会社に入ってきた後輩が元カノでした
【登場人物】
大嶺沙良:出版社に入社して二年目。姐御肌タイプ。ちさとと高校の時に付き合っていた。
柳ちさと:沙良の後輩兼元恋人。わりと相手に尽くすタイプ。
「――新入社員の方々のこれからの活躍を祈って、かんぱ~い!」
口々に乾杯の声があがり、座敷にグラスを打ち合う音が響いた。
四月も半ばを過ぎた頃、大嶺沙良の所属する部署で新入社員の歓迎会が行われた。会社全体での大きな歓迎会は五月の中旬にあるがそれより先に予定の合う人達だけて軽くやろうという話になったのだ。
本来であれば入社二年目の沙良はビールを注いで回ったり追加のドリンクを注文したりと忙しなく動き回らなければいけないが、参加人数が十数人とあってはそこまで動く必要も無い。近くの同僚たちと談笑しながらお酒と料理を楽しんでいた。
「お疲れ様ですー」
沙良たちの元に新入社員のひとりがやってきた。
「新入社員の柳ちさとです。是非これからご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いしますー」
ちさとは持ってきたグラスを先輩社員たちに合わせながら笑顔で挨拶をしていく。
「よろしくねー」「私達にはそんなに畏まらなくていいよー」などと言葉を返す同僚たちのなか、沙良だけはどこか神妙な面持ちで「……よろしく」とグラスを合わせた。
その様子にちさとも気付くが何も言わない。そうなる理由に心当たりがあったからだ。
ちさとが目の前で談笑を始めると沙良は「ちょっとお手洗い」と席を立った。通路奥のトイレへと行くと洗面台にハンドバッグを置き、周囲に誰もいないことを確認してから大きく息を吐く。
「よく元カノの前であんな平気な顔して飲めるよね……」
忌ま忌ましげに呟いてから沙良はもう一度深く息を吐いた。
沙良がちさとと出会ったのは高校二年生のとき。
沙良の入っていたテニス部の新入部員としてやってきたうちのひとりがちさとだった。
練習を通じて仲良くなり、休日も二人で遊ぶようになり、高校三年生にあがるときに沙良の方から告白をして付き合い始めた。
けれどその交際は二年も経たずに終わりを迎えた。沙良が志望大学の受験を失敗したことに端を発し、遠距離恋愛になって会える機会も減り、ちさとの受験が近づくほどに連絡もあまり取らなくなり、更にはちさとが家の都合で沙良と同じ大学には進めないことが分かってからは会話が続かなくなることも増えていった。このままではお互いにとって良くない、と悩んだ末に結論付けた沙良がちさとが大学生になる前に別れを切り出したのだ。
別れはしたものの沙良はずっとちさとのことを引きずっていた。大学で新しい彼女が出来そうになってもちさとの顔がよぎって結局付き合うことはなかった。
ちさとと連絡を取ろうと思えばいつだって取れた。だがそれをしなかったのは負い目があったからだ。
(自分で別れておいてどのツラ下げて『ヨリを戻そう』なんて言えるのよ。だったら最初から別れんなって話じゃない)
そうして就活のごたごたと入社してからの忙しさで色恋のことなんか忘れていたときにまさかの再会だ。溜息のひとつやふたつもつきたくなるというもの。
沙良がトイレで暗澹と嘆いていたとき、ちさとはというと座敷で談笑をしながら同じく心の中で嘆いていた。
(私が近くに行っただけで逃げるようにトイレに行くなんて……そんなに私と話したくないのかな……せっかくまた会えたのに)
