具現化する言葉と、誰も居ない世界。
「私は今、ここに居る。生きてる」
私が発した言葉の一文字一文字が、真っ黒に塗りつぶされた明朝体になって私の唇からこぼれていく。危うく落ちそうになった文字は、初夏の生ぬるい風が偶然さらってくれて、雲一つ無い青空に向かってゆっくりと昇っていった。ついでに揺れたセーラー服のスカートが、僅かに波打って元の位置へと戻る。
「私は今、ここに居る。生きてる」
また同じ言葉を呟くと、今度は私の真下に落ちた。とん、とん、とん。漢字と句読点とひらがなが入り交じった一四文字の言葉は、コンクリートで舗装された細い歩道の真ん中を仲良く跳ねていく。私は言葉の行く先が気になって、目で文字を追いかけた。
とん、とん、とん。
生き物みたいに動く文字。でも、跳ねる度に少しずつ文字は削られていき、地面に当たる角度も変わっていって、まもなく、全部の文字がバラバラの方向へ飛び散っていった。「る」に至っては運悪く電柱にぶつかって勢いよく爆ぜ、原形をとどめないほど無残な姿になった。私がバラバラになった「る」のかけらを拾い集めているうちに、それ以外の十三文字はどこかへ行ってしまった。
「る」の黒いかけらを集め終えると、供養のために電柱の傍にまとめて置き、私は電柱の横にスカートのまま腰を掛けた。後ろには誰かの家のコンクリートブロックがあって、背を持たれるとひんやりとした感触が伝わってくる。ふと、視界の右端に黄色い何かが映ったことに気付いて、私は何かに目を向けた。一輪のたんぽぽが舗装された道路の隙間を縫って慎ましく咲いている。
「綺麗なたんぽぽ」
思わず発した七文字は、か弱く無防備なたんぽぽの上に降りかかり、ぐしゃりとへたれて茎から折れた。しまった、ああ、やってしまった。こんな時こそ風が吹けば良かった。違う、私がうっかり発言しなければ良かったんだ。私の何気ない一言で、何の罪も無いたんぽぽを傷付けてしまった。たんぽぽを拾い上げる頃には、忌ま忌ましい七文字は、いつの間にかどこかへ消えて無くなっていた。私はつぶれたたんぽぽを拾い上げて、形を整えてあげた。花も少しちぎれてしまったけれど、まだまだ「たんぽぽ」のと言える形だ。セーラー服の胸ポケットに差すと、目線の少し先に「糸」という漢字が落ちていることに気付いた。もしかしたら、「綺」の一部かもしれない。
おとなしい「糸」を親指と人差し指でつまんで持ち上げ、まじまじと眺め、匂いを嗅いでみた。無臭。じゃあ味は?食べられる?糸を口に放り込むと、味はしなかった。でも、噛もうとすると上手に逃げて上手に噛めない。何だか悔しくて、飲み込んでやった。糸の尖った部分が喉につかえて痛い。それでも飲み込んでしまえば、すっきりした。自分が発した言葉が自分の体内に戻ってくる、不思議な感覚。
私は座ったまま、青空を仰いだ。
そういえば、さっきの文字は手のひらサイズだったけれど、もしかしたら文字の大きさも調節できるのかな。
私は好奇心を抑えられなくなって、目の前に向かって思い切り、
「あーーーー!」
と乙女らしからぬ雄叫びを上げてみた。さっきの文字よりも遙かに大きな文字が私の唇から放出され、「あ」がずしんと音を立ててコンクリートにめり込んだ。しかしめり込んだのもつかの間、放出される伸ばし棒に押されて細い歩道の向かいにあるアパートの壁面を突き破っていった。軽い地震かと思うくらいの衝撃で、私は壁に身体をぴったりと寄せて、「あ」と突き刺さったいくつかの伸ばし棒を呆然と見つめた。
胸がドキドキして、この気持ちにどう収拾を付けたら良いか分からない。やってしまったという気持ちと、やってやったという達成感。アパートの一室の壁面を突き破ったはずなのに、住人は出てこない。そればかりか、今、この空間に私以外に人が居る気配が無い。私は立ち上がり、壁面を突き破った「あ」の行方を追ってアパートの一室にお邪魔することにした。「あ」は部屋の住人の家具を突き破って、部屋の中央に鎮座している。恐る恐る近づいて「あ」に触れてみると、思いのほか固かった。
匂いを嗅ぎ、かじってみようと歯で「あ」の一部をくわえてみる。でも、固すぎてかみ砕くことができない。普通の部屋に訪れたオブジェのような「あ」。私は、この部屋の住人になんて謝れば良いのだろう。
えい、もう、逃げてしまえ。大体、こんな非現実的なことが現実で起こる訳が無いんだ。きっとこれは何かの夢。でも、夢だからこそ、もっともっと色んなことを試してみたい。これこそが、若者だけに許された特権、ってやつじゃない?
