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【幕間】『火剣の勇者』にまつわる噂【下】

 夕暮れ時、荒くれ者共が集う安酒場に、一人の男が訪れた。

 男は焦げ茶のローブで全身を包み、顔は目深にかぶられたフードに覆われ、口元以外は判然としない。口元から察するに、老人ではなさそうだ。


 安酒場の客たちのほとんどは酒に夢中で、このローブの男に気付かなかった。気付いた数人も一瞥しただけで、ほとんど気にも留めなかった。別にローブ姿くらい、珍しくもなんともないのだ。

 安酒場の中は喧騒に満ちていた。活気があった。しかしローブの男はそれが気に入らないようだった。あるいは、酔っぱらいの騒がしさに慣れていないだけかもしれない。

 ローブの男はカウンターに着いた。カウンターは彼ただ一人だけだった。彼はカウンター席に着くなり、早速バーテンダーに注文した。


 「『シェリク』を小杯で」


 『シェリク』とはこの世界の果実酒の一種である。透明感のある赤色をしていて、アルコール度数は低く、とても甘い。下戸にも飲みやすい。

 ローブの男の声は少年のように幼かった。しかし、それもここでは珍しいことではない。この世界では年齢の如何にかかわらず、酒を飲むことが許されている。だが、幼童には酒を飲ませないという常識はある。そして、この世界の常識に照らせば、ローブの男はその背格好からして、酒を飲む資格が十分にあった。


 「あいよ」


 バーテンダーは無愛想に返事をした。つるつるの禿頭が灯りによく光っていた。口元に濃い髭があった。よく日に焼けた逞しい腕で、小さな杯を取り出すと、三十秒と経たずに、ローブの男に『シェリク』を差し出した。


 「『シェリク』お待ち」


 代わりに、ローブの男は硬貨を二枚、大きいのと小さいのを一枚ずつカウンターテーブルに置いた。小さい方はチップだ。バーテンダーは大きい硬化をエプロンの左のポケットに、小さい硬化を右のポケットに入れた。


 ローブの男は小さな杯になみなみと注がれた『シェリク』を数秒見つめたあと、手にとって一口だけすすった。すすった後、また数秒杯の中身を見つめてから、一口すすった。二口すすっただけで、彼は一旦杯をテーブルに置いた。それからバーテンダーに小声で話しかけた。


 「――知りませんか?」


 少年の声は喧噪に掻き消されて、バーテンの耳には終わりの方しか聞き取れなかった。


 「はい? なんです?」


 野太いだみ声はぶっきらぼうな言い方と相まって、喧騒の中でよく通った。


 「『混沌の指環(カオス・リング)』というのを知りませんか?」


 ローブの男は意識的に大きな声を出した。そのかいあって、今度はしっかり伝わった。


 「なんですか、その『かおすりんぐ』ってのは?」


 「実は俺もよく知らないんです。そういうものがあるらしくて、それを探してるんですが、なかなか見つからなくて……」


 ローブの男は『シェリク』を飲んだ。今度はすするのではなく、ゴクリと一回喉を鳴らした。


 「あたしも知りませんねぇ。聞いたこともないでさぁ」


 「そうですか……」


 二人の会話はそこで途切れた。ローブの男にしても、バーテンダーにしても、互いにもう話す理由がなかった。


 ローブの男は意を決したように『シェリク』を一息に飲み干した。空になった杯をテーブルにそっと置くと、カウンターを立った。彼は盛り上がっている酔っぱらいの一団へと近づき、声をかけた。


 「すみません」


 突然の来訪者に、一団の座は静まり返った。


 ローブの男は、一座をサッと見回した。荒くれ者たちのテーブルはどこも食い散らかされて汚れるのが相場だが、ここは特に汚かった。食べかす、こぼれた酒が床に点在していた。どいつもこいつも一座の汚れに相応しい荒んだツラをしていた。


 一団の中心人物と思しき男が座を立ち、いかにも不機嫌な表情でローブの男の前に立った。この男は、ローブの男より二十センチ近く背が高い。落ち窪み濁った目がローブの男を威圧した。