ちさとも沙良と別れて以降ずっと沙良のことを想い続けていた。まさか就職先に沙良がいるとは思ってもみなかったが、それもまったくの偶然とは言い切れない。出版業界に興味を持ったのは沙良が付き合っていたときにオススメの小説を色々教えてくれたからだ。もしかしたら心のどこかで沙良への未練がこの業界を選ばせたのかもしれない。
そんなに未練があるなら連絡をしてすぐ会いにいけばいいだけなのだが、ちさとは一度も連絡をしなかった。その理由は沙良との関係性にあった。
年齢もひとつ上で部活の先輩でもあった沙良は、いつもちさとを引っ張っていく立場だった。判断に迷ったときに最終的に決めるのは沙良だし、困ったときに頼りになるのも沙良だ。それをちさとは当然のように受け入れ、また尊敬していた。
だから沙良から別れ話を切り出されたとき、胸が張り裂けそうなくらいつらかったのに受け入れた。何故なら最愛の先輩が決定したことだから。自分の気持ちがどうこうではなく沙良の気持ちを優先した。
(今思えばみっともなくてもいいから泣いて縋ればよかったのかなって思うんだけど)
後悔しても時間が戻ることはない。けれど何の運命か幸運かこうしてまた一番逢いたかった人と再会できた。だったら今からまたやり直せばいいじゃないか。
(でも嫌われたらどうしようもないよね……)
ちさとの密かな決意は沙良の避けるような態度に打ち崩されていた。
沙良がちさとを避ける理由は単純で、うっかり変なこと口走って昔付き合ってたことが周囲にバレたらどうしようというだけなのでちさとの懸念は的外れではあったのだが。
挨拶のとき以降二人が会話をすることなく歓迎会は進んでいった。
沙良は座敷の隅の席にいながらもたまにちさとの方を窺ってはすぐに視線を外すというのを繰り返していた。
(ん? ちさとが課長と話してる? 大丈夫かな)
その女性の課長は普段は優しく仕事中も色々気遣ってくれるのだがお酒が入ると業務に対する姿勢や心構えについて熱弁をふるうことで有名だった。それだけならまだいいが、相手の持っているグラスの中身が少しでも減っていればすぐにビールを注ごうとしてくるのだ。無理矢理飲まそうとすることはないので飲むフリをして飲み物を減らさなければ問題ないのだが、新入社員のちさとはそれを知らない可能性がある。もしくは上司に注がれたものは飲まなければと意気込んでしまうか。沙良は去年それで潰れかけた。
どうやらちさとも沙良と同じような考えらしい。課長に注がれたビールを定期的に飲み干してはまた注いでもらっている。
(あのペースじゃ危ないって)
沙良は考える前に行動していた。ウーロン茶を注文するとそのグラスを持ってちさとの方へと向かった。
「失礼します。柳さんが頼んでたウーロンハイです」
「え」
「――あら、柳さんはもう酎ハイいっちゃうの?」
沙良はきょとんとするちさとからビールの入ったグラスを奪うと代わりにウーロン茶を渡した。そのままちさとの隣に座って課長に冗談っぽく話す。
「最近の子は酎ハイの方が好きらしいですよ」
「それは私が年寄りだって言いたいのかしら?」
「いやいやそんな! 私だってビール大好きですし! ――んく、んくっ――ぷは、ということで私が柳さんの代わりにじゃんじゃんビール飲みますよ」
「大嶺さんの歓迎会じゃないのだけど」
「入って二年目なんてまだまだ新人ですから。新人二人に課長のタメになるお話を聞かせてくださいよー」
「しょうがないわねぇ」
