想い人に渡す手巾を
宮中にも、噂話くらいは入ってくる。
やはり麦の不作が響いているようだ。昨年からの備蓄を放出しているものの、隣国太国や遼国からの輸入はまだ間に合っていないらしい。
(父さん、ちゃんとやってくれているかな……)
米を買い集めるよう頼んだが、父がそれをちゃんとやってくれているという保証はない。父の方から後宮に連絡をすることもなかなか難しく、翠珠の方もしょっちゅう文を出すわけにもいかないのだ。
そんな中、同僚達がそわそわし始めているのに気付く。
(ああ――もうすぐ、七夕節だもんね)
織姫と牽牛が年に一度の逢瀬を許される日。
織姫にちなんで、機織りをはじめとした手仕事が上達するよう祈りを捧げる日でもあるけれど、もうひとつ、恋人や夫婦が仲を深める日でもある。
(ゲームの中でも、そういうイベントあったな……)
日頃はここがゲームの世界、もしくはゲームによく似た世界であることを忘れそうになるけれど、折に触れて思い出す。たしか、この七夕節は、ゲーム内のオリジナル設定だったはずだ。
ゲームの中でもヒロインは、想いを寄せる相手に比翼の鳥を刺繍した手巾を手渡していた。
日頃女性の方から想いを告げるのははしたないとされているが、この日は別だ。思う相手に比翼の鳥や鴛を刺繍した手巾を贈る習わしらしい。
比翼の鳥というのは想像上の生き物だが、一つの翼、一つの目しかもたない。そのため、雄鳥と雌鳥が支え合うのだと伝えられている。
鴛と言えば夫婦円満の鳥。これらの刺繍は、「あなたと長く寄り添いたい」という意思表示なのだ。
男性の方からも、想いを寄せる女性に耳飾りや腕輪などの飾り物を贈る。この時期に結婚を決める者も多く、どことなく宮中がそわそわしているのだ。
特に翠珠達のように皇帝に目通りする機会がない宮女達にとっては、宮廷内に出入りする文官や武官達と縁を結ぶいい機会でもあり、ここぞとばかりに気合を入れて刺繍をする。
そんなわけでここ何日かの間、休憩時間になる度に皆は外に出ることなく、皇太后のための衣ではなく、自分のための刺繍にいそしんでいた。
「……って、なんであなた遊睡草なんか刺繍してるのよ」
翠珠の手元をのぞきこんだ春永があきれた声を上げた。今日の仕事は終わったので、広間に集まって皆で刺繍をしている。
他の人達がせっせと比翼の鳥や鴛を刺繍する中、翠珠はひたすら遊睡草を刺繍していた。
「だって、渡す相手もいないし」
「海様は……?」
いつかはそういう相手に出会えたらいいなと思うけれど、今のところそんな相手はいない。というか、そういうことにしておく。
(……私から、鴛の刺繍なんか渡されても迷惑だろうし)
彼は翠珠に”友人”だと言った。だから翠珠の方もわきまえて、その距離を保っておくべきなのだ。
それでも皆が刺繍をしている部屋に集まっているのは、誰か手を貸してほしいと頼んだ時のためだ。
「李翠珠、手を貸してもらえるかしら」
声高に命じたのは、皇太后に仕える侍女のうちの一人だ。侍女達も、皇太后の側についている者以外は皆、この部屋に集まっている。針子として働いている者の方が、刺繍の腕が上だからだ。
「かしこまりました」
自分の刺繍枠を置き、翠珠は呼ばれた方へと向かう。
侍女の刺繍を見ると、ものすごく下手というほどでもないが、上手ともいえない。なかなか微妙な出来だ。
「陛下にお渡ししたいのよ。ここ、もう少しどうにかならないかしら」
彼女が指したのは、比翼の鳥の目玉の部分だ。細かく刺そうとして、わけがわからなくなってしまったようだ。
皇太后と会う時以外、後宮を訪れることのない皇帝に手巾を渡す機会があるかどうかはわからないが、皇帝の寵愛を得るためにはそのぐらい積極的に行かなければならないのだろう。
