七夕節当日。宮中は朝からにぎやかだ。
今、後宮には皇太后しかいないが、貴族達が朝から皇太后のご機嫌伺いにやってくる。
針子である翠珠達は特にいつも以上に忙しいということはないのだが、皇太后の侍女達は、朝から客人の接待をするのに忙しくしているようだ。
昨日のうちに庭園も飾り付けられ、美しい五色の紐が庭園の木々に渡され、側には提灯が準備されている。夜になったら、火を灯して木に吊るすのだ。
(……去年も一昨年もこんなだったわよね。)
前世の記憶が戻ってから初めての七夕節だ。
夕方に皇帝が皇太后を訪れるというから、侍女達は、その時を狙って手巾を渡すのだろう。もっとも、皇帝がそこまで侍女を近づけるかどうかはわからないけれど。
(なんで、陛下はお妃様を娶らないんだろう。っていうか、この状況から私が妃になるってありえる?)
皇太后の側にいれば、皇帝と顔を合わせる機会もあるだろうが、今のところ翠珠が侍女に出世しそうな気配はない。
妃になりたいわけではないからそれはそれでいいのだけれど、自分の先行きが見えないのははなはだ不安だ。
何も知らなかったであろうゲーム内の”翠珠”とは違い、翠珠は逃げ出す算段をしているわけではあるが。
今のところ、戦が始まるまでになんとか後宮から逃げ出すことが第一目標。父が手柄を立てれば、また皇太后と謁見する機会を持つことができる。
もう一度そこで頼んでみるつもりだが――それでも無理だったら、なんとか機会を作ろうと思っている。最悪、志縁と出会ったあの木のところから実家に逃げるしかないだろう。
翠珠一人のことならば、それでいいのだ。
(どうせなら、皆も一緒に逃げたほうがいいよねぇ……)
皇太后を逃がすのは、荒事の専門家である武官に任せるとして。
侍女達も、彼らが守ってくれるだろう。ひょっとしたら、実家から護衛が送られてくるかもしれない。
翠珠達みたいな平民にまで護衛はつけてもらえないだろうから、自分達だけでどうにか逃げる方法を見つけ出さなくては。
(皆が皆、塀を越えるのは無理でしょ、となると……)
どこかの門を使うしかないだろうけれど、敵が攻めて来たらしっかり閉ざされそうだ。隠し通路のようなものがあればいいのだが、そういったものはあるのだろうか。
仕事がないのをいいことに、庭園内をうろうろとしていたら向こう側から志縁が歩いてくるのが見えた。今日も彼は一人だ。
「君はいつ見ても、うろうろしてるんだな」
「私は、今日はお休みですもん。志縁様こそ、こんなところにいていいんですか」
「俺は仕事の一環。警護に穴がないか確認しているところだ」
「ああ、そうなんですね」
春永は、思う相手に手巾を渡せたのだろうか。
なんて思っていたら、つい志縁をじっと見つめていた。
「どうした?」
「志縁様、手巾もらいました?」
「手巾? いや、もらってないが……」
「それは気の毒ですね。じゃあ、これあげます」
翠珠が懐から取り出したのは、皆が比翼の鳥や鴛を刺繍している側で、せっせと刺繍した遊睡草の手巾だ。
「――こういう時は、仲睦まじい鳥を刺繍するものじゃないのか」
「だって、私と志縁様って友達でしょ? そういう関係じゃないですよね」
そう言ったら、なんだか相手は複雑な顔をしている。
けれど、彼にはそれ以上かまわず、翠珠は手巾を押し付けた。
「お父様からもらった上質の布を使っているので、使い心地はいいですよ。がんがん手や顔を拭くのに使ってください」
「これほど見事な刺繍が施されているのに、手を拭けるはずないだろう」
皇太后に気に入られる程度の腕を持つ翠珠が、丁寧に刺繍したものだ。布も、豪商である父にねだって持ち込んだもの。
「なくなったら、またあげますよ。暇つぶしにいっぱい作ってるし」
「暇つぶしって……」
志縁が、あきれたような声を出す。