特に嫌な顔もせずに課長が沙良のグラスにビールをそそぐ。沙良の横ではちさとがウーロン茶に口をつけたあと目をぱちくりさせ、そして沙良の足に触れた。その意味が『ありがとう』だと気付いて沙良がその手の甲を指でとんとんと叩く。
(こういうやりとり、部活のときもやってたなぁ。みんなにバレないようにどうやって手を繋ぐか、とか)
懐かしさについ笑みがこぼれそうになり唇を引き絞る。あの頃とは違う。これはただ母校の後輩が酔い潰れるのを見ていられなかっただけ。沙良は極力隣を気にしないように自ら進んで課長の話を聞いていた。
ちさとはその横顔をちらと窺いつつ動揺を押し隠している。
(まさか沙良先輩が助けてくれるなんて……私のこと嫌いになったかと思ったんだけどそうじゃない? でもこの人は昔から困ってる子を見たら助けちゃう人だしなぁ……そういう天然たらしなとこにどれだけの後輩がやられたことか……私もその一人なんだけど)
「――柳さんもそう思わない?」
「あ、は、はい、思います思います!」
課長に話を振られてちさとは慌てて同意した。よく聞いてはなかったがこういうときはとりあえず頷いておくにかぎる。
沙良がちさとに目線を向けてきた。『大丈夫?』と心配する眼差しにちさとは微笑みを返す。交わす言葉は少なくても心配をしてくれるその気持ちが何よりも嬉しかった。
(これで沙良先輩がまだ私のことを想っていてくれたら――って考えちゃうのは夢見過ぎだよね)
期待はし過ぎない方が良い。期待すればするほどダメだったときがつらくなるから。
未練を断ち切るようにちさとは沙良に触れたままだった手を戻した。そのぬくもりに名残惜しさを感じながら。
歓迎会が終わると二次会に行くという小人数以外はその場で解散となった。沙良とちさとも帰宅組だ。
それぞれが駅へと向かって歩きだしたとき、ちさとが沙良に近づいた。
「あの、さっきはありがとうございました」
「さっき? あぁ課長と話してたとき?」
「はい。正直結構酔いが回ってて、あのままだとまずいなって自分でも分かってたんですけど……」
「課長と飲むときは無理して飲まなくても大丈夫だから。口つけたフリしてれば無理に勧めてくることもないし」
「はいっ、次からはそうしますね」
…………。
会話に間が空いた。互いに話したいことはあるはずなのに言葉が出ない。
夜の繁華街は騒がしかった。金曜の夜ということもありそこかしこで上機嫌な声があがっている。駅へ向かう同僚たちも二・三人でまとまって歩いているのでよほど耳を澄まさなければ沙良とちさとの会話は聞こえないだろう。
ちさとは小さく深呼吸をしてから意を決して切り出した。
「沙良先輩」
「……外では大嶺さんって呼んで欲しいんだけど……まぁ今は大丈夫か。それでなに?」
「す、すみません。えっと、何でさっき私を助けてくれたんだろうと思いまして」
「その話まだ続いてたんだ」
「すみません……その、てっきり私のこと避けてると思ってたので」
「……別に避けてたつもりじゃ――いや、避けてたのか」
ちさとと付き合っていた頃の話をしたくないというのは罪悪感から目を逸らしたかったのかもしれない。自分から告白して、自分から振っておいて、本来ならちさとと会わせる顔すらないのだから。
「……そりゃあね、昔に色々あったんだから普通に話せっていうほうが難しいよ。ちさとは平気かもしれないけどさ」
「私だって平気なわけじゃないです。でもわざわざ会社で気まずくなることもないじゃないですか」
「正論だけど、私が表情とか態度に出やすいって知ってるでしょ?」