 「礼儀がなってないな、目上にはフードを取るんだ」


 鋭く低い声で言うと、男は右手で素早くフードを剥ぎ取った。


 ローブの男の顔が露わになった。フードの下は少年の顔だった。男と少年は親と子ほどの年の差があった。

 だが、それだけの身長差と年の差があっても、少年は全く臆していなかった。睨む目を平然と見返していた。

 少年は幾度の修羅場をくぐり抜けてきた。死にかけたことも何度かあった。それに比べればこの程度のこと、なんてことはない。


 「失礼しました」


 少年は目礼して言った。それはある意味不遜な態度だった。少なくとも、男が望んだ態度ではなかった。しかし、男はそれを咎められなかった。男は少年にただならぬものを感じていた。


少年は本題を切り出した。


 「この中に『混沌の指環(カオス・リング)』を知っている方はいませんか?」


 気がつけば、酒場の喧騒は少しばかりトーンダウンし、多くの客が少年と男たちのやり取りを見守っていた。喧嘩を期待しているのだ。喧嘩は酒のつまみになる。


 「多分、指輪なんだと思います。俺はそれを探してるんですが、見つからなくて」


 男は答えなかった。目は相変わらず少年を睨みつけたままだ。代わりに、座の別の男が立ち上がって言った。

 「アンタ、ひょっとして『火剣』か?」


 少年はその男――細いが、少年よりわずかに背が高く、下卑た目つきの男――を一瞥し、すぐに目を逸らした。


 「お、図星か? たった一人で百を超える魔物の群れを皆殺しにし、双角獣すら瞬きする間もなく軽く葬ったとされる英雄が最近酒場に現れては指輪について聞き回ってる、なんて噂を聞いていたが、まさか本当だったとはな」


 少年は内心で苦笑した。図星といえば図星なのだが、『噂』は思わず笑ってしまうほど、誇張されすぎていて、もはや図星なのかどうか、微妙なところだった。

 下卑た目つきの男の目は、食い入るように少年を見つめ、離れない。


 「黙ってても俺にはわかるぜ? 『目は口ほどにものを言うんだぜ? お前の目は正直に俺の質問に答えてくれた。だが、腑に落ちない点がある。伝説的な強さを誇る男が、こんなガキだなんてな」


 少年は何も言わない。ただ黙って下卑た目つきの男の話を聞いている。


 「いや、俺が聞いた噂だと、『まさにこいつ』って感じだったぜ」


 また別の男が口を挟んだ。その男は声が高く、禿鼠のような小汚い小男だった。


 「歳は十五そこそこのガキで、なんでも『火剣』を使うことは使うらしいが、本当のとこは使いこなせなくて、剣さえろくに扱えないらしいぜ。貴族の女との決闘も、魔物を退治したのも、双角獣を倒し、領主の娘に気に入られたのも、ただ単に運が良かっただけだって聞いたぜ。ただ偶然上手くいったのをいいことに、自分で自分に都合の良い『噂』まで流してやりたい放題、悦に浸ってるションベン野郎だって話だが、どうなんだ?」


 禿鼠のような男は下品に顔を歪ませて笑った。一座の連中が皆、ドッと笑いを上げた。


 少年は内心ドキリとした。禿鼠の言った『噂』は初耳だった。それもそのはず、その噂はたった今、禿鼠がでっち上げたものだった。つまり、禿鼠は嘘で少年を貶め、からかったのだ。

 だが、禿鼠のでっち上げは、『嘘から出た真』と言っていい部分があり、少年が聞いた自らの『噂』の中では一番、少年が思う少年自身の実像に近かった。少年は自分に都合の良い『噂』を流してはいないし、やりたい放題もしていないが、『運が良いだけ』、という点はズバリ的中していた。


 「いやいや、悪かったな。アイツは口が悪いんだ。気にしないでくれ。俺もアンタが『火剣』だということは疑っちゃいない。俺の特技でね、目を見りゃわかるんだ。これにかけては絶対の自信がある。俺が気になるのは『噂』の方なんだよ。『噂』ってのは不思議なもんでね、証拠も根拠もないくせに、やたらと信じられてしまうもんなんだよ。『噂』は『噂』でしかなく、真実とは限らないにも関わらずな。ま、それが『噂』の良いところでもあり悪いところでもあるんだがな。まぁ、何が言いたいかっつーと……、アンタ、本当に強いのかい?」