「しょうがないんですよ。針子余ってるんですもん。皇太后様おひとりの着られる衣装の数って限られてるでしょ? かといって、部屋を出てふらふらしているわけにもいかないから、他の人達の繕い物を引き受けたり、刺繍をしたりしてるんですよ」
それでも時間があまる時はあまる。
遊んでいるのが申し訳なく思えることもあるが、こればかりは翠珠にはどうしようもない。
「……そうか」
「お妃様がいたら、違うんでしょうけどねぇ……。たぶん、未来のお妃様のために、腕のいい針子を押さえてるんだと思うんですよ。厨房で芋の皮むきとか洗濯係とかさせてくれてもいいんだけどな」
厨房は厨房で、十分な手があるし、洗濯係も必要な数がそろっている。翠珠が頼まれもしないのに手を出すわけにもいかないのだ。
誰かの手によって汚された衣を自分で洗濯したこともあるが、それは例外だ。普通は、衣は洗濯係に任せることになっている。
「わかった、では、これはありがたくいただいておこう」
「よかった。見栄を張る必要があったら使ってください」
この日、誰からも手巾をもらえないというのは、男性にとっては恥ずかしいことなのだと聞いたことがある。
「ありがたいけど、見栄をはる必要はないんだ」
憎まれ口をたたいてしまったけれど、志縁ならたぶん誰かから手巾をもらうのだろう。
こういう時、数が多い方がもてる男の証明だと聞いているけれど、果たして志縁がそうやって自慢するかどうか。
「今夜の予定は?」
「特にないですね。部屋から花火を見るくらいかな」
翠珠は手巾を渡す相手もいないし、飾り物を贈ってくれるような異性の知り合いもいない。皆が留守にするから、夜に打ち上げられる花火を部屋で見る予定だ。
厨房でお菓子をもらえることになっているし、一人でも寂しくない。
部屋にごちそうを持ち込んだ翠珠のところへ、志縁が来たのは、あたりが暗くなった頃だった。
窓の外から声をかけられ、部屋の内側と外側での会話となる。
「志縁様、何してるんですか? 仕事は?」
「俺は夕方までの勤務だったんだよ。ほら、これをやる。手巾の礼」
「や、これはいただけないですよ。私が手巾を差し上げたのは、そういう意味ではないので!」
志縁が、布に包んだ何かを差し出したので、慌てて手を振る。
あまり大きくないところを見ると、耳飾りだろうか。志縁にあげたのは友情の印なので、そんなお返しをされても困る。
「絶対、必要なものだから。開けてみろ」
「……わあ。これは、いります。助かります!」
思わせぶりに綺麗な布にくるまれて差し出されたのは、刺繍に使う針だった。
複雑な模様を刺す時には、あらかじめ様々な色の糸を通した針を用意しておくこともあるので、本数があればあるほどありがたい。
「人に贈るものではないらしいが、友情の印を作ってくれた礼だ」
「ありがとうございます。大事に使いますね! 来年はもうちょっと凝った図案のものをさしあげます」
「……来年があるといいな」
なんて、志縁がつぶやくのも聞こえたけれど、たしかに彼が結婚してしまったら、来年には手巾を贈るなんてできないかもしれない。
「それから、これも」
「わあ、肉まんですね。ありがとうございます!」
厨房に寄って、もらってきたのだろうか。別の布にくるまれていたのは、蒸したてほかほかの肉まんだった。
「冷めないうちに食べるといい」
「――いただきますけれど、ちょっと待っててください」
ばたばたと部屋の奥に入り、白湯の入った器を二つ、持って戻ってくる。針子の部屋には、茶道具までは置いていないのだ。
「白湯しかなくて申し訳ないのですけれども。半分にしましょう! 私のお菓子も半分差し上げます」
「ねだりに来たみたいで悪かった」
「いえ! 一人で花火を見るのもちょっと寂しかったので!」
その言葉が終わるのと時を合わせるようにして、花火が打ち上げられる。
「始まったな」
一瞬だけ、彼の横顔に見とれそうになる。
(この気持ちだけは……これ以上、育ててはいけない)
胸が痛むのは、気づかなかったふりをして、無言のまま花火を見上げた。