「社会人ならそのくらい隠せるようにならないとダメじゃないですか?」
「うるさい。とにかく、ちさとと話して変なボロが出ないようにする為にはなるべくお互いに関わらない方がいいの」
その言葉に沙良の本心を知る由もないちさとはこう疑ってしまう。『自分との昔の関係を知られたくない相手が会社にいるのでは』と。
「……誰かと付き合ってるんですか?」
「は? なんでそういう話になるのよ」
「元カノが同じ職場にいたんじゃマズい理由があるんじゃないかってことです」
「あのねぇ、今私に付き合ってる人がいようがいまいが私達のことを知られないに越したことないでしょうが」
「やっぱり彼女いるんですね」
「いないっての」
「ウソ」
「いたらなんでこうやってちさとと一緒に帰ってるのよ」
「じゃああれです。家で待ってるんでしょう? 多分大学で付き合い始めた彼女がいるんです」
「だからそんなのいないって。店を出てから今まで私が誰かに連絡してるとこ見た?」
「見てないですけど……」
「それで、高校時代ちさとと付き合ってるときに私が夜に連絡しないことあった?」
「いつも連絡してくれてました……」
「ほら――」
ほらみなさい、と言いかけて沙良は自分がムキになって否定していることに気が付いた。それはつまり、沙良が現在は誰とも付き合っていないことをちさとに伝えたかったからに他ならない。
(厚かましいというか自分勝手というか、そんなアピールしても意味ないでしょうに)
沙良は自らを嘲笑してから話の矛先を変えた。
「そういうちさとはどうなの? 楽しいキャンパスライフで彼女とか作ったんじゃないの?」
冗談めかして言うとちさとがむっと表情を険しくした。
「作ってないです。沙良先輩が最初で最後の彼女ですから」
「あ、そ、そう……」
沙良の戸惑う反応にちさとがしまったと歯噛みした。
(最初で最後の彼女なんて言ったらまだ未練たらたらですって言ってるのとおんなじじゃない。面倒くさい女だと思われたら今以上に避けられるかもしれないのに。私のバカ)
ちさとは失態を誤魔化すために強引に話題をでっちあげた。
「ま、まぁ沙良先輩は私と違ってモテますし、彼女がいなくても仲良くなった女の子たちをしょっちゅう連れ込んでいたのかもしれませんけど」
「じゃあ今から私の家に来る?」
「え?」
「いや、か、勘違いしないでよ。そんな人をすけこましみたいに思われてたんじゃ不名誉だから、ちさとが私の家に来てそういう痕跡がないことを確認しなさいよって意味。女の子が出入りしてるかどうかくらい見たら分かるでしょ?」
「まぁ、たぶん」
「そ、それにこれは二次会みたいなもんだから。他の先輩社員と店に行くより私の家の方が気兼ねなく飲めるじゃない」
「そ、そうですね。それならお邪魔させていただきます」
ちさとが頷くのを見て沙良が内心で息を吐く。
(あぶな……ちさとに誤解されるのがイヤでつい反射的に家に誘っちゃった。っていうかどこが二次会よ。飲みの終わりに家に誘うとか完全にお持ち帰りだっての。そ、そういう風にとられてないよね……?)
沙良が密かに焦っているとき、ちさとは違う意味で焦っていた。
(うわーっ、わーっ、沙良先輩の家! え、ホントに? やった、やったぁ! あ、私今日の下着どんなの履いてたっけ――いやダメダメっ、二次会だって言ってるのに変に色気出して、もし沙良先輩にドン引きされたらどうするの。平常心……こういうときこそ平常心で臨まなければ……!)
