父の説得
父と会う前日。
翠珠は、春永を中庭に呼び出していた。この池の側の岩は腰掛けるのにちょうどよく、人目につきにくい。
この宮で働いている者達が、内緒話をするのに使われる場所だ。
「……どうかした?」
「あのね、あなたの家ではお酒を造っているでしょう。お米のお酒も造ってる?」
「ええ。皇太后様が葡萄のお酒を気に入ったでしょ。だから、今後は果実を使ったお酒に力を入れるとは言っていたけれど、お米を原料にしたお酒もやめるつもりはないわ」
これから林檎が収穫できるので、それを使って酒を仕込むらしい。それから蜜柑で作ってみるそうだ。来年は桃を予定しているのだとか。
果実酒は、皇太后だけではなく、貴族の女性達の間で人気となっているそうだ。
「もし、我が家からお米のお酒を作ってほしい。米はこちらで用意すると申し出たら、どうなるかしら?」
その発言に、春永は少し考える顔になる。
「……やってやれないことはないと思うけど。どうかなぁ……」
「では、米を相場より安く売るのでは?」
「それなら、確実ね。必要なら、私が文を書くわ」
春永に話を聞いてもらえてほっとした。
これで、父を説き伏せることができるだろう。
牡丹宮の中には、御用商人と内部の人間が面会するための部屋が設けられている。春永と話をした翌日、父はその部屋へとやってきた。
「お前から、呼び出されるとは思っていなかったよ。この菓子は易様にお渡ししてくれ」
「ありがとう、お父様」
父が持ってきたのは、アーモンドを使った中華風のクッキー、杏仁酥だ。それから、皆にはかりんとうに似ている日持ちする揚げ菓子と、蒸し餅などが差し入れされた。
易夫人に渡すものは、立派な菓子箱に入っているが、宮女達で分ける分は籠にどんと入っている。明日にでも休憩時間に皆に分けることにした。
「それで、今日の用はなんだい?」
「……ええと、その前に、お茶でも」
この部屋には湯が沸いていて、茶の道具もそろえられている。茶をいれてから、陶器の器に注いで父の前に置いた。
「いい茶を使っているな。さすが牡丹宮だ」
「そりゃそうでしょう。あなどられるわけにはいかないもの――それでね、お父様に来てもらったのは耳よりな情報があるからなのよ」
耳寄りな情報、という言葉に、素早く父は反応した。わずかに翠珠の方に身を乗り出す。まるで、一言でも聞き漏らすまいとしているかのように。
「どんな情報だ?」
今まで娘を見て、のんびりとしていた目の色まで変わっている。これが一代にして、財を築いた人間のすることなのだろう。
「……この年は麦が不作になる」
「ああ、そんな話は聞いているな」
「お父様が思っているより、ひどいことになりそうなのよ――それでね、太国から米を買ったらどうかなって提案をしたいの」
「米を? だが、米は粥の時くらいだろう。主食といえば麦で作るものと決まっている」
父が渋い顔になったのも当然だ。この国では、麦を主食としている。
食事の時に出されるのは、小麦粉を水やその他の材料と練って焼いた「餅」や麺類、蒸しパンのようなもの。米といえば、時々粥に使われる以外は、主に酒の材料として使われる程度だ。
「ここでも、もちろん麦が主食よ。お米はお粥くらいなのも変わらない。だから、そこがねらい目なんじゃないかと思うの」
「ねらい目というと?」
「麦が不作になったら、皆ありったけの麦を高い値段で出すでしょ」
不作になりそうだからと言って、今のうちに麦を買い占めるというのも冒険だ。そんなことをしたら、他の商人にも目をつけられる。米はさほど重要視されていないから、皆の目から隠すことができる。
「米ならそんなことはない――そうかもしれないな」
「それに、不作にならなかったとしたら、大量に買い付けた麦があまるでしょう。でも、米なら、お酒にしちゃえばいいのよ」
麦でも酒は作れるはずだが、この国にはその製法は伝わっていない。麦が余ったら、たたき売りする方が選ばれる。
「酒?」
「うん。春永――呂春永の実家は、お酒を作っているでしょ。うちで出来上がったお酒を引き取ればいいのよ。でなかったら、春永の家に安くお米を売ってもいいでしょ。春永の家が無理でも、同業者を紹介してもらうとか、手はあると思う――大きな損はしない。それは彼女にも確認した」
きちんとした計算をしているわけではないが、たぶん大きな赤字にはならないだろうという推測も交えて説明する。
(もっと、家の商売のこと勉強しておけばよかった……)
父は腕を組み、目を閉じて、頭の中でそろばんを弾いているようだ。
商売人である父が、どんな決断を下すか、ひやひやしながら父の答えを待つ。
やがて、目を開いた父は、大きく息をつき、茶のお代わりを所望する。
「お前の提案、考える価値はあるな。たしかに麦を買い付ければ、目立ってしまう。米ならば、他のやつらの目につきにくいかもしれん」
「何か言われても、お酒作りに乗り出すからってごまかせるし。麦が足りないなら、米を食べればいいのよ!」
こちらでの主食は麦だが、隣の太国では米が主食だ。隣国から、おいしい米の食べ方も仕入れて流通させればいい。もち米を混ぜて、ちまき風にしてもいいわけだ。
翠珠ならば、釜で炊いて、おにぎりにしたいところだが、こちらの世界ではきっと知られていない。
「そうだな。やってみる価値はあるか」
父はうんうんとうなずいた。
「お前を後宮に入れてよかったと思うよ」
「そう? それなら、よかった――でもね、お父様」
真面目な顔になって、翠珠は父の目を見つめた。父には、嘘はつけないし、つくつもりもない。
翠珠の言葉を、父はどう受け入れるのだろう。それは少しばかり不安である。
「もし、私が後宮を出たいって言ったら、お父様はどうする?」
「……ここにいれば、貴族の方に見初められるかもしれないぞ?」
「何言ってるの。私を貴族が見初めるなんてないでしょ。それよりは、家でお父様の手伝いがしたい」
「だが、こうやって必要な情報を送ってくれた。私としてはその方がありがたいのだがな」
それを言われてしまうと、翠珠としても弱い。
(……食糧不足を防いだら、皇太后様に今度こそお願いするの)
頭の中に、この国の未来があるわけではない。
翠珠にできるのは、あくまでも前世の断片的な知識から、この国の未来をよりよいものにするだけ。
(たぶん、食料不足、疫病、戦の順だったと思うのよ)
食糧不足で体力を奪われたところに、病の流行。そして、攻め込まれた戦に敗北した――体力がなければ、戦うことなんてできるはずもない。
けれど、それはあくまでも前世の知識。
この世界が、翠珠の思っているように動くかどうかはまた別ものなのだ。
(……いざって時は、実家に逃げられるだけよしとすべきかな)
実家との連絡が、いつでもとれるようになっただけましだろうか。
今、じたばたしてもしかたない。
「ああ、このことは内緒よ。進行状況を手紙に書いてくるとかやめてよね」
「もちろん。他の者に知られるわけにもいかないからな」
翠珠の言葉に父はにやり。
こういう時は、商人らしい顔になる。自分の利益をとことん追求するというか。
それからは、翠珠の同僚達に、それぞれの家から寄せられた近況を父から聞く。父には、皆の様子を語って聞かせる。
そうしているうちに、面会時間は終わりとなった。
「ありがとう。じゃあ、私はもう行くわね」
皆への土産物を抱えて、翠珠は立ち上がる。
そんな翠珠に向かって、父は言った。
「お前がいてくれて、本当によかった」
父からその言葉を聞くことができた。それだけで、十分なのかもしれない。