 下卑た男の目つきが突然、鋭くなった。


 「やめろプラッツ!」


 少年の眼の前に立っていた長身の男が、いち早くそれに気付いた。

 だが、静止は間に合わない。下卑た目つきの男、プラッツはもう剣を抜いていた。


 プラッツには打算があった。『噂』の英雄を殺せば、また『噂』が流れる。それはプラッツが主役の『噂』になるはずだ。『火剣』より強い男、プラッツの『噂』が語られるはずだ。荒くれ者の界隈では強さこそが全て。『火剣』を倒し、またその『噂』が広まるということは、界隈での地位や名声が高まるのは間違いない。上手くすれば彼の所属する一党のトップにも立てるだろう。いや、それ以上の地位すら夢ではない。


 プラッツは少年目掛けて切っ先を突き入れた。素人のそれではない、かなり手慣れていた。

 少年は突きをボクシングでいうところのスウェーバックでかわし、かわすと同時に、床に落ちていた大量の食べかすと酒を蹴り上げた。蹴り上げられたそれらは塊となって、プラッツの目を襲った。

 プラッツの目に激痛が走った。アルコールを含んだ食べかすは強力な目潰しとなった。あまりの痛みに目を開けることすらままならない。視界ゼロの恐怖に、プラッツは闇雲に剣を振り回す。


 直後、プラッツは強烈な熱さに身を包まれた。


 「うわあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 身体を包む熱、即ちそれは『噂』の『火剣』。火に巻かれ、その上視界ゼロとくれば、誰でもパニックに陥いるは必定。プラッツは焼死の恐怖と絶望に、正常な判断力を失った。

 が、全身を包み込んだ強烈な熱さはほんの一瞬だけで、すぐにおさまった。だが、パニック状態のプラッツはそのことに気付かない。ただ剣を振り回す。


 「落ち着けプラッツ!」


 怒声、続いて、頬に強烈なビンタをプラッツは受けた。凄まじいビンタに彼は床に転げた。だが、ビンタの痛みのおかげで、彼はパニックから脱した。


 「プラッツ、お前はもう負けている」


 少しだけ落ち着きを取り戻したプラッツが痛む目を擦りつつ開けると、目の前には彼のボスである長身の男が立っていた。その背後に少年は立ち、プラッツを見下ろしていた。少年の手には、ボロボロに錆びた短剣が握られていた。


 腰を抜かし、怯えた目のプラッツに少年は冷たい一瞥をくれ、短剣をローブの中にしまうと、踵を返して酒場を出ていった。酒場にいた人間は、その姿を唖然として見送るだけだった。

 少年が酒場から姿を消した後、長身の男はプラッツを軽蔑の目で見下ろし、吐き捨てるように言った。


 「プラッツ、お前は俺たちの仲間にふさわしくない。どこへなりとも消えろ」


 そう告げるなり、まだ呆然としているプラッツを残し、かつてのボスと仲間たちは酒場を出ていった。

 プラッツは仲間を追いかけようと立ち上がった。その時、ようやく彼は自分が全裸になっていることに気がついた。身体には所々小さな軽いやけどを負っていた。


 プラッツはハッとなった。『火剣』にまつわる『噂』の一つを思い出した。


 『火剣』は、ジュリエッタの身体を傷つけること無く、その服だけを燃やしてしまったという『噂』。


 『噂』の真相を体験してしまった衝撃は計り知れないものがあった。プラッツはショックのあまり手に握っていた何かを取り落とした。彼は虚ろな視線をそれに向けた。それは丁字型のなにかだった。彼は一瞬、それが何であるかわからなかったが、すぐに理解した。それは彼の剣の変わり果てた姿だった。剣は刀身部分を完全に失い、残った部分もバターのように溶け、固まっていた。