ちさとは小さく呼吸を繰り返して心を落ち着かせようとする。
結局二人とも沙良の家に到着するまで自分を静めるのに精一杯で相手の心境に気付くことはなかった。
マンションの三階の角部屋。少し広めの1Kが沙良の住んでいる部屋だ。コンビニで買ってきたお酒とおつまみを折り畳みのテーブルの上に置いてから沙良が周辺を片付け始める。
「ちらかっててゴメンね。ちゃちゃっと片付けるから」
「別にそんな。このくらいちらかってるうちに入らないですよ」
「そう? ちさとの部屋いつも整理整頓されてた記憶あるんだけど」
「あれはお母さんが片付けてくれてただけで私が今住んでる部屋は全然です」
「うそ、そんなのあのとき一言も言わなかったじゃない」
「当たり前じゃないですか。わざわざ好きな人に『私の部屋いつもお母さんが片付けてくれてるから綺麗なんですー』なんて言うわけないですよ」
「まぁ確かに。私もちさとに隠してたことあるし」
「え、なに!? すごい気になるんですけど!」
「大したことじゃないよ」
「大したことなくても聞きたいんです。私だって話したんですから」
うーんと唸りながら沙良が腰を降ろして酎ハイ缶を開けた。ちさともそれに続いて缶を開けたとき、沙良が一口飲んでからぽつりと呟いた。
「ちさとの誕生日にクッキー焼いたの覚えてる?」
「はい、チョコクッキーですよね? すっごく美味しかったですよ」
「あれ、洋菓子屋で買ったやつ」
「えぇーっ!? 沙良先輩めっちゃ自分で作ったって言ってたじゃないですか!」
「いやぁ何回作り直しても納得いくのが作れなくて」
「納得いくとかいかないとかじゃなくて、沙良先輩が作ってくれたっていうのが大事なのに」
「食べてもらうからには美味しくて見た目がいいのを作りたかったの」
「はぁ……私の想い出を返せって感じです」
ちさとは酎ハイ缶をぐいとあおった。
「あのときは喜んでたんだからいいじゃない。もう時効よ時効」
「時効って、たった数年前じゃないですか。だいたい沙良先輩は変なところでこだわり強いんですよ。言わなかっただけで私結構もやもやしてましたからね」
「今になってそんなこと言う!? っていうか別にこだわり強くないし迷惑かけた覚えもないんだけど」
「いやいやそっちこそ何を寝ぼけてるんですか! デートの帰りに良い雰囲気になってキスしようとした私を『あとに取っておきたい』とか言って拒否ったの、忘れたとは言わせませんよ! ファーストキスだったから勇気出したのに!」
「あれは初めてのキスはどっちかの部屋でしたいって思ってたのよ」
「それがこだわりが強いって言ってるんです。普通彼女からキスを迫られて拒否します?」
「拒否じゃなくて後日に延ばしただけ。実際その何日か後に私の部屋でキスしたときは人生で一番幸せな日ですーとか言ってたくせに」
「そ、それはお預けされてたファーストキスをやっと出来たからで――」
「あぁそれで気分が盛り上がって私に迫ってきたわけだ。『沙良先輩……私もう……』って言ってベッドに引っ張っていったもんねぇ?」
「あ、う……」
「あのときのちさとはすごかったなぁ。普段と大違いだもん」
酎ハイ缶を傾けながら沙良がくつくつと笑う。自分が優位と見るやちさとをからかって酒の肴にしようという魂胆だ。
しかしちさとも負けじと反論する。
「大違いだって言うなら沙良先輩だって部活終わりに部室に二人っきりになった途端襲ってきたじゃないですか。盛りのついたお猿さんじゃあるまいし、私あのときホントはイヤだったんですよ。なのに強引にシャツを――」
「異議あり! 二人っきりになったときに色目を使ってきたのはちさとの方だったでしょ! これは誘ってるんだなと思ったから応えてあげただけ!」
「色目なんて使ってませんー! 沙良先輩からただならない視線を感じたから警戒してただけですー」
「ちさともあのとき結構ノリノリだったけどなぁー?」
「拒否したら沙良先輩が可哀想だと思ったから受け入れてあげてたんです」
「受け入れて“あげてた”とか私が自分勝手にやってたみたいな言い分じゃない」
「自分勝手だったじゃないですか」
その言葉の裏には『自分勝手に悩んで自分勝手に別れを告げたくせに』という念がこもっていた。当然沙良にそれを知るすべはない。
沙良がむっと眉間に皺を寄せる。
「あぁそう。じゃあちさとは私の自分勝手な行動にイヤイヤ振り回されてたってわけ」
「……全部じゃないですけど、そういうこともありましたよ」
「へぇふーん、そりゃどうも、私のわがままにイヤイヤ付き合ってくれてありがとうございました」
あてこするような態度にちさともむっとする。
「そういう言い方ひどくないですか」
「どこが? イヤならイヤってちゃんと言わないちさとの方がひどいでしょ。私のことそんなに信用してなかった? ちゃんと言ってくれれば私だって直したのに」
「信用してなかったわけじゃなくて……」
ただ愛する人に喜んで欲しかっただけ。そのためなら自分がちょっとイヤなことくらいどうでもよかった。それ以上に嬉しかったから。
想いと言葉は次々に湧いてくるもののちさとの口からは出てこなかった。言えばきっと止まらなくなる。今のちさとの気持ちも、これまで寂しかった心もなにもかも。だからちさとは口をつぐんだ。
その様子を見て沙良の胸中がかき回される。
(否定するならもっと否定してよ。ちさとにとって私と付き合った想い出はイヤなことばっかりだったの……?)