私は、太陽がさんさんと降り注ぐ蒸し暑い空気を身体の前面で受け止めて、通学路を一人で歩いて行った。誰かに会ったら、その人も私と同じように言葉が具現化するか聞いてみたかったのに、生憎誰にも会わない。やっぱり、夢なんだろうな。これって。大体私、セーラー服姿なのは良いけれど、通学鞄も持ってないし。何でいきなりあそこに立っていたのかもよく分からないし。でも、ここがどこなのかは何となく分かる。私が知ってる世界だから。見慣れた世界。でも、私だけひとりぼっち。親は?友だちは?でも、それを思うと、胸がちくりと痛む。この傷みの訳を思い出そうとすると、私の胃の中で「糸」が暴れ出すから、止めた。ただただ、目の前に続く通学路の道を歩き続け、学校を目指す。
学校は、想像通り静かだった。
「区立・杉山中学校」
ああ、頭痛がする。それでも私は校門をくぐり、中学校の校舎へと足を踏み入れる。私のクラスは三年四組。机の場所はすぐに分かる。教室の窓際の一番後ろの席。他の机は茶色なのに、私の机だけは真っ黒に塗りつぶされて、まがまがしい雰囲気を放っている。机が助けて、と私に言って、私が来るのを待っている。本当は、とても行きたくない。でも、足が自然と吸い寄せられる。
真っ黒な机の上には、赤い文字で「死ね」「ブス」「キモい」と書かれていた。そう、私、いじめられっ子だったんだよね。
「死ね、ブス、キモい」
私が口に出すと、その言葉はぽろりと明朝体で落ちたけれど、刃物のように机を突き破って教室の床に突き刺さった。私がしゃがんでその文字に触れようとしたら、人差し指の指の腹から第一関節の少しした辺りまで縦にスパッと切れて、血が溢れてきた。凄く痛い。でも止血するのも面倒くさくて、私は血を垂れ流したまま机を離れて教室を出た。
「死ね、ブス、キモい」
言われるのは慣れっこだった。反芻するように、その言葉を吐き出す度に、溢れた言葉は鋭い刃物のように廊下に刺さっていく。何度も「死ね、ブス、キモい」と言ったら、面白いほど床にサクサク刺さっていくので、私は歩きながら時折後ろを向いて、罵り三段活用を大いに楽しんだ。そのまま廊下を突き抜けて、屋上を目指した。
学校には屋上があって、普段は立ち入り禁止なのだけれど、裏技を使えばこっそり入ることができる。扉付近に消火栓があって、その扉の裏に鍵が隠してあるのだ。私はその鍵を拝借して、屋上の鍵を開けた。
緑色した地面が一面に広がり、懐かしい気持ちになる。ああ、私はよくここで一人学校をサボったっけ。フェンスの方へ近づくと、私の頭痛はどんどんとひどくなっていき、胸も締め付けられるように痛くなってきた。
大丈夫。我慢する必要なんて無いんだから。今、誰も居ないよ。ここには。
頭痛も胸の痛みも慣れっこだった。何もかも感情を押し殺して生きてこられた。でも、誰も居ないここでは、頭痛も胸の痛みも我慢する必要なんて無い。
編み目のフェンスを掴んで、私は校舎のグラウンドを見下ろした。
「あのね、苦しかった」
か細い声は、小さくか細い文字を生み出した。フェンスの隙間を通り抜け、グラウンドへ落ちていく。でも、途中で風が拾い上げ、グラウンドではないところにどこか飛ばされてしまった。
普段ならどこからとも無く聞こえる生徒の楽しそうな声。先生の声。でも、今、この校舎にはそんな物音は一切排除されている。
そっか。ここには誰も居ないんだ。それなら、こんな校舎、ぶっ壊しちゃえば?どうせ、夢なんだから。
私は、ありったけの思いを込めて、吸えるだけ息を吸った。そして、今まで出したことも無い大声で、こう叫んだ。
「生きたいの、私、本当は凄く生きたい!生きたかったの!誰か、私のことを、ちゃんと見て!見て見ぬ振りをしないで!私を、私として、認めてよ!」
一文字一文字がとてつもない勢いで吐き出されていき、六六文字にも及ぶその文字は、たちまち中学校の校舎を上からとてつもない重さで潰していった。地響きがなり、私も足場を崩して四階建ての校舎と一緒に下へと崩れ落ちていく。せめてたんぽぽが離れていかないように、胸ポケットだけは押さえた。でも、それ以外は、身体がむき出しになったコンクリートですりむけようと、人差し指から血が流れっぱなしでも良かった。
やっと言えたから。誰にも言えなかったこと。あの日、屋上から飛び降りた時にも言えなかったこと。
具現化する言葉と、誰も居ない世界。今まで耐えてきたから、最後の最後で神様が素敵なプレゼントをくれたんだ。
恐怖はなかった。ただただ、幸せな気持ちに包まれながら、土埃に包まれて、私は崩れ落ちていく校舎と共に、深い深いに眠りに落ちた。