 プラッツはガックリと肩を落とし、生気を失った青い顔でトボトボ力ない足取りで酒場を後にした。

 その晩、プラッツはひっそりと街を出ていった。やがて、屈辱の『噂』が広まることを彼はよく理解していた。根が卑しく小心者のくせに尊大なプライドをもつ彼が、これからの人生を平穏な気持ちで生きていくためには、『噂』の届かない、どこか遠くへと逃げ落ちる必要があった。


 一方、酒場の連中の度肝を抜く、圧倒的な勝利を収めたローブの少年はというと、今の彼もまた、穏やかな心持ちではなかった。

 というのも、あの勝利は少年の意図し、思い描いたものではなかったからだ。


 プラッツの突きをかわそうとした際、少年は落ちていた酒やら食べかすの溜まりに足を滑らせてしまった。それが偶然にもスウェーバックの形になり、幸運にも凶刃から逃れることができた。

 足を滑らせたその勢いで、酒と食べかすの塊がすっ飛んでいき、プラッツの目を襲った。

 こういうときのためにローブの中で握っていた短剣を取り出し、『火剣』を起動したのはいいが、足を滑らせてしまったためにバランスを崩してしまっていた。踏ん張ろうと足を踏み出した先にもまた酒と食べかすの溜まりがあり、やはり勢いよく踏みつけ、また一層バランスを崩し、今度はその勢いに乗って、プラッツに向かって飛びかかってしまった。

 それが幸運にも、目をやられて暴れるプラッツの剣と『火剣』がかち合い、剣を溶かし、その勢いのまま、プラッツの服だけを燃やし尽くした。


 『火剣』がプラッツの服に触れたその瞬間、『火剣』を解除するという機転を少年が利かせなければ、プラッツは骨も残さずあの世に旅立ったに違いない。

 全ての偶然は淀みなく、流れるように連なり重なった。それは見ている者の目には偶然には見えず、必然としか映らなかった。だから酒場の連中は誰一人、少年の力量を疑わず、また彼のしたことに唖然とするしかなかったのだ。


 つまり、勝利は全くの偶然であり、まぐれであり、幸運の産物だったのだ。


 ゆえに、家路をたどる少年の心臓が未だに落ち着かないのも無理はなかった。

 少年は、近頃ようやく自分が飛び抜けた幸運の持ち主であることを自覚しつつあったが、かといってそれを積極的に活用しようなどとは思わなかった。


 『運』はどこまでいっても『運』に過ぎない。目に見えないし、確認することも難しい。そんなものに自信を持つのは難しい。


 家路について五分、ようやく彼の心は落ち着きを取り戻し始めた。

 慣れていない人間なら決闘の後、その日一日は落ち着いていられないだろう。下手をすれば数日は興奮冷めやらないかもしれない。

 だが、少年も幾度の修羅場をくぐり抜け、身も心も強くなりつつあった。並の人間では到底生きられないような死線さえ超えてきている。強くならないわけがない。


 今、巷間を流れる『火剣の勇者』の『噂』は、少年の実像とはかけ離れている。しかし、『強さ』の一点において少年は確実に『火剣の勇者』に近づきつつあった。だが、少年はそのことを知らない。



 以上が『噂』によって引き起こされた一つの事例だ。

 この一件も、瞬く間に『噂』となって広がった。


 『噂』はやはり尾ひれ背びれが付き、新たな『火剣の勇者』伝説として巷間を賑わした。

 おかげで少年はしばらく酒場に行くのを断念しなければならなかった。『噂』を鵜呑みにした、あらゆる意味で『火剣の勇者』を狙う老若男女が酒場に押しかけ、待ち伏せする事態となったからだ。

 少年が、自分に絶対の自信があり、承認欲求と自己顕示欲が旺盛なら、この事態は願ってもない事態だろうが、あいにく少年は目立つことを好まなかった。何よりこの前の一件で、『火剣の勇者』は生命を狙われかねない存在であることを痛感していた。


 というわけで、『噂』が消えるまで、少年はおとなしくしていることにした。

 しかし、結論から言ってしまえば、それも無駄に終わる。

 なぜならこの作品は『火剣の勇者』である少年が活躍するお話だからだ。

 活躍すればするほど、『噂』は広まり、また『噂』から逃れられなくなるのが、有名人の辛いところである。

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