沙良は不安を振り払うように言葉を吐き出した。
「信用してないのに私と付き合うなんて人が良すぎるんじゃない? 自己主張がしっかり出来ないと仕事のとき大変よ? この仕事は多少押しが強くないと厳しいんだから。大学のときに変な勧誘に引っ掛かったりしてない? 強引に言い寄られたときちゃんと断った?」
沙良としては仕事の話に切り替えて空気を変えようとしただけなのだが、ちさとには最後の言葉が引っ掛かった。
「言い寄られてもちゃんと断りましたっ」
「へぇ、言い寄られはしたんだ」
「……大学のときにですけど」
「男? 女?」
「同じ学科の男の子です」
「ふーん……で、断ったの?」
「はい」
「ホントに?」
「ホントです。なんでそんなに疑うんですか」
「疑ってるんじゃなくて心配してるの。ちさとみたいな子は狙われやすいから」
「別に狙われてないですけど」
「本人が気付いてないだけでしょ。人気の無い場所で二人っきりになったら絶対襲われるから」
「あー沙良先輩がそうでしたもんね」
「私は真面目に心配してるの。飲み会とかで意識なくなるまで飲んで記憶なくしたりしてない?」
「してません! 沙良先輩こそ私のこと全然信用してないじゃないですか!」
「信用じゃなくて心配だって言ってるじゃない。いや別にちさとがどういう大学生活送ってようが私は構わないんだけど」
「私がふしだらな大学生活を送ってたとでも言いたいんですか」
「誰もそんなこと言ってないって。私はちさとを心配して――」
「心配心配ってしつこいです! だったら確かめてみてくださいよ!」
「確かめるってなにを?」
「先輩の家に女性の出入りがないのは確かめさせてもらったので、今度は沙良先輩が私の体を確かめて痕跡がない、か……」
ちさとの熱くなった頭がだんだんと冷静になっていく。今自分はなにを口走ったのか。体に痕跡がないかを確かめる? それがどういう意味に取られるかなんて分かりきっている。
さすがの沙良もちさとの言葉に含まれたものを感じ取ってしまった。
「えっと、ちさと? その、体を確かめてって、あー、本気?」
ちさとの顔がみるみる赤くなっていく。沙良の家に行くにあたって少しだけ期待していたのは確かだが、自分から誘うようなことはするつもりはなかった。おまけに沙良の『もしかして酔っ払ってる?』と言いたげな口ぶりがちさとの恥ずかしさを助長する。
ちさとが咄嗟に思いついた返答は二つ。
ひとつめは『そういう変な意味じゃありません!』と突っぱねる。沙良がいやらしい考えをしているからそう聞こえるのだ、と。
ふたつめは『あはは、冗談ですよ冗談、まさか本気にしちゃいました?』ととぼける。お酒が入りヒートアップしたせいだと言い張ってしまうのだ。
どちらも押し通してしまえば沙良は『そりゃそうだよね』と納得してくれるだろう。
(それでいいの?)