「そうですね。目の周囲に明るい灰色の糸を使ってみてはどうでしょう? そうすると、目に表情が出て生き生きとすると思います。よろしければ、私が刺しましょうか」
そう提案したのは、彼女は目線で『やれ』と命じてきたからだ。果たして、その予想は的中した。
「やって」
かしこまりましたと頭を下げ、翠珠は刺繍枠を受け取って針を動かす。そんな翠珠の様子を見ながら、侍女は問いかけてきた。
「お前は手巾を渡す相手がいないと言っていたようだけど?」
「ええ。来年こそいい人に出会えるといいのですけれど」
刺繍の腕を買われて皇太后の衣装部に異動になっただけあって、翠珠の手は早い。あっという間に雄鳥の目の周囲を刺し終え、雌鳥の目に移る。
「海志縁と仲が、最近噂になっているけれど」
あーとうなった翠珠は、一度刺繍の手を止めた。なんて言ったら、伝わるだろう。友人ということにはなっているけれど、目の前の彼女にそれで通じるとも思えない。
「そうですね。時々、立ち話はしますけれど、それだけです。だいたい、身分が違うと思うんです」
一瞬手を止めたけれど、何事もなかったふりをして、再び針を動かし始める。侍女は意外だと言いたそうに目を見開いた。
「あら、意外と分をわきまえているのね」
「もちろんです。海様と私では、身分の釣り合いがとれませんもの」
そんな話をしている間、翠珠の手は止まらなかった。そして、あっという間に二つの目の刺繍を終え、刺繍枠を侍女の手に戻す。
「背中の部分にもう少し色を足すといいかもしれないですね」
「ありがとう。助かったわ」
一応礼を言ってはくれるけれど、完全にこちらを見下した口調だ。たしか、彼女はかなり高位の貴族の娘だ。彼女から見たら、翠珠は格下以外の何者でもないのだろう。
いちいちそこに腹を立ててもしかたないので、一礼して元の位置に戻ろうとする。
そこへ、別の侍女が手を上げて翠珠を呼んだ。
「私にも手を貸してくれるかしら?」
「次は私」
「かしこまりました」
侍女達が次々に手を上げるのに笑顔で返す。全員の手伝いを終えて元の位置に戻ったところで、ひそひそと春永がささやいてきた。
「陛下にお渡しするのに、あなたの手を借りたものでいいのかしら」
「いいんじゃない? 自分で刺してる部分の方が多いんだし。どうせなら気に入った出来のものを渡した方がいいじゃない。陛下も誰が手伝ったかなんてところまでは気にしないでしょ」
皇帝が即位して三年。いまだに妃の一人もいない方が問題だ。
どうせ翠珠が選ばれることはないのだから、早く誰か決めてもらった方がいい。
「あなたの手柄にはならないのに」
「手柄なんて必要ないしね」
春永の方がむくれているのはどういうわけか。
(そっか、志縁様に渡すって思われてたのか……)
それは、完全に想定外だった。
「……それより、春永の方は誰に渡すのよ」
「わ、私は……」
春永の視線がうろうろとさまよう。真っ赤になった彼女は、小声で言った。
「私は、馬医師に……」
「馬医師って……あの、馬医師? よく牡丹宮にいらっしゃる?」
侍医は何人もいるが、翠珠が顔と名前を一致されることができるのは、皇太后が一番お気に入りにしている馬医師くらいだ。他にも同姓の医師がいるかもしれないが、そこまでは把握していない。
「べ、別にいいでしょ! 誰に渡しても……でも、こんな感じで大丈夫だと思う?」
春永の差し出した手巾には、鴛が刺繍されている。仲良く二羽が寄り添っている構図だ。
「うん、上手。さて、私も自分の手巾を完成させちゃおうっと」
慌てて話題をそらす。七夕が過ぎる頃には、きっと何か動きがあるだろう。
父からの連絡を待つしかないのがもどかしい。