と、ちさとは自問自答する。
イヤならイヤだとちゃんと言って欲しいとは誰の言葉だったか。思えば好きという気持ち以外は自分の気持ちや感情をきちんと沙良に伝えてこなかった。今ここに至っても同じことを繰り返していいのだろうか。月曜からただの会社の先輩後輩という立場に戻っても後悔はしないのだろうか。
「……本気、ですけど」
ちさとは上目使いに沙良を見た。酔っているわけでも勢いで言ったわけでもなく、本当の自分の気持ちだという意思を込めて。
沙良は一度ちさとの視線を受け止めた後、口を開け閉めしたり自らの視線を泳がせたりしてから再びちさとを見つめた。
「……あのさ、人気のない場所でちさとが誰かと二人っきりになったら襲われるって言ったけど、それ、私の実体験なんだよね」
「やっぱり部室のとき襲ったんじゃないですか」
「あのときはちさとと目が合ったから無言で『いい?』って聞いたら『いいよ』って返してくれたの」
「ずいぶん沙良先輩寄りの解釈ですけど」
「だから――今度はイヤならちゃんとそう言ってよ。じゃないと止まらないから――」
沙良がちさとにキスをした。ただ唇を合わせるだけで脳のなかからとろけてくるくらい気持ちが良いのは数年の歳月がそうさせたのか。
「……ん、甘い酎ハイの味。ふふ、昔ちさととキスしたときも直前まで飲んでたものの味してたよね。部活終わりはたいていスポーツドリンク味」
「部活中の水分・塩分補給にキスするのがいいんじゃないかとか提案されて正直それはないと思ってました」
「さ、さすがにそれは冗談だから」
「分かってますよ」
ちさとがくすりと笑うと沙良は再びキスをしてからその唇を首、鎖骨、と徐々に下へと持っていった。ちさとの肌を唇がついばむ度に鼻にかかった声が漏れる。
沙良がちさとのブラウスのボタンを外し始めたとき、ちさとがおそるおそる進言した。
「あ、沙良先輩、その始まったばっかりで恐縮なんですけど……さっきの居酒屋で油とかタバコの匂いがついてると思うので先にシャワー浴びたいなぁ、と」
「……ちさとの方から誘ったくせに?」
「ご、ごめんなさい!」
「なんてね。イヤならイヤって言ってってさっき私が言ったばっかりでしょ」
「沙良先輩……」
「あーでもたまには困らせたり恥ずかしがらせたりしたいかも」
「沙良先輩っ!」
「まぁそこらへんはケースバイケースで。基本的にはちさとを第一に考えるから」
「……はい」
「ということで質問。一人ずつシャワーをさっと浴びるか、二人で浴槽にお湯ためながら入るか、どっちがいい?」
「……二人が、いいです」
ちさとは嘘偽りのない素直な気持ちを沙良に伝えた。
無事に再び付き合い始めた二人だったが、ちさとはある問題に直面していた。
「残業手伝ってもらってごめんね」
「全然大丈夫ですよ。帰るとこ同じなんですから一緒に帰った方が楽です」
「ありがと」
沙良はフロアを見渡した。すでに部署の人間はみんな帰宅しており、ここには沙良とちさとしかいない。
「……ちさと、キスしよ」
これがその問題だ。
会社であろうと外であろうとちさとと二人っきりになった途端に沙良がキスや諸々をねだるようになったのだ。
「誰かが戻ってきたらどうするんですか」
「大丈夫大丈夫。ちょっとだけだから」
「そう言ってちょっとで終わることほとんどないんですけど」
「それに関してはちさとも同罪でしょ。イヤならちゃんと拒否する。拒否しないならエスカレートする。自明の理ね」
「沙良先輩が自重してくれればいいだけだと思います」
「好きだって想いを伝えることは自重しないことにしたの。キスはその手段」
高校の時以上にちさとへの恋慕を示すようになった沙良。そこには別れてからの四年の空白を少しでも埋めたいという想いがあった。ちさともそれは同じだったし、自分の気持ちを隠すようなことはほとんどなくなったのだが。
「……沙良先輩はこだわりが強いんじゃなくて自分の欲望に忠実なだけなんじゃないかって思い始めてきました」
「人間は欲望があるからこそここまで発展したんだと思わない?」
「まぁそうかもしれませんけど」
「ほらほらちさと、うだうだ言う暇があるならキスしよ。それともここでキスするのはイヤ?」
「……イヤじゃないです」
ちさとは椅子の向きを変えると嬉しそうに微笑む沙良にキスをした。
強引なところは相変わらずだが殊更にちさとの意思を確認しようとするところに気遣いを感じられる。
(結局ホントにイヤなことなんてほとんどないんだけど)
ちさとが胸中で独りごちながら苦笑した。
好きという気持ちが大きければ多少のイヤなんて瑣末な問題でしかない。
(あんまりなんでも許しちゃうとそれはそれで沙良先輩の要求がまたエスカレートしちゃうから私がストッパーにならないと)
昔のちさとはただ沙良が喜んでくれればそれでよかった。けれど別れて数年経ち社会人になったからこそそれだけではダメなのだと気付いた。
これから先、十年、二十年を共に過ごしていくのなら、どちらかに無理を強いるのではなく二人ともが笑顔でいられる未来を目指すべきだ。
だから行き過ぎた部分があれば諌めるし、物足りないことがあれば両手を広げて催促する。そうやって理想の恋人になっていくのだ。
「――それじゃ残りの仕事終わらせますか」
「ですね」
キスを終えてからそれぞれパソコンに向き直った。
「でもさ、こうやって二人だけになれるなら残業もアリだなーとか思わない?」
「入社一カ月の新人に社畜への道を勧めないでください」
「違う違う、残業したいわけじゃなくて、もし残業するにしても隣にちさとがいてくれればすぐに元気をもらえるから苦じゃないよねって話」
「私は残業するのイヤですよ」
「えぇー、私と二人っきりなのがそんなにイヤ?」
「そうじゃなくて」
ちさとは一度言葉を切ってからゆっくりと息を吸い込んだ。
「会社の椅子より、あったかいお風呂の中とか、柔らかいベッドの上の方がいいなぁってことです」
これまでのちさとでは決して言わなかった言葉も、今ならつっかえることもなく言える。それが好意であり信頼であると分かっているから。
「ちさと……そうやって私の理性にクリティカルヒットしてこないで……! 絶対わかっててやってるでしょ……!」
「なんのことか分かりませーん。じゃあ沙良先輩の理性が壊れるまえにお仕事終わらせて早く家に帰りましょう。私の方はもう終わりますよ」
「ちさとがいじわるするよぉー……」
泣き言を言いながらもマウスを動かし作業を始める沙良。ちさとも自分の仕事を再開する。
「私のいじわるなんて沙良先輩のに比べたら全然です」
「いつ私がちさとにいじわるしたよ」
「したじゃないですか。四年間も私を放っておきました」
「……その話題を今だすのは意地がわるいと思う」
「そうですね。だからもういっこだけいじわる言わせてください」
「なに?」
「今度は私がイヤって言うまで私から離れたりしないこと。いいですか?」
「……それは保証しかねるかも」
「え?」
「だって、ちさとがイヤって言っても離れられる気がしないから」
「…………」
ちさとはキーボードを打つ指を速めた。
早く仕事を終わらさないと、沙良より先に自分の理性がどうにかなってしまいそうだったから。
終
作中の時期が四月になってしまったんですが書きたくなったので。
破局する瞬間やケンカしている最中を書いたりするのは非常につらいんですが、元鞘に収まるところや仲直りするシーンを書くのはとても好きだなぁと思う今日このごろ。
せめて文章の中でくらいは自分の理想でありたい。
今回試しに書き方を三人称+ふたりの目線織り混ぜにしてみたんですがどうなんでしょう。
一人称で視点をちょくちょく変えるのと比べてテンポや読みやすさはどちらが勝っているのか。
書くのは一人称の方が断然書きやすいんですが。